


奈良県桜井市初瀬にある
真言宗の寺院・長谷寺。


長谷寺の歴史は古く、
創建は奈良時代と推定されています。
平安時代には観音信仰が盛んになるとともに、
貴族たちの初瀬詣で(長谷寺参詣)が流行しました。



この記事では、『源氏物語』の「玉鬘」の巻に
見られる長谷寺の記述を解説するとともに、
実際に行って撮影した現地写真を紹介いたします。
長い記事となりましたので、
以下のタップできる目次から
読みたい箇所を選んでお読みください✨
源氏物語「玉鬘」に見られる長谷寺の記述
まず、『源氏物語』の中で
長谷寺がどのような形で登場するのか紹介しますね。
長谷寺が出てくるのは、
『源氏物語』の「玉鬘」の巻。
玉鬘は母・夕顔との再会を祈願するために
初瀬詣で(長谷寺参詣)をするのです。
玉鬘は、光源氏のかつての恋人・夕顔が、
昔、頭中将との間にもうけた娘。
筑紫に住んでいたが、上京し、
母親を探していました。
玉鬘は長谷寺近くの椿市で
かつて夕顔の女房だった右近
(今は光源氏の女房)と再会し、
母・夕顔が亡くなったことを知ります。
玉鬘は光源氏の養女となり、
多くの貴公子から求婚を受けるのでした。


「玉鬘」の巻で、長谷寺は次のように言われています。
【原文】
『源氏物語』【玉鬘】の巻より引用
仏の御なかには、初瀬なむ、日の本のうちには、あらたなる験現したまふと、唐土にだに聞こえあむなり。
【現代語訳】
仏様の中では、初瀬観音が、日本の中でも霊験あらたかでいらっしゃると、中国でも評判になっているといいます。
平安時代の貴族の間で、
長谷寺の観音様は非常に霊験が強いとして
強い信仰を集めていたことがわかります。
その評判はなんと、中国にも届いていたようです。
玉鬘や右近たちは椿市で再会した後に
長谷寺の御堂で、玉鬘の幸せな将来を祈願します。
その様子はかなり具体的に描写されており、
当時の長谷寺を想像する貴重な資料となっています。
長谷寺の二本の杉を訪ねて
右近の詠んだ「二本の杉」の和歌
『源氏物語』の「玉鬘」の巻で、
右近が詠む和歌に二本の杉()
という言葉が登場します。



玉鬘と右近は夜通し
長谷寺の御堂で祈願をした後で、
御堂が見下ろせる僧坊に入って
語り合います。
右近は、玉鬘に対して次のような和歌を詠みました。
二本の 杉のたちどを 尋ねずは
古川野辺に 君を見ましや
【現代語訳】
二本の杉の立っているこの長谷寺に参詣しなかったら
古い川の近くで姫君に再会できたでしょうか
どうやら当時、
長谷寺というと二本の杉が
たっていることで有名だったようですね。



実際に「二本の杉」を見てきた
さて、実際に長谷寺を訪問してみますと、
根元がつながった二本の杉が存在していました。


杉の根本が見事につながっており、
自然のパワーを感じます。



『源氏物語』の玉鬘の物語を解説する
パネルも設置されています。


幹の太さはそれほどでもないのですが、
見上げてみると、とても高い杉の木で、
全体が画像に収まりきりません。


杉の木の寿命は、平均500年と言われていますが、
屋久島の杉の木などは樹齢2000年を超えるものも
発見されています。
長谷寺の二本の杉が平安時代から立っているとすると、
1000年は生きていることになりますね。



長谷寺の二本の杉は、
登廊の途中で右の小路に入って行った先に
ひっそりと立っています。


引用:長谷寺公式HP
本当にひっそりとした穴場スポットなので
事前に地図を確認していかないと、見落としてしまいます。
注意してくださいね。


この途中で右に曲がる小路があり、その先に二本の杉がある
近くには「玉鬘神社」がひっそりと
玉鬘神社の祭神は、玉鬘姫命
長谷寺のすぐ近くには、「玉鬘神社」があります。
ここの祭神は、玉鬘姫命。
なんと、『源氏物語』の登場人物・玉鬘が
神様として祀られているのです。








玉鬘が祀られるようになった経緯
室町時代に、能作者・金春禅竹が
「玉鬘」という名作を作りました。
【謡曲「玉鬘」のあらすじ】
旅の僧(ワキ)が初瀬寺(長谷寺)へ向かうと、
一人の女(前シテ)が小舟に乗って
初瀬川を上って来る。
女は、僧と連れ立って二本の杉にやって来て、
玉鬘の物語を語り始める。
語り終えた女は、玉鬘の供養を僧に頼み、
自分こそ玉鬘だと言いかけて、姿を消す。
初瀬寺門前の者(アイ)が参詣にやって来る。
僧に求められ、門前の者は玉鬘の物語を語った後
玉鬘の霊の供養を勧めてその場を立ち去る。
僧が供養を始めると、恋の執念に狂った
玉鬘の霊(後シテ)が姿を現す。
自身の罪を懺悔した玉鬘の霊は、
悟りを得て、迷いから解放される。
僧も夢から覚める。
「能を知る会 鎌倉公演 【須磨源氏】【玉鬘】」
— 鎌倉能舞台 (@nohbutai) March 25, 2024
◆日時2024年5月3日(金・祝)
◆会場:鎌倉能舞台
◆入場料 6,500円
◆演目:
10時始め
解説「源氏物語と能」中森貫太
狂言「樋の酒」飯田豪
能「須磨源氏」中森健之介
14時始め
解説 中森貫太
狂言「痩松」中村修一
能「玉鬘」奥川恒治 pic.twitter.com/MS3clKBNcr
この能の謡曲により、
長谷寺には玉鬘への信仰がとりいれられました。
初瀬山麓の玉鬘庵に玉鬘観音がおかれ、
尼によって長年お祀り・供養されてきたのです。
その玉鬘庵ですが、
残念ながら明治の初めに無くなってしまい
供養塔が建てられるのみとなっていました。
近年になって長谷寺近くの連歌道が整備され
周辺を散策にきた多くの人から
「玉鬘庵はどこか」と
問い合わせを受けるようになり、
2018年ついに玉鬘庵の跡地に
玉鬘神社が創設されたのです。


- 女性守護
- 良縁
- 復縁
- 待ち人
- 失せ物探し
- 旅・交通の安全
玉鬘神社に鎮座されている玉鬘姫命は、
心の妄執を払うよすがとして、
そして縁結びや交通安全の神様として
人々を導いているのです。






長谷寺を訪ねたなら、ぜひ
玉鬘神社もついでに訪問して、
玉鬘姫命にご挨拶なさってくださいね。
近くには玉鬘庵の尼のお墓もありました。


大きなイチョウの木は、
玉鬘庵にちなんで「玉鬘の大銀杏」と呼ばれています。


素戔嗚神社よりにある
玉鬘神社は、『源氏物語』の
聖地ということができるでしょう。
玉鬘たちが訪れた椿市とは?
『源氏物語』で、玉鬘と右近は
長谷寺の近くにある
椿市(つばいち)という場所で再会します。



椿市(海石榴市)は、古代日本で最大の市場
椿市は桜井市金屋あたりにあった
古代で最も大きな市場であり、
商いが行われていました。



平安時代よりさらに時代を遡り、
万葉集の時代(飛鳥時代・奈良時代)には、
歌垣(うたがき)といって
若い男女が集まり和歌を詠み合って
求婚するイベントも行われていました。
『枕草子』では、椿市は以下のように紹介されています。
【原文】
『枕草子』より引用
市は たつの市。さとの市。つば市。
大和にあまたある中に、長谷に詣づる人のかならずそこにとまるは、観音の縁のあるにや、と心ことなり。おふさの市。しかまの市。あすかの市。
【現代語訳】
市といったら、たつの市。さとの市。つば市。
大和にたくさんある市の中で、長谷寺を参詣する人が必ずそこに泊まるのは、観音様のご縁があるからだと思うと、格別な気分だ。
その他には、おふさの市。しかまの市。あすかの市。
大和で有名な市場は、
「たつの市」「さとの市」「つば市」
だと言っています。
「つば市」が椿市のことですね。
「たつの市」は元は平城京東市で、
辰の日に立っていたようです。
現在の椿市
現在、椿市の周辺は住宅街になっており、
万葉集の歌碑と看板が立っているのみで、
市場や宿屋は出ていません。
近くには海柘榴市観音堂という
小さなお堂があり、
石仏のかわいい観音様が二体並んでいます。
海柘榴市は、この看板と観音堂に
名前を残すのみとなっています。
紫式部は長谷寺に行ったことがあったのか?



『紫式部日記』などに初瀬詣で(長谷寺参詣)
の体験談が書かれているわけでは無いので、
紫式部が実際に参詣したかどうかはわかりません。
「源氏物語」の長谷寺の記述はかなり詳しい
ですが、『源氏物語』に見られる長谷寺の記述は
椿市の宿や、御堂、僧坊などの様子が
かなり具体的に書かれているため、
私は実際に紫式部は長谷寺に行ったのだろうと思います。
【原文】
『源氏物語』【玉鬘】の巻より引用
すこし足なれたる人は、とく御堂に着きにけり。この君をもてわづらひきこえつつ、初夜行なふほどにぞ上りたまへる。いと騒がしく人詣で混みてののしる。右近が局は、仏の右の方に近き間にしたり。 この御師は、まだ深からねばにや、西の間に遠かりけるを、
【現代語訳】
少し歩き慣れている人は、先に御堂に着いた。この姫君(玉鬘)をお手伝いするのに難渋して、初夜の勤行の頃にお上りになった。とても騒がしく、人々の参詣で混み合ってやかましい。右近の部屋は仏像の右側の近い間に用意してある。玉鬘一行についている僧は、まだ経験が浅いためであろうか、西の間で遠い所だったのを、
御堂の中の混み合った様子や
局の位置など、参詣した人しか分からないような
情報が入っていますね。


このような板敷きの間に人々が所狭しと座って勤行していたのでしょうか
【原文】
『源氏物語』【玉鬘】の巻より引用
参り集ふ人のありさまども、見下さるる方なり。前より行く水をば、初瀬川といふなりけり。
【現代語訳】
(僧坊は)参詣する人々の様子が、見下ろせる場所である。前方を流れる川は、初瀬川というのであった。
玉鬘、右近たちは本堂で夜を明かし、
朝になると知り合いの大徳の坊へ移りました。
その僧坊からは、参詣者の様子が見下ろせて、
初瀬川が見えたと書いてあります。


初瀬川は見えないが、僧坊からの景色もこれに近いのだろうか
これだけ詳しく書けるのは、実際に行ったことがあったのでしょう。
京から長谷寺まで何時間かかったのか?
紫式部の邸宅があったとされる京都の蘆山寺から
椿市(海柘榴市)を経由して長谷寺までは、
徒歩で15時間30分です。
休憩も挟みながら行くので、
京から椿市までは牛車で3日かかったようです。
玉鬘は徒歩で4日目の午前10時頃に椿市に
到着したと『源氏物語』に書かれています。
椿市から長谷寺までは、
さらに徒歩で1時間30ほどかかりす。






枕草子に見られる長谷寺への初瀬詣の記述



紫式部と同じ時代を生きた
清少納言の随筆『枕草子』には
長谷寺を参詣したときの体験談が書かれています。



以下は、『枕草子』に書かれている
長谷寺参詣の体験です。
【原文】
長谷にもうでて局にゐたりしに、あやしき下﨟どもの、うしろをうちまかせつつ居並みたりしこそねたかりしか。
いみじき心起こして参りしに、川の音などのおそろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろげならず困じて、いつしか仏の御前をとく見奉らむ、と思ふに、白衣着たる法師、蓑虫などのやうなる者ども集まりて、立ちゐ額づきなどして、つゆばかり所もおかぬけしきなるは、まことにこそねたくおぼえて、おし倒しもしつべき心地せしか。いづくもそれはさぞあるかし。
やむごとなき人などの参り給へる、御局などの前ばかりをこそ払ひなどもすれ、よろしき人は制しわづらひぬめり。さは知りながらも、なほさしあたりてさる折々、いとねたきなり。
はらひ得たる櫛、あかに落とし入れたるもねたし。
【現代語訳】長谷寺を参詣して、部屋に居たところ、みすぼらしく修行の浅い僧たちが、衣の後ろを長く引きがら並んでいるのが気に入らない感じだった。
「枕草子」より引用
意を決して長谷寺に参詣したのに、川の音などは恐ろしいし、階段を上る間など、すごくしんどくて、いつになったら仏の御前を拝めるのだろうかと思った。
白い衣を着た僧や、蓑虫のような服装の人たちも集まって、立ったり座ったり、額を床につくなどして、少しも場所も空けない様子なのは、本当に憎らしく思えて、押し倒しでもしてしまいそうな気分だった。どこでもそのようである。
高貴な人がいらっしゃる部屋の前は人払いするが、そこそこの身分の人は、人を規制できないだろう。そうと知りながらも、やはり現実にそのようなことがあると、すごく腹立たしいものだ。
きれいにした櫛を水垢の中に落としてしまった時もいらいらする。
この部分では、
「ねたし(憎らしい)」という言葉が4回も
使われていますね。
長谷寺は人気のお寺だったので、参拝者が多く
清少納言は相当、煩わしく感じたようです。
次の引用は、清少納言が
長谷寺参詣で宿泊をしたときのエピソードです。
【原文】
「枕草子」より引用
九月二十日あまりのほど、長谷に詣でて、いとはかなき家にとまりしに、いと苦しくて、ただ寝に寝入りぬ。
夜ふけて、月の窓より洩りたりしに、人の臥したりしどもが衣の上に、しろうてうつりなどしたりしこそ、いみじうあはれとおぼえしか。さやうなるをりぞ、人歌よむかし。
【現代語訳】
九月二十日くらいのこと、長谷寺に参詣して、たいへん粗末な家に泊まったが、すごく疲れていたのですぐに寝ついた。
夜が更けて、月の光が窓の隙間から漏れて入ってきて、他の人たちがかぶって寝ている衣の上を照らして、白く浮かび上がっているのが、たいへん情緒があると思った。そんな時にこそ、人は歌を詠むものなのだ。
長谷寺で泊まったというのは、
玉鬘が訪れたのと同じ椿市のことなのでしょうね。
このように、『枕草子』の記述によって
清少納言が確実に長谷寺を参詣していたことが
分かります。
当時の長谷寺参詣の様子がありありと目に浮かぶようですね。
初瀬川の音に、長い階段、
御堂で額づいてお祈りをする大勢の人々、
高貴な人が使っている局……
『枕草子』も『源氏物語』と同様に
平安時代の長谷寺の様子がわかる
貴重な資料となっています。
長谷寺を訪れた歴史人物は?



他にも平安時代で有名な女性としては、
菅原孝標女と藤原道綱の母が
長谷寺を参詣しています。
菅原孝標女「更科日記」
『更科日記』の中で菅原孝標女は2回、
長谷寺参詣をしています。
39歳と47歳の頃です。
39歳の1回目の参詣のときには、
次のような体験が書かれています。
【原文】
『更科日記』より引用
初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺にまうで着きぬ。
はらへなどして上る。
三日さぶらひて、暁まかでむとてうちねぶりたる夜さり、御堂の方より、「すは、稲荷より賜はるしるしの杉よ。」とて物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり。
【現代語訳】
初瀬川などを通り過ぎて、その日の夜、長谷寺に到着した。
身を清めて御堂にのぼる。
三日参籠して、明け方に退出するつもりで、少しまどろんだ夜、御堂の方角から、「さあ、稲荷よりいただいた験(しるし)の杉よ」と、物を投げ出すようにしたので、はっとして目が覚めると、夢であったのだ。
菅原孝標女は玉鬘一行と同じく
3日間参籠したようです。
長谷寺では御堂の方向から不思議な夢を見ています。
藤原道綱母「蜻蛉日記」
藤原道綱母も長谷寺参詣をしていたことが
『蜻蛉日記』の記述によって分かります。
安和元年(968年)9月のこと、
33歳の時に、以下のように長谷寺参詣を思い立ちます。
【原文】
『蜻蛉日記』より引用
かくて、年ごろ願あるを、いかで初瀬にと思ひ立つを、たたむ月にと思ふを、さすがに心にしまかせねば、からうじて九月に思ひ立つ。
【現代語訳】
さて、長年、祈願したいことがあったので、ぜひとも長谷寺にと思い立った。来月になったらと思っていたが、やはり思い通りにならないので、やっとのことで九月に思い立つ。
これ以後は、
京を立ち、夫・兼家の宇治の別荘や椿市を経て、
長谷寺に着くまでの道中の感想が書かれています。
長谷寺の御堂に入ると、
周囲には身分の卑しい者がたくさんいて
自分も落ちぶれたような気分になったそうです。
【原文】
『蜻蛉日記』より引用
眠りもせられず、いそがしからねば、つくづくと聞けば、目も見えぬ者の、いみじげにしもあらぬが、思ひけることどもを、人や聞くらむとも思はず、ののしり申すを聞くもあはれにて、ただ涙のみぞこぼるる。
【現代語訳】
眠ることもできず、忙しい勤行でもないので、ぼんやりと聞いていると、目も見えない人で、たいして立派な身分でもない人が、心に思っている願い事を、人が聞いているとも思わず、大声でお祈り申し上げているのを聞くのも可哀想な気持ちになって、ただ涙だけがこぼれる。
御堂の中には目の不自由な人もいて、
大声でお祈りをしていたという記述は、
生々しくて情景が目に浮かぶようですね。
天禄2年(971年)7月、
36歳の頃に道綱母は再び長谷寺を訪れます。
【原文】
『蜻蛉日記』より引用
御堂にものするほどに、ここちわりなし。
おぼろげに思ふこと多かれど、かくわりなきにものおぼえずなりにたるべし、なにごとも申さで、明けぬと言へど、雨なおなじやうなり。
【現代語訳】
御堂の中にいると、気分がたまらなく苦しかった。
切実に願うことは多いけれど、このように疲れているので意識も朦朧としてしまったのだろう。何もお願いしないうちに、夜が明けたというけれど、雨はやはり変わらず降っている。
2回目の長谷寺参詣では、大雨が降っており、
風も強く道綱母は到着した段階で
かなり疲れてしまっていたようです。
長谷寺と椿市の間に
「音せでわたる森」
(物音を立てないで通る森)が
あったという記述も興味深いです。
【原文】
『蜻蛉日記』より引用
音せでわたる森の前を、さすがにあなかまあなかまと、ただ手をかき面を振り、そこらの人のあぎとふやうにすれば、さすがに、いとせむかたなくをかしく見ゆ。
【現代語訳】
物音を立てないで通る森の前を、普段は騒がしい一行が「静かに、静かに」とただ手を振ったり、顔を振ったり、大勢の人たちが魚のように口をパクパクさせるので、さすがに、どうしようもなく滑稽に見える。
この「音せでわたる森」は現在、
所在が不明となっています。
音を立てて通ると祟りがあるといった
民間信仰が根付いていたのでしょうか。
初瀬の枕詞「こもりく(山に囲まれたところ)」
がしばしば「隠り口」と書かれたことから、
このような信仰が発生したという説もあります。



最後に
この記事では、平安女流文学
(『源氏物語』『枕草子』
『更級日記』『蜻蛉日記』)
に見られる長谷寺の記述を紹介してきました。
長谷寺の本堂は、何度も火災で焼失しており、
平安時代の頃と同じ建物ではありません。
しかし、外見や構造などは再建の際に
綿々と引き継がれてきているでしょうから、
当時の様子をしのぶことができますね。
長谷寺は「花の御寺」として多くの人々の信仰を集め、
現在でも四季折々の花が参拝客の目を楽しませています。
特に6月~7月に見頃を迎える紫陽花は圧巻です。


たくさんの鉢植えの紫陽花が並ぶ
あじさゐ回廊はSNSで話題になり、
多くの観光客が訪れています。
春は、梅や桜、
秋は紅葉など楽しめます。


ぜひ長谷寺を訪れて、
平安時代の長谷寺参詣の様子をしのびつつ
美しい花に癒されてみてください。


石山寺も紫式部ゆかりのお寺ですので、
ぜひ聖地巡礼してみてくださいね。


京都の宇治にある
「源氏物語ミュージアム」の
体験談も記載しているので、読んでみてください😊

