平安時代中期に書かれた『源氏物語』は
原本が現存しません。
この記事では、『源氏物語』の原本が
失われた理由と
写本についての詳しい解説をしていきます。
・源氏物語の原本が現存しない理由
・源氏物語の写本一覧と解説
・最古の写本「青表紙本」の解説
・失われた巻の紹介
・源氏物語がどうやって広まったか
この記事を読むことで、
『源氏物語』の写本についての歴史が
よくわかります✨
「巣守」「さくら人」といった
現存しない巻名の紹介もしていますので、
ぜひ最後までお読みください!
源氏物語の原本が現存しない理由
『源氏物語』の原本は現存しません。
いつ、どうして失われたかも不明です。
鎌倉時代の初期にはすでに失われてしまっていました。
清書本は火災で燃えてしまった?
中宮彰子のもとで清書され、一条天皇に献上された
『源氏物語』の豪華本は、
火災が原因で失われた可能性が高いです。
清書本を持って彰子が内裏に入ったのは、
寛弘5年(1008年)11月17日ですが、翌年の
寛弘6年(1009年)10月5日に内裏が火災で焼亡しているのです。
その際に一条天皇が所持していた『源氏物語』の
清書本は燃えてしまったことでしょう。
草稿本・中書本の行方
『源氏物語』の原本は、清書本以外にも、
草稿本と、まずますに書き直した中書本が
存在したと考えられています。
草稿本・中書本に関しては、
他人に貸し出したところ、
二度と返ってこなかったというパターンのようです。
平安時代には印刷技術が未発達であり、
『源氏物語』は書き写すことによって
人から人へと広まっていきました。
肝心の原本は、人々に貸し出して、
書写される過程で失われたと考えられます。
実際に、『紫式部日記』には
『源氏物語』の草稿本は中宮彰子の妹の姸子に
差し上げてしまったと書かれています。
まずまずに書き直した中書本もみな分散して
失われたとのこと。
草稿本・中書本も、火災で燃えてしまった可能性が高そうです。
平安時代は火災が多い時代でした。
平安末期には安元の大火・治承の大火
という大火災が都で起こっていますし、
『源氏物語』の原本や、原本に近い写本の多くも、
火事で燃えてしまったと想像できます。
\源氏物語の成立についてはこちらで解説/
源氏物語の写本の一覧と解説
源氏物語の写本の歴史
さきほども説明した通り、
『源氏物語』は、書き写すことによって複製され
人から人へと伝わっていきました。
寛弘5年(西暦1008年)に生まれた
『更級日記』の作者・菅原孝標女は、
寛仁5年(西暦1021年)14歳の頃に
『源氏物語』の写本を入手して読んでいます。
この頃には、上流貴族に留まらず
下級貴族である受領層にまで
『源氏物語』が広まり、
写本が流布していたことがわかります。
12世紀の平安時代末期までには、
多くの写本が現れます。
紫式部が10世紀の初めに
『源氏物語』を書いてから200年がたち、
書き写すにつれて本文の違いも多く出てきて
原本とはかなりの乖離が生じてしまっていたことでしょう。
鎌倉時代になると、『源氏物語』は
古典の規範として、また歌人必読の書として
仰がれるようになりました。
それにともない、
世の中に広まった写本の本文に
相違が多いのを一本化し、標準の本文を
作成しようという動きが出てきたのです。
その動きの中で誕生したのが、
藤原定家による「青表紙本」と
源光行・親行の「河内本」でした。
国文学者・池田亀鑑は現代に伝わる
300以上の伝本を、
青表紙本、河内本、別本の3系統に大別しています。
以下、青表紙本・河内本・別本について
詳しく説明していきますね!
青表紙本(定家本)
藤原定家が完成させた『源氏物語』の写本を
青表紙本もしく定家本と呼び、
『源氏物語』の現存する最古の写本とされています。
青表紙本は、
鎌倉時代初期の嘉禄元年(西暦1225年)2月15日
に完成しました。
定家の自筆本が5帖現存しています。
現存巻:「花散里」「行幸」「柏木」「早蕨」「若紫」
青表紙系の写本
定家自筆本を忠実に書写した
明融本が9帖現存しています。
現存巻:「桐壺」「帚木」「花宴」「花散里」「若菜上」「若菜下」「柏木」「橋姫」「浮舟」
定家自筆の青表紙本と明融本
両者に重複する2帖「花散里」「柏木」を除いた
12帖が青表紙本の本文とされます。
大島本も、青表紙本を復元する本文として評価されています。
「浮舟」を除くほぼ全巻が揃っている、貴重な青表紙本系の写本です。
定家自筆本>明融本>大島本>その他の諸本
という順番で青表紙本の系統はランク付けされており、
本文が採用されています。
ただし大島本は江戸時代を通じて
多数の訂正が
複数人物の手によってほどこされており、
河内本や別本特有の語句も持っています。
大きくは青表紙本のくくりに入るが、
混在本の性格を持っています。
その他の青表紙系の諸本には、
横山本、榊原家本、三条西家本、肖柏本、池田本などが存在します。
青表紙系の諸本の間には、
本文が対立している部分が見られるとも指摘されています。
一口に青表紙系といっても、
異なる本文が混在しているところに注意が必要です。
写本の名称 | 写された時代 | 作者 | 備考 |
---|---|---|---|
藤原定家自筆本 | 鎌倉時代初期 | 藤原定家 | 5巻のみ現存。最古の『源氏物語』写本。 |
明融本 | 室町時代末期 | 冷泉明融 | 9巻のみ現存。定家筆本を忠実に書写した写本。 |
大島本 | 室町時代後期 | 飛鳥井雅康 | ほぼ全巻が現存。江戸時代に複数人により多数訂正されている。 |
三条西家本 | 室町時代中期 | 三条西実隆 | 全巻が現存。河内本や別本の内容が混在している。 |
池田本 | 鎌倉時代以降 | 二条為明 | 52巻が現存。うち45巻は鎌倉時代の書写。 |
肖柏本 | 室町時代後期 | 連歌師・肖柏 | 54巻が現存。三条西家本に似た本文を持つ。宗祇の写本を写したもの。 |
榊原家本 | 鎌倉時代中期~後期 「桐壺」のみ室町時代 | 二条為氏 「桐壺」のみ三条西実隆 | 17巻が現存。 |
横山本 | 鎌倉時代中期 | 藤原為兼 | 49巻が現存。 橋姫、椎本、総角の巻帖が別本、その他46巻は青表紙系。 |
大正大学本 | 室町時代後期 | 冷泉政為など複数人 | 54巻が現存。 |
中院文庫本 | 室町時代後期~江戸時代前期 | 中院通茂 | 52巻が現存。三条西家本に似た本文を持つ。 |
早稲田大学本 | 室町時代末期 | 三条西実枝 | 54巻が現存。三条西家本に似た本文を持つ。 |
青表紙本の中では、
藤原定家自筆本と明融本、大島本を
最低限おさえておきましょう!
河内本
河内本は、源光行・親行が親子二代にわたって
30年以上の歳月にわたる校訂を経て成立した写本です。
54巻が完成したのは建長7年(西暦1255年)7月7日でした。
本文づくりの方法としては、
21部もの当時の有力な写本を集め、
それぞれの違いを見定めて一つに決めていくというものでした。
重視した写本は、
平安時代末期の歌人・二条伊房、堀川俊房、
さらに源麗子、冷泉朝隆、藤原忠通、
藤原俊成、藤原定家ら8本の写本でした。
河内本は、
わかりやすく整理された内容であり、
説明的な文章を補っているため
当時の人たちにとっては読みやすい本文でした。
ただし、多くの写本を参照しているため
混血児的な性格を持っており、
平安時代の頃とは少し隔たりができてしまいました。
河内本系の写本
源親行が完成させた河内本は現存していません。
河内本系統の写本としては、
尾洲家本、中山本、平瀬本、御物本
大島河内本などが現存しています。
中でも尾洲家本は最古の河内本写本であり、
北条実時ができあがったばかりの河内本を
源親行から借りて能筆家に書写させたものです。
写本の名称 | 写された時代 | 作者 | 備考 |
---|---|---|---|
尾州家本 | 鎌倉時代 | 北条実時 | 54巻が現存。出来上がったばかりの河内本原本を書写させたもの。 |
高松宮家本 | 室町時代中期 | 近衛政家など複数人 | 54巻が現存。河内本を主体とし、青表紙本、別本の本文も混合している。 |
平瀬本 | 鎌倉時代~室町時代 | 伏見天皇など複数人 | 54巻が現存。うち31巻が河内本の本文を持つ。 |
別本
青表紙本と河内本以外の諸本は、
系統に分類できないという意味で「別本」と称されています。
別本と呼ばれる諸本は、部分的にはともなく
全体としては乱脈な本文を持っており、
青表紙本にも河内本にも似ていません。
別本は、次のような種類に分類されます。
種類 | 解説 |
---|---|
古伝本系 | 平安時代の古い写本の本文を伝えていると考えられるもの |
混成本文系 | 青表紙本、河内本など複数の系統の本文が混合しているもの |
注釈的本文系 | 注釈書や古系図に引用された本文を持つもの |
古伝本系の別本は、
青表紙本や河内本が成立する以前(平安時代)の、より古い写本の内容である可能性があり、
紫式部が書いた原文に近い状態を推測するために役立っています。
別本としては、
陽明文庫本、保坂本、国冬本、御物本、阿里莫本が有名です。
写本の名称 | 写された時代 | 作者 | 備考 |
---|---|---|---|
陽明文庫本 | 鎌倉時代中期~江戸時代 | 後深草院など複数人 | 絵詞や源氏釈の引用文に近いものを含む。 |
国冬本 | 鎌倉時代末期~室町時代末期 | 津守国冬など複数人 | 『源氏物語絵巻』の絵詞に近い本文を持つ巻がある。 |
阿里莫本 | 江戸時代前期 | 高坂松陰 | 古伝本系の本文が含まれる。 |
御物本 | 鎌倉時代中期 | 古伝本系の本文が含まれる。青表紙系、河内系の本文を持つ巻が混在。 | |
麦生本 | 室町時代末期 | 麦生鑑綱 | 河内本や青表紙本の本文との混合が見られる。 |
保坂本 | 鎌倉時代~室町時代中期 | 藤原為家など複数人 | 別本が三十四帖まとまっている特徴を持ち、古い本文を伝えている。 |
ハーバード大学本 | 鎌倉時代初期 | 慈円 | 陽明本や保坂本との類似性が見られ、古い本文を伝えている。 |
最古の源氏物語写本 青表紙本(定家本)とは
この項では、青表紙本について
- 成立の経緯
- どのように伝来したか
- 本文の特徴
について解説しますね!
青表紙本 成立の経緯
藤原定家は、
証本(校訂された、拠り所となる写本)
となるような『源氏物語』の写本を
もともと所持していましたが、
建久年間(1190-1198)に何者かに盗まれてしまいました。
定家は、証本としての『源氏物語』を
再び作成したいと考えました。
所蔵していた、
証本とまでは言えないレベルの写本に
諸家の所持本から得た注記などを書き入れ、
長い時間をかけて『源氏物語』の校訂を続けたと考えられています。
定家は、西暦1224年の11月から、
「家中の小女等」(仕える女房や姉妹か)に
『源氏物語』54巻を書写させ、
嘉禄元年1225年2月15日に全て完成しました。
定家は、父・俊成が校訂した俊成本を
継承することなく、
複数の写本を参照しつつ、
本文の校訂を長年にわたって続け、
「証本」と呼ばれる青表紙本を完成させたのです。
定家は宣陽院門(後白河天皇の第六皇女)の
所持していた『源氏物語』を借り受けていた
という記録もあり、
青表紙本の作成に役立ったと推測されます。
また、青表紙本の特徴として、
「奥入」がついていることがあげられます。
※奥入とは、本文に挿入されていた注釈を一帖にまとめ、表紙に「奥入」と書かれたものです。
青表紙本の伝来
藤原定家の書写した青表紙本は、
その子孫である二条家⇒冷泉家に伝わっていきました。
それ以後は、公家の堀川具親や
北条家に伝来していた可能性があります。
定家の子孫は、
孫の代で遺産相続の問題が発生し、
二条家、京極家、冷泉家に分裂してしまいました。
為家の遺産の中には、大量の古典があり、
その中に『源氏物語』の青表紙本も含まれていたのです。
延慶4年(1311年)に記された
『延慶両卿訴陳状』の内容により、
定家自筆の青表紙本は、
まず二条家の為氏(1222年生-1286年没)に
伝えられたことが分かっています。
やがて正応4年(1291年)頃には、
冷泉家の為相が定家筆の青表紙本を書写しており、
青表紙本の所有は二条家から冷泉家に
移っていたと考えられています。
また、弘和元年(1381年)に成立した
長慶天皇による『仙源抄』(別名:源氏いろは抄)
によると、定家自筆本は
「極楽寺入道所持本」とされています。
北条重時(1198年生-1261年没)に冷泉家から
青表紙本が伝来していた可能性も考えられます。
兼好法師が書写した約150年後
西暦1486年頃に青表紙本が再び記録に登場します。
連歌師・里村紹巴の著した『紹巴抄』に
「志多良」(幕府に仕えていた設楽氏か)
が所蔵している青表紙本を宗祇が書写し、
世に広めたと書いてあるのです。
宗祇の写本は、
三条西家に受け継がれ、校合に使用されました。
三条西実隆は少なくとも4度
『源氏物語』を書写しており、
室町時代後期以降の青表紙本流布に貢献しています。
定家自筆の青表紙本は、
その後所在記録が途絶え、多くの巻が失われます。
戦前までに
「花散里」「行幸」「柏木」「早蕨」の4巻が
伝わっています。
そして2019年には「若紫」が
大河内松平家の子孫の自宅から発見されました。
本文の特徴
青表紙本は簡潔な文体が特徴でした。
鎌倉時代の了悟という人物は、
『幻中類林』(「光源氏物語本事」)にて
京極(定家)自筆の本とて、こと葉も世の常よりも枝葉を抜きたる本
であると指摘しています。
例えば、河内本の「桐壺」巻には、
桐壺の更衣を女郎花と撫子に喩える表現が
されていますが、青表紙本ではこの部分を
切り捨ててしまっています。
河内本に見られる、桐壺の更衣の比喩表現
全文は以下の記事に掲載しています。
(「容姿」の項目に記載しました)
定家は『源氏物語』の校訂の段階で、
具体的な場面の説明や比喩表現など、
冗長に感じられる部分を、削ぎ落してしまいました。
青表紙本は情緒的な表現で評価が高いですが、
平安時代に流布していた写本に比べると、
ずいぶん簡潔になってしまったのです。
青表紙本は複数の写本を用いて校訂したもの
青表紙本は、
定家の父俊成の所持していた本文(俊成本)とは、
かなりの相違があると言われています。
河内本とも違いがあります。
さらに、
定家自筆本の「奥入」(注釈書)には
校訂作業の痕跡が見られるため、
定家は複数の写本を参考にして
独自に校訂をした可能性が高いと言われています。
青表紙本が現代まで高い評価を得ているのは古写本の一本を、大幅な校訂なしに継承しているという認識を前提にしています。
定家が諸本を参照し、自らの美的感覚において本文を校訂しているとするなら、この前提条件は崩壊してしまいます。
青表紙本と河内本の違いとは
青表紙本と河内本の違いは、
青表紙本が簡潔な文体で、
なおかつ和歌的な情緒を重んじているのに対し、
河内本は説明的で論理としてわかりやすい
というところです。
一例を見てみましょう。
「松風」の巻で、光源氏が大井の明石の君を
訪れた翌朝の描写です。
【原文】青表紙本
『源氏物語』(青表紙本)松風の巻より引用
たをやぎたるけはひ、皇女たちと言はむにも足りぬべし。帷子ひきやりて、こまやかに語らひたまふとて、とばかりかへり見たまへるに、さこそ静めつれ、見送りきこゆ。
【現代語訳】
(明石の君の)しなやかな雰囲気は、皇女といっても不足のない姿である。(源氏は)几帳をひきのけて、情愛深く語りかけようと、しばらくふりかえってご覧になると、あれほど心を抑えていたが、(明石の君も)見送り申し上げる。
【原文】河内本
『源氏物語』(河内本)松風の巻より引用
たをやぎたるけはひ、皇女たちと言はむにも足りぬべし。帷子ひきやりて、こまやかに語らひたまふ。御前など、立ち騒ぎてやすらへば、出でたまふとて、とばかりかへり見たまへるに、さこそ静めつれ、見送りきこゆ。
【現代語訳】
(明石の君の)しなやかな雰囲気は、皇女といっても不足のない姿である。(源氏は)几帳をひきのけて、情愛深く語りかける。出立しかけて騒がしくしていた前駆の者たちも、源氏の姿を見て動作を止めたので、(その姿を見た源氏は)帰る間際にもかかわらず、しばらくふりかえってご覧になると、別れの悲しみで臥せっていた明石の君も見送りなさる。
赤字の部分が青表紙本で削られている語句です。
「新編日本古典文学全集」の頭注でも、河内本のほうが
文意がよく通るとされています。
また、光源氏が夕顔を連れ出した
「なにがしの院」について
河内本では注釈で「河原院」が
モデルではないかと考証をしていますが、
青表紙本の奥入では、何の注釈もしていないのです。
わかりやすさは河内本
情緒深さは青表紙本
というざっくりとした違いがあります。
定家は、本文の情緒を味わうことを重んじて、
説明的な文章や詳しい注釈には興味がなかったのです。
どちらが、より古い形をとどめているか
という議論になると、
古い写本が残っていないためよくわかっていません。
定家は文章を削っているという指摘もあるし、
河内本が説明的な文章を補っているとも言われています。
ただし、
河内本は別本と重複している部分が多く
古い形態をとどめている可能性があります。
現在では失われた巻の内容
平安時代末期の時点では、『源氏物語』は54巻に
淘汰されておらず、
他に「巣守」「さくら人」という巻が
読まれていました。
「巣守」の巻とは?
平安時代末期の院政期に成立した
『源氏物語注釈』などによると
「すもり」という名の巻が見られ、
平安時代においては「巣守」巻が存在したと推測されています。
「巣守」の巻がどのような内容かは
詳しくはわかりませんが、
平安時代末期に作成された系図
「源氏物語古系図」に、
現在の『源氏物語』には見られない人物が
登場しているのがヒントとなっています。
例えば、
「伝清水谷実秋筆源氏物語古系図」には
蛍兵部卿宮の子として「巣守三位」という女君が登場します。
説明には「琵琶弾きなり、手習の巻にあり」と
書かれていますが、
現在の「手習」の巻に巣守三位という人物は登場しません。
「正嘉本源氏物語古系図」にも巣守三位の名が見られ、以下のように解説されています。
一品宮(冷泉院の第一皇女か)に仕え、
琵琶の名手の賞として三位に叙せられる。
美しい女性であった。
匂宮が通うものの、
巣守は薫の情愛の深さに心が移る。
やがて若君が生まれるが、
匂宮は諦められず巣守を追い求めるので、
巣守は朱雀院の女四の宮が住んでいた
大内山に隠れてしまう。
匂宮と薫の恋の板挟みになるところは、
浮舟の人生に似ていますね。
古系図には浮舟の名前もあるので、
平安時代末期には2つの似た物語
(巣守の物語と浮舟の物語)が
両方『源氏物語』に含まれていたようです。
世間では新旧二種類の原稿が出回り、
平安時代末期では両方を含む形で書き写されて
出回っていたのではないでしょうか。
「さくら人」の巻
また、最も早い時期の『源氏物語』注釈書
とされる世尊寺伊行の『源氏釈』には、
「真木柱」の巻の後に
「さくら人」という巻の記載があります。
現在の54巻の中には見当たらない巻名であり、
古系図の中にも関連しそうな人物は見当たりません。
どのような内容だったかは
詳しくは分かりませんが、
「夕顔の御手のいとあはれなれば」という
本文が一部引用されているため、
亡くなった夕顔と交わした手紙をとりだして、
光源氏が懐かしむような場面が
書かれていたと推測されています。
『源氏釈』には「さくら人」の巻について
この巻はある本もあり。なくてもありぬべし。蛍が次にあるべし。
と注釈を入れています。
当時読まれていた複数の写本のうち、
「さくら人」を持つものもあるし
持たないものもあるとしており、
内容からすると「蛍」の巻の次にあるべきだと言っています。
「輝く日の宮」
「桐壺」巻と「帚木」巻の間に
「輝く日の宮」という巻があったとも言われています。
たとえば藤原定家は青表紙本の「奥入」で
「桐壺」の次にこの巻名を記した後、
「この巻もとより無し」と記しています。
- 光源氏と藤壺の宮の一度目の密通
- 光源氏と花散里の馴れ初め
- 光源氏と五節の君との恋物語
などが
書かれていたと推測されています。
内容を裏付ける資料は見つかっていませんが、
物語の構想上、この巻が存在していたと考える方が自然です。
54巻に淘汰された『源氏物語』
ここまで説明してきたように、
平安時代においては、
現存している54巻よりも多い巻数の
『源氏物語』が流布し、読まれていたと考えられます。
鎌倉時代になって
青表紙本・河内本という2つの有力な
本文が成立し、どちらも54巻とされました。
「古系図」や『源氏釈』には、平安時代の人々に
読まれていた『源氏物語』の痕跡の一部が
含まれており、紫式部が書いた原本を推測する
貴重な資料となっています。
源氏物語はどうやって広まったか
冒頭でも説明したように、
印刷技術が未発達だった平安時代において、
『源氏物語』は、人々の手によって書き写される
ことによって世に広まっていきました。
紫式部の手から離れた『源氏物語』は、
人々に書写されていくにつれ、異文が発生していきました。
200年もたち、鎌倉時代になると、多くの
写本が成立し、それぞれに異文を持った状態で
世の中に出回り、人々に読まれていたのです。
その多くの写本を整理したのが、
源光行・親行の親子であり、藤原定家でした。
河内本と青表紙本は、
『源氏物語』の有力な本文となり
多くの写本が作られることで、
現代にまで伝わってきたのです。
まとめ
この記事では、『源氏物語』の写本についての話を中心に解説してきました。
『源氏物語』は、熱意を持った人々の書写により
連綿と受け継がれ、現代にまで伝わってきましたが、
現代の読者は、平安時代の『源氏物語』を
読んでいるわけではないということにお気づきになったでしょうか?
河内本や青表紙本の出現は、
それ以前に多く流布していた
写本をまとめて、校訂し、
鎌倉時代の『源氏物語』として再編したものだったのです。
河内本や青表紙本がどれだけ
紫式部の原本が持っていた本文から離れてしまったのかは、
今となっては推測することしかできません。
現代に伝わる写本が
紫式部の原本に近い形を伝えてくれていることを
願うばかりです。
当ブログでは、『源氏物語』について
さまざまな観点から調べて記事を作成しています。
登場人物についても詳しく
解説していますので、ぜひ他の記事も
読んでいってくださいね😊