『源氏物語』に登場する桐壺帝は、
主人公・光源氏の父帝という立場で
物語中において大きな存在感を放っています。
この記事では、桐壺帝がどんな人だったのか
現実世界の誰をモデルとしているのか
詳しく解説しています。
・桐壺帝のモデルは誰か
・家系図・性格・容姿・年齢
・エピソード集
・いつ崩御したか
この記事を読むことで、
桐壺帝のことをバッチリ把握することができます!
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桐壺帝のモデルは一条天皇?家系図つきで解説
桐壺帝のモデルは、
一条天皇および醍醐天皇
ではないかと言われています。
それぞれ、詳しく説明していきますね。
モデル①一条天皇
一条天皇は、『源氏物語』が書かれた時代に
即位していた天皇です。
なぜ、一条天皇が桐壺帝のモデルと
言われているかというと、
物語中の桐壺帝と桐壺の更衣の関係性が、
史実としての一条天皇と定子の関係性に似ているからです。
次の図を見て下さい。
桐壺帝は桐壺の更衣を寵愛していた。
2人の間には男皇子(光源氏)が誕生する。
桐壺の更衣は父親が他界しており、
後ろ盾が弱い。
桐壺の更衣は光源氏が3歳の頃に病死する。
一条天皇は定子を寵愛していた。
2人の間には男皇子
(敦康親王)が誕生する。
定子は両親ともに他界しており、
後ろ盾が弱い。
定子は敦康親王が2歳の頃に病死する。
桐壺帝 = 一条天皇
桐壺の更衣 = 定子
光源氏 = 敦康親王
という構図に見えます。
紫式部は、
一条天皇と定子の関係をモデルとして、
『源氏物語』の冒頭部分を書き始めた可能性がある
ということです。
ただし、
敦康親王と違って光源氏は臣籍降下しているし、
定子が皇后だったのに対し、
桐壺の更衣は更衣どまりでした。
『源氏物語』が現実から離れて
あくまでフィクションとして
書かれていることに注意してください。
モデル②醍醐天皇
醍醐天皇が桐壺帝のモデルであるという説も根強いです。
根拠1.桐壺帝も醍醐天皇も天皇親政である
『源氏物語』を読んでいると
「関白」や「摂政」といった役職が登場しない
ことに気づくでしょう。
つまり、桐壺帝は、天皇自ら政治を行う
親政を行っていたということになります。
紫式部が生きた時代は、
藤原氏が「関白」「摂政」を歴任して
政治的な権力を握っていましたから
桐壺帝の時代のモデルは、別の時代だということになります。
『源氏物語』の桐壺帝の御代は
醍醐天皇の時代をモデルとしている可能性があります。
醍醐・村上天皇の治世は、天皇親政であり
王朝政治・王朝文化が最盛期となった
理想の時代として「延喜・天暦の治」と呼ばれ、
紫式部の生きた時代には聖代として賛美されていたのです。
醍醐天皇の時代には
藤原時平・菅原道真を左右大臣として政務をまかせており、
桐壺帝の御代で左大臣と右大臣が
強い存在感を放っていたのと合致します。
根拠2.桐壺帝も醍醐天皇も大勢の妃がいた
醍醐天皇の時代に後宮が栄え、
多くの女御・更衣がひかえていたことも
桐壺帝に似ていますね。
桐壺帝は、物語冒頭にも書かれているように
たくさんの妃を持っていました。
【原文】
『源氏物語』桐壺の巻より引用
いづれの御時にか、 女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、 いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
【現代語訳】
どの帝の御代であったか、女御や更衣がたくさんお仕えなさっていた中に、たいして高貴な身分ではない方で、特別にご寵愛を得ていらっしゃる方がいた。
村上天皇の後宮も10人と多かったですが、
醍醐天皇は中宮の他に16人も妃がいました。
根拠4.即位の順番が同じ
さらに次の図を見てわかるように、
醍醐天皇の次の天皇が
中宮穏子の長男・朱雀天皇で、
その次が次男の村上天皇だったのと同様に、
『源氏物語』も兄弟の順番で御代が移り変わっています。
「朱雀天皇」という名称もかぶっているし、
村上天皇の皇子に「冷泉天皇」という
名前が見られるのも
『源氏物語』との共通点となっています。
また、醍醐天皇には源高明という
臣籍降下した皇子がおり、
光源氏のモデルではないかとも言われています。
醍醐天皇 = 桐壺帝
源高明 = 光源氏
という構図が成立します。
源高明については、こちらの記事で
少し詳しく説明しました。
根拠5.桐壺帝が宇多天皇の訓戒書を遵守している
桐壺帝が宇多天皇の訓戒書である
『寛平御遺誡』の内容を守っているという記述も
大きなポイントとなります。
【原文】
『源氏物語』桐壺の巻より引用
そのころ、 高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを 聞こし召して、 宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡めあれば、いみじう忍びて、この御子を 鴻臚館に遣はしたり。
【現代語訳】
その当時、高麗人が来朝していた中に、優れた人相見がいたのを(桐壺帝は)お聞きあそばして、内裏の中に(高麗人を)招き入れることは宇多帝の御遺誡があるので(できず)、非常に人目を忍んで、この御子(光源氏)を鴻臚館にお遣わしになった。
宇多天皇とは、醍醐天皇の父親です。
『寛平御遺誡』は宇多天皇が
息子の醍醐天皇のために
天皇としてのふるまいや儀式について書き残した教訓集です。
桐壺帝は
「宇多の帝の御誡め」=『寛平御遺誡』
を守って、外国人を内裏の中に入れなかったということです。
根拠6.桐壺帝は醍醐天皇同様、死後に地獄に落ちている
また、「明石」の巻では、
桐壺院が死後に光源氏の夢に現れ、
「おのづから犯しありければ」
(知らず知らずのうちに犯した罪があったので)
と語り、「死後はその罪を償うので忙しい」と述べています。
『北野文叢』所収『日蔵夢記』に、
醍醐天皇が生前犯した5つの罪のために
地獄に落ちたという内容の記載があります。
①菅原道真が左遷された後、弁護しにきた父宇多上皇に険しい道を歩かせ心神を困苦させた罪
②自身は高殿にいながら、父宇多上皇を地面に座らせ悲しませた罪
③罪のない賢臣を左遷にした罪
④⑤左遷の恨みを買って天変地異を引き起こし、国土・人民を疲弊させた罪
紫式部は、
醍醐天皇堕地獄説話を知った上で、
死後の桐壺院に
「生前罪を犯したので、今は罪を償っている」
と語らせたのでしょう。
なぜ一条天皇と醍醐天皇をモデルにしたか
個人的な考えですが、
当時の読者が『源氏物語』の冒頭を読むと
状況設定からどうしても
一条天皇がモデルだと思われてしまうため、
フィクションとしての『源氏物語』を
保持するために
わざと時代設定を醍醐天皇の時代に
ずらす必要があったからだと思います。
『源氏物語』は
あくまで紫式部の創り上げた作り物語でした。
紫式部は当時の貴族社会で誰もが知っていた
一条天皇と定子の悲劇を思わせるエピソードを
冒頭部分に取り入れることで、
読者の興味を強くひきつけることに成功したのです。
ただし、
いつまでも一条天皇と定子にとらわれていては
フィクションとしての『源氏物語』が成立しづらくなります。
そこで紫式部は時代設定を100年以上前である
醍醐天皇の時代に据え、一条天皇の時代ではない
というメッセージを読者に送ることで
それ以降の物語をフィクションとして
自由に展開させていったのでしょう。
桐壺帝ってどんな人?性格や年齢、容姿を解説
この項では、桐壺帝について、
もっと詳しく掘り下げて解説しますね。
桐壺帝 周辺の相関図
まず、桐壺帝の周辺の相関図を紹介します。
『源氏物語』全体の相関図は、
こちらを参考にしてください。
桐壺帝:主人公・光源氏の父親。
桐壺の更衣を深く愛し、光源氏が誕生する。
桐壺の更衣が亡くなった後は、
顔のよく似た藤壺の宮を入内させて愛する。
「桐壺」の巻~「賢木」の巻まで登場。
亡くなった後も、光源氏と朱雀帝の
夢の中に登場する。
桐壺の更衣:主人公・光源氏の母親。
身分は高くないが美しい女性で
桐壺帝の愛を独り占めにする。
嫉妬した弘徽殿女御からいじめを受ける。
息子の光源氏が3歳の頃に病死する。
藤壺の宮:先帝の内親王(第四皇女)。
桐壺の更衣の死後に入内し、
桐壺帝から寵愛を受ける。
光源氏の初恋の人であり、後に密通し
冷泉帝を出産する。
実際は光源氏との子であるが、
桐壺帝の子であると嘘を突き通す。
中宮にまで昇りつめる。
光源氏:『源氏物語』の主人公。
実母・桐壺の更衣に似ている藤壺の宮に
幼い頃から恋愛感情を抱く。
18歳の夏に藤壺の宮と密通を果たし、
罪の子が産まれてしまう。
光源氏は罪の心に苛まれながら
その後の人生を送る。
弘徽殿女御:桐壺帝の后であり、
朱雀帝の母親である。
後から入内してきた桐壺の更衣に嫉妬し、
陰湿ないじめを仕掛ける。
藤壺の宮と光源氏に対しても敵対心を抱く。
冷泉帝:光源氏と藤壺の宮の子であるが、
表向きは桐壺帝と藤壺の宮の子とされている。
朱雀帝の後継として即位する。
藤壺の宮の死後に僧都から真実を知らされ
光源氏に皇位を譲ろうとするが拒否される。
朱雀帝:桐壺帝と弘徽殿女御の子。
桐壺帝の後継として皇位につく。
光源氏が須磨・明石に追放された際には
朱雀帝の夢に桐壺帝が出てきて
睨みつけられている。
先帝:藤壺の宮の父親。
桐壺帝との血縁関係は不明。
典侍が先帝から三代にわたって仕えている
という記述から、
桐壺帝の二代前の天皇だったと思われる。
先帝 ⇒ 一の院 ⇒桐壺帝
\その他の登場人物はこちらの記事で解説/
桐壺帝には多くの弟・妹がいました。
桃園式部卿宮や大宮、前の東宮は桐壺帝の弟、妹です。
大宮は左大臣と結婚し、
頭中将や葵の上を出産しました。
光源氏にとって友人・頭中将と妻・葵の上は
いとこの関係性になります。
桐壺帝の性格
桐壺帝は、
穏やかで愛情深い性格として描かれています。
以下、具体的に解説していきますね。
穏やかな性格
桐壺の更衣の死後、
意地の悪い弘徽殿女御は、悲しむ素振りも見せず
月夜に音楽の合奏をさせて楽しむ有様でした。
桐壺帝は不愉快に感じながらも
弘徽殿女御を咎めたり、怒ったりすることはありませんでした。
また、藤壺の宮が光源氏そっくりの子どもを
出産したときも、密通の事実には気づかず、
【原文】
『源氏物語』紅葉賀の巻より引用
「 御子たち、あまたあれど、 そこをのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。されば、思ひわたさるるにやあらむ。いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、皆かくのみあるわざにやあらむ」
【現代語訳】
「御子たちは大勢いるが、あなた(光源氏)だけを、このように幼い時から明け暮れ見てきた。それゆえ、思い出されるのだろうか。(赤ん坊と光源氏は)とてもよく似て見える。とても幼い時期は皆このように似ているのだろうか」
と呑気に発言します。
桐壺帝は怒ったり疑ったりしない
穏やかで平和な性格でした。
鋭さは感じられず、少し愚鈍な印象さえ受けます。
愛情深い
桐壺の更衣、藤壺の宮、光源氏に対しての
桐壺帝の愛情は格別でした。
桐壺の更衣への寵愛は、周囲の官僚や世間から
非難されるほどの深さでした。
桐壺の更衣にそっくりの藤壺の宮にも
深い愛情をかけており、
妊娠・出産時には非常に喜んで、
「早く子どもが見たい」とせがむ様子が書かれています。
光源氏のことも
幼い頃から格別に可愛がっています。
源氏が試楽で舞った青海波が
あまりに美しかったので
神に魅入られるのではないかと心配して
寺に御誦経をさせるほどの溺愛ぶりでした。
女好きな一面も
桐壺帝には、女好きな一面もありました。
宮中には桐壺帝の趣味で
女御・更衣のみならず、
采女、女蔵人など容姿や気立てのよい女性が
たくさん集められていたのです。
【原文】
帝の御年、ねびさせたまひぬれど、かうやうの方、え過ぐさせたまはず、 采女、女蔵人などをも、容貌、心あるをば、ことにもてはやし思し召したれば、 よしある宮仕へ人多かるころなり。
【現代語訳】
帝は、かなりお年をおとりになっていたが、このような方面は、無関心ではいらっしゃれず、采女、女蔵人などの容貌や気立ての良い者を、格別に引き立ててお目をかけなさっていたので、教養のある宮仕え人の多いこの頃である。
「かうやうの方(このような方面)」とは
女性関係のことです。
光源氏と老女・源典侍が戯れているのを
障子の隙間から見て、
「不釣り合いな恋人だね」と笑うシーンもあり
朗らかさや人間らしさも垣間見えています。
桐壺帝の容姿
物語中で、
桐壺帝の容姿に言及している箇所はありません。
桐壺の更衣や光源氏の美貌については
しっかり語られていますが、
桐壺帝の容姿は書かれていないのです。
ただし、
息子の光源氏が絶世の美男であることや
桐壺帝の妹の大宮も容姿が綺麗だったと
書かれているので、
血縁である桐壺帝も端整な顔立ちだったと想像できます。
桐壺帝の年齢
桐壺帝の年齢は不明です。
物語中に、年齢がわかるような記述がないのです。
ただし、光源氏が誕生する前に
桐壺帝はすでに弘徽殿女御との間に
一男二女をもうけており、
3児の父親となっていました。
光源氏が誕生した頃には、
まだ20代~30代前半だったのではないかと
推測されますが、あくまで推測にすぎません。
桐壺帝のエピソード集
『源氏物語』本文中で印象に残る
桐壺帝のエピソードを3つ紹介します。
桐壺の更衣への溺愛
桐壺帝は、妃の一人である桐壺の更衣を
格別に寵愛していました。
世間の人々は、楊貴妃と玄宗皇帝の例まで
引き合いにだして、「このままでは国が亡びるのでは?」
と心配するくらいでした。
桐壺の更衣は、あくまで妃であって
女官として召し使うほど
身分の低い女性ではなかったのですが、
桐壺帝があまりに呼び出すので、
軽々しい身分のように見えてしまう程でした。
さらに、
桐壺の更衣が弘徽殿女御などから
陰湿ないじめを受けていると知った桐壺帝は、
清涼殿に隣接する後凉殿を桐壺の更衣に与えて使わせます。
後凉殿に前からいた更衣は、他の部屋に移されて
しまったため、当然、その更衣は、桐壺の更衣を深く恨みました…。
天皇は後宮にいる女性を平等に愛する責務を負っていましたが、
桐壺帝の愛は桐壺の更衣一人に
集中したため、
他の妃の嫉妬や恨みは煽られ、
世間を心配させたのです。
桐壺の更衣がなぜ帝から
深く愛されたのか?については
こちらの記事で詳しく解説しています。
崩御の直前に残した遺言
桐壺帝は息子の朱雀帝に皇位を譲り、
その翌年の10月に崩御しています。
桐壺院は崩御の前に、
朱雀帝に対して次のような遺言を残しました。
【原文】
賢木
「 はべりつる世に変はらず、大小のことを隔てず、何ごとも御後見と思せ。齢のほどよりは、世をまつりごたむにも、をさをさ憚りあるまじうなむ、見たまふる。かならず 世の中たもつべき相ある人なり。さるによりて、わづらはしさに、親王にもなさず、ただ人にて、朝廷の御後見をせさせむと、思ひたまへしなり。その心違へさせたまふな」
【現代語訳】
「在世中と変わらず、事の大小に関わらず、何事も(光源氏を)ご相談相手とお思いなさってください。(光源氏は)年齢が若い割には政治を執るにしても、少しも遠慮するところがない人と、拝見している。必ず世の中を治める相のある人である。であるからこそ、煩わしく思って、(光源氏を)親王にもなさず、臣下に下して、朝廷の補佐役とさせようと、思ったのだ。その考えにお背きなさいますな」
桐壺院は光源氏を格別に愛し、
能力を評価していたので、朱雀帝に対して
「今まで通り朝廷で光源氏を重用するように」
と言い残したのです。
ところが、
光源氏は朱雀帝の母・弘徽殿大后と
祖父・右大臣の策略により須磨に追放されてしまいます。
光源氏の追放を止められなかった朱雀帝は
桐壺院の遺言に背いてしまったのです。
死後は光源氏・朱雀帝の夢の中に出現
桐壺院は死後、「明石」の巻にて
光源氏と朱雀帝の夢に出現しています。
光源氏の夢に出現した桐壺院
光源氏は追放先の須磨にて、
大嵐に見舞われ、命の危機にさらされます。
住吉の神や龍王、
八百万の神々に祈りを捧げたところ
嵐は段々とおさまっていきました。
その夜、光源氏がまどろんでいると、
桐壺院が夢の中に姿を現し、次のように言ったのです。
【原文】
『源氏物語』明石の巻より引用
「 など、かくあやしき所にものするぞ」
(中略)
「 住吉の神の導きたまふままには、はや舟出して、この浦を去りね」
【現代語訳】
「どうして、このような見苦しい所にいるのだ」
「住吉の神がお導きになるのに従って、早く船を出して、この浦を去りなさい」
桐壺院は、須磨の浦から早く去れと
光源氏に対して命じたのです。
光源氏が、
「私はこのまま須磨で死ぬのではないかと思う」
と弱音を吐くと、次のように語り出します。
【原文】
『源氏物語』明石の巻より引用
「 いとあるまじきこと。 これは、ただいささかなる物の報いなり。 我は、位に在りし時、あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を 終ふるほど暇なくて、この世を 顧みざりつれど、 いみじき愁へに沈むを見るに、堪へがたくて、 海に入り、渚に上り、いたく 困じにたれど、 かかるついでに内裏に 奏すべきことの あるにより なむ、急ぎ上りぬる」
【現代語訳】
「実にとんでもないことだ。これは、ちょっとしたことの報いである。わたしは、帝として在位中に、過失はなかったけれど、知らないうちに犯した罪があったので、その罪を償うのに暇がなくて、この世を顧みなかったが、(あなたが)たいへん苦しんでいるのを見ると、堪えられなくて、海に入り渚に上がり、ひどく疲れたけれど、このような機会に、(朱雀帝に)奏上しなければならないことがあるので、急いで都に上るのだ」
桐壺院は、生前犯してしまった罪があって
死後はその罪を償うのに忙しかったけれど、
朱雀帝に言わなければならないことがあって来た
と言っています。
⇒桐壺院の犯した罪については、こちらで解説しました。
翌朝、明石の入道の舟が光源氏を迎えにきて
桐壺院が夢で命じた通りに須磨を去ることになります。
源氏はその後、明石で出会った女性(明石の君)
との間に娘をもうけます。
後にその娘は入内して中宮となり、光源氏の栄華は極まるのです。
桐壺院の死霊の助言が、
光源氏を栄華に導いたということになります。
朱雀帝の夢に出現した桐壺院
同じ頃、雷が鳴り響き、雨風の激しい夜に、
朱雀帝は、亡くなった父桐壺院が
清涼殿の階段のところに立ち、
機嫌の悪そうな顔でこちらを睨みつけている夢を見ます。
朱雀帝は、睨みつける桐壺院と
目を合わせたことで眼病を患ってしまいました。
朱雀帝は、天変地異や病気は
光源氏を須磨へ流したことの報いなのだと悟り、
光源氏を都に呼び戻すのです。
桐壺帝は、光源氏の密通を知っていた?
光源氏は、桐壺帝の后である藤壺の宮に
熱い恋心を抱き、密通してしまいます。
藤壺の宮は光源氏との子を妊娠して出産しますが、
表向きには桐壺帝との子として育てます。
桐壺帝は、光源氏と藤壺の宮との禁断の関係を知っていたのか?
冷泉帝が、実は光源氏との子だと知っていたのか?
このテーマはよく議論されることですが、
私は、桐壺帝は、最後まで知らなかったと思います。
なぜなら、桐壺帝が「知っていた」ことを
ほのめかすような文章が一つも見当たらないからです。
気になる文章もあるにはあります。
いとあるまじきこと。 これは、ただいささかなる物の報いなり。
(実にとんでもないことだ。これは、ちょっとしたことの報いである。)
須磨に追放された光源氏の
夢の中に出てきた死後の桐壺院の言葉です。
⇒言葉の全文はこちらで引用しています。
桐壺院は、
光源氏が須磨に追放されたのは、
ちょっとしたことの報いだと言っています。
この「ちょっとしたこと」を
密通のことだととらえる人もいますが、
父帝の后と密通して、子を設けることは
とても「ちょっとした」罪だとは思えません。
藤壺の宮は、
奥ゆかしく用心深い性格の人だったので、
桐壺院に気づかれないように気を付けていたことでしょう。
以上のような理由から、
桐壺院は、光源氏と藤壺の宮の密通を
知らなかったと思います。
筆者が大学生の頃に学んでいた
源氏物語専攻の教授も、
「桐壺院は最後まで知らなかったと思う」
と言っていました。
桐壺帝はいつ死んだか
桐壺院は「賢木」の巻にて崩御しています。
光源氏が23歳になった年の
10月に桐壺院は重体となり、
11月1日に崩御しました。
その後1年間は諒闇といって、
臣下を含め服喪期間となりました。
詳しい病状についての記述はないため、
死因は特定できません。
【原文】
『源氏物語』賢木の巻より引用
院の御悩み、神無月になりては、いと重くおはします。
【現代語訳】
院のご病気は、十月になってからは、ひどく重くおなりあそばす。
とのみ書かれています。
亡くなったときの記述も、
【原文】
『源氏物語』賢木の巻より引用
おどろおどろしきさまにもおはしまさで、隠れさせたまひぬ。
【現代語訳】
たいしてお苦しみにもならないで、崩御された。
とシンプルな書きぶりです。
桐壺院が崩御して49日が過ぎると、
女御や更衣たちも
みな散り散りになって里へ帰ってしまいました。
藤壺の宮も里邸である三条の宮に移ります。
光源氏は、父の服喪中でありながら、
再び藤壺の宮に関係を迫ろうとしますが、失敗しています。
源氏と藤壺の逢瀬については、
以下の記事で詳しく解説しています。
この記事では、
『源氏物語』の桐壺帝/桐壺院について
詳しく解説しました。
当ブログでは、他の登場人物についても
同じように紹介しています。
よければ読んでみてくださいね😊