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撫子
このサイトの管理人
30代後半の主婦。
高校生の頃から源氏物語に興味を持ち始めました。大学では源氏物語を研究し、日本語日本文学科を首席卒業しました。
30代になり、源氏物語を改めて学びなおしています。
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【源氏物語】当時の評価と反応、読者層について解説!

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源氏物語の当時の評価と反応を解説!読者層と庶民が読むようになった時代も。

源氏物語 初心者
『源氏物語』って、書かれた当時は、どんな評価を受けていたの?どんな人が読んでいたの?


この記事では、『源氏物語』が
書かれた当時(平安時代)において、
読者からどのような評価を受けていたかを解説します。

この記事でわかること

・『源氏物語』平安時代当時の評価
・『源氏物語』当時の読者層
・『源氏物語』は庶民も読んでいたのか

この記事を読むことで、
『源氏物語』が平安時代にどのような読者層の
人々に読まれ、どんな評価を受けていたのかが分かります。

筆者
ぜひ最後までお読みください!

目次

『源氏物語』当時の評価と人気

源氏物語 初心者
『源氏物語』は当時から高く評価されていたの?

『源氏物語』が当時の人たちにどのように
読まれていったのかは、確実なことは分かっていません。

しかし、『紫式部日記』『更級日記』には、
『源氏物語』の初期の読者たちの様子と
その評価の片鱗へんりんが語られています。

まず、『紫式部日記』から垣間見える
当時の評判を見てみましょう。

『紫式部日記』に見られる当時の評判

『紫式部日記』を読むと、
『源氏物語』が天皇・中宮をはじめとして、
宮中の男女に読まれていて、
高い評価を受けていたことがわかります。

一条天皇・中宮彰子から高評価だった

中宮彰子は、第一皇子を出産後に、
『源氏物語』を清書させ、豪華本を作成しました。

『紫式部日記絵巻』より
第一皇子を抱く道長の北の方
後ろ向きの女性が中宮彰子

豪華本は、
一条天皇に献上されたと考えられています。
藤原道長も上等の紙・筆・墨を、自ら運び込む
熱意を見せています。

当時の権力者である道長が、これほど
肩入れをして、豪華本を作ったということは、
娘の中宮彰子がよほど『源氏物語』の
ファンだったのだろうと推測されます。

そして、一条天皇も『源氏物語』を読んでおり、
「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ」
という感想を述べています。

中宮彰子の熱意が、一条天皇にも伝わり、
夫婦で継続的に読んでいたのでしょう。


筆者
天皇、中宮のそばに仕える女房たちも『源氏物語』を読んでいたことでしょう。


中宮のみならず、天皇にも高評価を受けたことで
『源氏物語』は権威付けられ、読者がどんどん広がっていきます。

源氏物語 初心者
天皇と中宮を発端として、宮中で『源氏物語』が話題になって広まっていったんだね!

女性にも男性にも人気だった

『源氏物語』の「蛍」の巻の記述などから
分かるように平安時代の当時、
物語は女性が好んで読むものであり、
あまり男性が読むものではありませんでした。

しかし、『源氏物語』に関しては違ったと考えられます。

時の帝、一条天皇が『源氏物語』に
関心を寄せたということになると、
その影響は大きかったはずであり、
当時から女性のみの読み物ではなかったはずです。

実際に『紫式部日記』では、公卿・藤原公任が
「このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」
発言しており、公任が『源氏物語』を読んでいたことがわかります。

※「若紫」は『源氏物語』の登場人物

『紫式部日記絵巻』より
藤原公任は、右手中央の人物

『源氏物語』は宮中の女性のみならず、
男性にも読まれていた。

道長は、当時、尚侍ないしのかみに任官されていた娘の
妍子けんし/きよこに『源氏物語』の草稿本を奉っています。
妍子自身が読みたがったからであろうと
思われますが、道長も『源氏物語』を読んでいて、
関心を持っていたのでしょう。

筆者
光源氏が栄華を極めるストーリーは、道長をモデルにしたとも言われています。道長は自分の人生と重ね合わせながら、『源氏物語』を読んでいたかも知れません。


以上のように
『源氏物語』は書かれた当時、
瞬く間に宮中の男女(上流貴族や皇族)に
人気を博し、話題となっていったのです。

『源氏物語』は当時、草稿本・中書本・清書本と
3種類の原本が存在していましたが、
書き写され、また読み回しされ、
貴族・皇族間で広まっていきました。

『更級日記』に見られる当時の評判

菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめの日記『更級日記』からも、
平安時代における『源氏物語』の評判を見ることができます。

『源氏物語』を読みたいと切望した筆者が、
14歳のときにようやく入手した「源氏の五十余巻ごじゅうよまき」を
日夜読みふけるというエピソードが書かれています。

菅原孝標女が『源氏物語』を手に入れたのは、
1021年(寛仁5年)です。
『源氏物語』が清書された1008年(寛弘5年)から
13年の月日がたった頃でした。

この頃には、『源氏物語』が受領ずりょう層にまで
読者層を拡大していたことがわかります。

菅原孝標女の父・菅原孝標は
上総国かずさのくに常陸国ひたちのくに受領ずりょうを務めていた。

源氏物語 初心者
地方に住んでいた菅原孝標女が、噂で耳にするほど『源氏物語』は面白いって評判になっていたんだね。


筆者
菅原孝標女の伯母は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母でした。道綱母は文学の素養がある女性でしたから、『源氏物語』の噂も伯母を通じて耳に届いたのかも知れませんね。


13年の間に、『源氏物語』は書写が繰り返され、
上流貴族や皇族から中流貴族に伝わり、
ついには地方の下流貴族にまで評判になっていたのです。

当時の女性は『源氏物語』の姫君に憧れていた

菅原孝標女は、『源氏物語』の中でも
特に夕顔と浮舟に憧れていたようです。

【原文】
物語のことをのみ心にしめて、われはこのごろわろきぞかし、盛りにならば、かたちも限りなくよく、髪もいみじく長くなりなむ、光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟(うきふね)
の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなく、あさまし。

【現代語訳】
源氏物語のことで頭がいっぱいで、私は今はまだ器量はよくないが、年ごろになったら容貌もこの上なく美しくなり、髪もすばらしく長く伸びるに違いなく、光源氏に愛された夕顔や、宇治の大将(薫)に愛された浮舟のようになるはずだわ、と思っていた心は、今思えば何ともむなしく、あきれ果てたものだった。

『更級日記』より引用

当時の『源氏物語』の女性の読者たちは、
菅原孝標女のように物語中に出てくる姫君に
憧れの気持ちを抱きながら読んでいたのでしょう。

浮舟を宇治へ送り出す薫(左)
邸の外には物売りの姿が見える。
「源氏物語画帖 東屋」住吉如慶筆 江戸時代
浮舟と薫(左)
「源氏物語画帖 東屋」住吉如慶筆 江戸時代

現代の少女たちが、アニメやドラマを見て
登場人物に憧れるように
平安時代の少女たちは、『源氏物語』の
女君たちに憧れていたのです。

平安時代において、『源氏物語』の熱烈な読者が、
女性のほうが多かったのか、
男性のほうが多かったのかはわかりませんが、
『更級日記』を読んでわかるように
女性から共感され、憧れの対象となり、
大きな支持を得ていたことは間違いなさそうです。

以上、『源氏物語』の平安時代の評価について
解説しました。

源氏物語 初心者
『源氏物語』は当時の貴族たちから高く評価され、女性の中には熱烈な支持者もいたんだね。

『源氏物語』当時の読者層は?

源氏物語 初心者
『源氏物語』の当時の読者層って、どのくらいだったの?


『源氏物語』の当時(平安時代)の
読者は貴族・皇族です。


筆者
物語は女性を中心に読まれていましたが、男性も読んでいました。


当初は上流貴族と皇族を読者としていましたが、
やがて地方の受領のような中流~下流貴族にも
『源氏物語』は伝わり、読まれるようになっていきました。

以降、中世(鎌倉時代~室町時代)においては
貴族や皇族などに加え、戦国武将や
連歌師、絵師などに読者層を広げていきます。

上杉謙信肖像(上杉神社所蔵)
戦国大名・上杉謙信も『源氏物語』を愛読していた
上杉謙信肖像(上杉神社所蔵)
戦国大名・上杉謙信も『源氏物語』を愛読していた
源氏物語 初心者
当時の庶民は『源氏物語』を読んでいなかったの?

平安時代の庶民は『源氏物語』を読んでいたか?

上記で述べた通り、
平安時代当時の読者は貴族・皇族のみであり、
庶民は『源氏物語』を読んでいなかったと考えられます。

庶民と貴族の間には、
物理的・心理的・経済的な大きい壁があり
『源氏物語』の写本が渡ることはなかったでしょう。

平安時代の庶民の識字率については
資料が存在せず不明ですが、庶民の多くは
字が読めなかったと推測されますので、
仮に『源氏物語』を入手できても
庶民は読むことができなかったと思われます。

源氏物語 初心者
じゃあ、庶民が『源氏物語』を読むようになったのは、いつなの?

庶民が『源氏物語』を読むようになった時代

筆者
庶民が『源氏物語』を読むようになるのは、江戸時代になってからです。


『源氏物語』は長らく庶民とは
無縁のものでしたが、江戸時代になると
版本による出版が始まり、『源氏物語』は
裕福な庶民にまで読者層を拡大しました。

江戸時代後期には、日本の識字率は
5割~6割という高水準に達しており、庶民でも文字を読むことができたのです。

熈代勝覧』(きだいしょうらん)
文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。

江戸時代には

『風流源氏物語』(1703年)
『若草源氏物語』(1707年)
『紫文蜜の鴫』(1723年)

といった俗語訳(今でいう現代語訳)が
刊行され、『源氏物語』の普及に貢献しました。

明治時代末期~大正時代になると
与謝野晶子の現代語訳が
「初めて行われた源氏物語の現代語訳」
として出版され、
『源氏物語』はさらに庶民の間に広まっていきました。

与謝野晶子は、著名な歌集『みだれ髪』の作者である。
与謝野晶子は、著名な歌集『みだれ髪』の作者である。

筆者
昭和・平成になると、多くの現代語訳が出版され、書店に並び、庶民でも誰でも『源氏物語』が読める環境になりましたね。


源氏物語 初心者
大昔は貴族や皇族しか読めなかった『源氏物語』が、今、普通に誰でも読めることがありがたいね。

明治期になると、『源氏物語』は海外で
翻訳されるようになり、読者層を外国人にまで広げていきました。

この記事では、『源氏物語』の平安時代当時の
評判と読者層について解説しました。

当ブログでは、『源氏物語』について
さまざまな観点から調べて記事を作成しています。

もし興味がありましたら、ぜひ他の記事も
読んでいってくださいね!

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