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撫子
このサイトの管理人
30代後半の主婦。
高校生の頃から源氏物語に興味を持ち始めました。大学では源氏物語を研究し、日本語日本文学科を首席卒業しました。
30代になり、源氏物語を改めて学びなおしています。
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大河ドラマ「光る君へ」放送中! 漫画「あさきゆめみし」で源氏物語を学ぼう!

藤原伊周はイケメンだった?性格やエピソード、家系図、道長との関係などを紹介。伊周がどんな人だったかよくわかる!

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藤原伊周はイケメンだった?容姿、性格、家系図、エピソード、死因などを解説!

2024年の大河ドラマは「光る君へ」の
主要な登場人物の一人
藤原伊周(ふじわらのこれちか)

伊周は、道長と権力闘争を繰り広げ、
「長徳の変」という事件を
起こしたことで有名であり、
平安時代中期の歴史を語る上で不可欠な人物です。

紫式部と交流があったかどうかは
不明ですが、
『源氏物語』の主人公・光源氏の
モデルになったとも言われています。

筆者
伊周は、道長の甥であり、中宮定子の兄だよ。


源氏物語 初心者
大河ドラマでは、三浦翔平さんが演じているね!イケメンの貴族のイメージ。

この記事では、気になる伊周の容姿や性格、
エピソードは家系図などをわかりやすく解説しています。

この記事でわかること


・容姿
・性格
・エピソード
・道長との権力闘争の内容
・家系図と子孫
・死因と遺言
・光源氏モデル説の真相

この記事を読むことで、
伊周の人物像がよくわかり、大河ドラマの理解も深まります!

長い記事になりました。
下記の目次をタップして、読みたいところから
お読みください😊

目次

藤原伊周はイケメンだったのか?

源氏物語 初心者
大河ドラマでは、三浦翔平さんが伊周を演じたけれど、実際に伊周はイケメンだったの?


藤原伊周の容姿は美しかったと
「栄花物語」や「枕草子」に書かれています。


原文を実際に読んでみましょう。

『枕草子』に見られる伊周の容姿

『枕草子』の以下の部分では、
伊周・定子兄妹の様子を褒めています。
赤字部分に注目してください。

【原文】
大納言殿のまゐりたまへるなりけり。御直衣、指貫の紫の色、雪に映えていみじうをかし。柱もとにゐたまひて、「昨日今日、物忌に侍りつれど、雪のいたく降りはべりつれば、おぼつかなさになむ」と申したまふ。 「『道もなし』と思ひつるにいかで」とぞ御いらへある。うち笑ひたまひて、「『あはれと』もや御覧ずるとて」などのたまふ御ありさまども、これより何事かはまさらむ。物語に、いみじう口にまかせて言ひたるに、たがはざめりとおぼゆ。

【現代語訳】
大納言(伊周)殿が参上なさったのだった。御直衣、指貫の紫の色、雪に映えて非常に美しい。柱わきにお座りになって「昨日今日と物忌でございましたが、雪がたくさん降りましたので、どうしていらっしゃるか気がかりでして」とお話し申し上げる。「『道もない』と思ったのに、どうしていらしゃったの」と中宮(定子)様が御返答なさる。大納言(伊周)殿はお笑いになって、「この雪の中参上したことを『真心がある』とご覧あそばすかと思いまして」などとおっしゃるお二方の御様子は、これよりまさろうものは何があろうか。物語の登場人物が口に任せて話しているのと、全く同じようだと感じられる。

『枕草子』「宮にはじめてまゐりたるころ」より引用

清少納言は、
伊周のことを「作り物語に語られている貴公子」
のようだと絶賛しています。

筆者
『源氏物語』の光源氏のことを意識した喩えだったのかも知れませんね。


また、『枕草子』では伊周のことを
「ものものしう清げ」
(どっしりとしてすっきりと美しい様子)
と形容している部分もあり、
伊周は貫禄のある雰囲気の美しさだったことがわかります。

『石山寺縁起絵巻』第3巻第1段
藤原伊周
『石山寺縁起絵巻』第3巻第1段
藤原伊周

『大鏡』に見られる伊周の容姿

『大鏡』でも、伊周は
「太りたまへる人」と語られており、
『枕草子』の記述と一致します。

伊周は速く歩くこともできないくらい
太っていました。

現代では肥満体型は「美しくない」という
評価につながりますが、
平安時代では太っていることは必ずしも
悪い評価にはなりませんでした。

筆者
あの光源氏も、中年以降は太っていたと記載されているのです。

『栄花物語』に見られる伊周の容姿

『栄花物語』でも、伊周の容貌は絶賛されています。

【原文】
この殿は、御かたちも身の才も、この世の上達部には余りたまへりとまでいはれたまふに、ゆゆきしまで思ひきこへたまふもことわりなりと見えさせたまふ。

【現代語訳】
この内大臣殿(伊周)は、ご容姿も御身にそなわった学才も、この世の上達部としては、とてもおさまりきらぬ方だとまで取り沙汰されていらっしゃるので、不吉なことにおなりではと思い申されるのも無理はないこととお見えになる。

『栄花物語』「みはてぬゆめ」より引用

あまりの素晴らしさに、悪いことが起きるのでは…?
と噂されるくらいでした。

筆者
実際に伊周は後に、「長徳の変」という事件を起こします。


『栄花物語』にも、伊周は太っていたと
語られています。ただし、晩年は病気で
痩せてしまっていました。

伊周の家族には美男美女が多く、
父親の道隆、異母兄の道頼、
妹の定子(長女)、原子(二女)、
御匣殿(四女)も容貌が美しかったと
『枕草子』や『栄花物語』で語られています。

「枕草子絵詞」鎌倉時代末期
右端の女性が定子。手前の男性が父・道隆。
「枕草子絵詞」鎌倉時代末期
右端の女性が定子。手前の男性が父・道隆。
源氏物語 初心者
伊周のイケメンぷりは、DNDで受け継がれたものだったんだね!

伊周の息子・道雅や2人の娘も美貌の持ち主でした。

藤原伊周の性格と才能

伊周の性格

資料からわかる藤原伊周の性格をまとめると

  • 子どもっぽい
  • 冗談を好み明るい

という2点があげられます。

筆者
詳しく解説していきますね!

子どもっぽい性格

『大鏡』によると
藤原伊周は「心が幼い人であった」と語られています。

【原文】
「心幼くおはする人にて、便なきこともこそ出でくれ」

【現代語訳】
「(伊周は)心が幼稚でいらっしゃるから、不都合なことが起きると大変だ」

『大鏡』より引用

これは、道長の家来の言葉です。

伊周が子どもっぽく
感情を爆発させやすい性格だったため、
家来たちは、道長邸で二人で双六を打つことに
反対していたのです。


また、伊周は儀式の内容に関して
他の公卿と意見が対立することも多かったようです。

多数意見に対して自分の異なった意見を
押し付ける悪い癖があった伊周は、
周囲から孤立していました。

筆者
伊周は、他の貴族の考え方に合わせることができず、感情が爆発しやすい、「心が幼い」男性でした。

冗談をよく言い、明るい性格

中関白家の人間は、
冗談を言うのが好きな人が多いです。

伊周の父・道隆も
妹・定子も明るく冗談好きでよく笑う人柄で、
伊周も同じような性格でした。


さきほど引用した『枕草子』の
「宮にはじめてまゐりたるころ」の段でも
伊周の明るい性格はよく伝わってきますね。

伊周の才能

伊周の母の高階貴子は
和歌や漢詩の才能に優れた女性で、
息子・伊周もその文才を引き継いでいました。

筆者
妹の定子も漢詩の教養が高く、母・高階貴子が子どもたちによく教育していたことが分かりますね。


特に伊周は
漢詩において突出した才を持っていました。


寛弘2年(1005年)土御門邸で行われた
作文会という漢詩の会においては、
参列者が感動して涙を流すほどの素晴らしい作品を
発表たのです。

この時に詠んだ伊周の漢詩「花落春帰路」は
『本朝麗藻』に収録されており、
他にも15首もの伊周の漢詩が掲載されています。

藤原伊周のエピソードを紹介!

源氏物語 初心者
伊周は、他にはどんなエピソードがあるの?

筆者
長徳の変のエピソードを中心に紹介するね。

道隆の後継者として自意識過剰な伊周

正暦4年(993年)正月22日、内宴での出来事です。

伊周が大臣の横に座ってしまい、
父の道隆によって長押の下に退かされる
という
事件が起こりました。

長押とは?

長押とは、建物の柱の間に渡した横木で
上部を上長押、下部を下長押という。
単に長押と言う場合は、下長押を指す。
廂と簀子の間にあり、下長押で段差が
生じるため、寄りかかったり座ったりした。

この時、伊周は大納言であり、
特別な事情がなければ長押の上には座れない
ものだったのです。

伊周は関白道隆の後継者は自分である
という意識が過剰であったため、
他の貴族との間には軋轢が生じていました。

「長徳の変」で失脚

伊周の父・道隆が病没した後、
道隆の弟である道長が政治的な権力を
増していく中、
伊周は「長徳の変」という事件を起こします。

長徳2年(996年)、伊周と弟の隆家が、
藤原為光の邸にて花山法皇と遭遇し、
争いになったのです。

筆者
乱闘の末、隆家の従者は花山法皇についていた童子2名を殺害してしまいました。

『栄花物語』に書かれている長徳の変

『栄花物語』には、
伊周と花山法皇が藤原為光の娘を巡って
誤解をした結果、乱闘になったと書かれています。

※伊周は三の君に通っていて、
花山法皇は四の君に通っていた。
伊周は、花山法皇が自分と同じ
三の君に通っていると
勘違いして、隆家に相談した結果、
隆家の従者が攻撃したという内容です。

この事件で、
伊周と隆家は罪に問われることとなり、
執政者としての政治生命は絶たれてしまいました。


さらに、伊周が、
臣下が行ってはならない太元帥法を用いて
道長と道長の姉・詮子を呪詛していたという
疑いまでかけられます。

太元帥法(だいげんすいほう/だいげんのほう)
真言密教における呪術の一つであり、
敵国の調伏や国家安寧を祈って行われる法。
宮中のみで行われるものであり、
臣下はこの呪術を行ってはならないとされていた。

結果的に伊周と隆家は流罪となり、
伊周は太宰権帥、
隆家は出雲権守とする除目が下ります。

筆者
伊周は福岡県、隆家は島根県に流罪となりました。


源氏物語 初心者
伊周は美しく才能もある貴公子だったのに、浅はかな行動で流罪になっちゃったんだね…。


配流宣命に書かれた罪名は、

「花山法皇を射た事、
女院(詮子)を呪詛した事、
道長に太元帥法を行った事」

でした。

流罪に抵抗した伊周

太宰府に流罪が決まった伊周は、
現地に赴くのを拒否しています。

伊周を太宰府に追い下す役割を負っていた
検非違使に対して、
伊周は重病を言い訳に出発を拒みます。

この頃、中宮定子は宮中を退出し、
里邸である二条北宮に住んでいました。

伊周は定子の御在所に籠り、
太宰府に行くようにという催促を断り続けたのです。

検非違使は寝殿の戸を壊して天井や板敷をはがし、
定子を車に乗せ退避させた上で
伊周の大捜索を行いました。

筆者
邸内では女性の泣き声が響き渡り、それを聞いた者は同情の涙を流したそうです。


源氏物語 初心者
お母さんや定子、仕えていた女房の気持ちを想うと苦しいね…。


二条北宮には、この騒ぎを見ようと、
見物人が雲のように大勢集まっていました。

伊周は京都府右京区にある愛宕山
逃走していましたが、数日後に二条北宮に
戻って来て、母の貴子と一緒に網代車に乗り出発しました。
ところが、検非違使に追い付かれ、
母との同行は許されませんでした。

伊周は病気のため、太宰府には行けず
しばらく播磨国(姫路)に抑留されていましたが、
五か月後くらいにこっそり京に戻って来て
定子の御在所に隠れていました。

京にいることが検非違使にバレた伊周は、
ついに太宰府に送られることになったのでした。


筆者
流罪が決まってから、伊周が太宰府に送られるまで約半年もかかっています。


源氏物語 初心者
必死の抵抗だったんだね。

藤原伊周のわかりやすい家系図

以下は、藤原伊周の周辺の家系図です。

藤原伊周の家系図・相関図
藤原伊周の家系図

伊周は藤原道隆と高階貴子の息子であり、
妹に中宮定子、弟に隆家がいます。

伊周の妻としては
源重光の娘を正室としており
一男二女をもうけています。

他にも側室・左衛門命婦(源致明の娘)
との間に一男(顕長)がいます。

伊周の子孫

藤原伊周の子孫 家系図
藤原伊周の子孫 系図

伊周の長男、道雅
非参議の左京大夫という地位で
天喜2年(1054年)出家し、その後すぐ亡くなっています。

道雅の2人の息子(覚助と観尊)も
出家して僧となってしまいました。
二男の顕長も経歴不明で終わっています。

長女の大姫君は、
道長の二男の頼宗の妻となり、
その子孫には後堀川天皇がいます。

源氏物語 初心者
後堀川天皇は、現在の天皇陛下の祖先!?


筆者
いいえ、後堀川天皇は息子の四条天皇で血統が途絶えており、今上天皇につながる祖先ではありませんので、伊周は今上天皇の祖先にはあたりません。


しかし、伊周の弟の隆家の子孫・殖子が
高倉天皇の後宮に入り、後鳥羽天皇を産んでいます。

※高倉天皇は、後堀川天皇の祖父であり、
後鳥羽天皇は後堀川天皇の叔父にあたる。

後鳥羽天皇は今上天皇の祖先なので、
伊周の弟・隆家は今上天皇の祖先ということになります。

なお、武蔵七党の一つである児玉党と
箱根権現の別当職であった大森氏は、
伊周の子孫であると自称していました。

武蔵七党とは?

平安時代から室町時代まで
武蔵国を中心として
勢力をのばしていた武士団のこと。
児玉党は現在の埼玉県児玉郡から
秩父、大里、入間郡および群馬県南部
あたりに勢力があった一族である。

箱根権現の別当職とは?

箱根権現とは、
箱根山の神仏習合の神である。
別当とは、
寺務を統括する長官に相当する僧職。
応永10~20年(1403~1413年)ごろ
大森頼春の弟証実が箱根権現別当に
就任して以来、代々箱根権現別当職は
大森家が継承していた。

伊周は37歳という若さでこの世を去りましたが、
その血脈は、後の代にも受け継がれていったのですね。

もしかしたらあなたの祖先をたどっていくと
伊周に行きつくのかも知れません。

藤原伊周と道長の関係と争いについて

源氏物語 初心者
伊周と道が仲悪かったって本当なの?


藤原道長と伊周は、
叔父と甥の関係でしたが、
権力的に対立することとなり、
その関係は最後まで良好なものではありませんでした。

伊周は、父・道隆の後継者として
関白となって政権を掌握することを目指しましたが、
そこには道隆の弟・道長が大きな壁として
立ちはだかったのです。

伊周と道長の確執について、
いくつかのエピソードを紹介しますね。

伊周と道長の競射

正暦5年(994年)8月に、伊周が21歳で
道長を超えて内大臣になりました。


この頃、伊周が
父道隆の東三条院の南院にて
人を集めて弓の競射を行いました。

そこに道長も出席して、
「この道長の家から、天皇・后がお立ちに
なるはずならば、この矢当たれ」

と言って矢を射ると、なんと的のど真ん中に当たりました。

伊周も矢を射ましたが、
気おくれしてしまい、見当違いの方向に
飛んでいってしまいました。


道長はその後、
「この私が将来、摂政・関白になるのが
当然ならば、この矢当たれ」

と言って矢を射ると、最初と同様、
その矢も的のど真ん中に当たりました。

その場は興ざめとなり、
父・道隆は伊周に、「もう射るな」と止めたのです。

「紫式部日記絵巻」より 藤原道長

このエピソードは、
大河ドラマ『光る君へ』で再現されていましたね。

筆者
伊周21歳、道長29歳。2人の権力争いはもう始まっていました。


源氏物語 初心者
この時点では、年下の伊周のほうが、官位が高かったんだね!

伊周と道長の口論

長徳元年(995年)5月11日、
一条天皇は道長に内覧宣旨を与えました。
6月19日、道長の官職は右大臣にまで昇りました。

内覧とは?

道長は関白にはならず、
内覧という地位につきました。
内覧とは天皇に提出する文書を先に
見ることができる地位で、関白と同じくらい
大きな権限を持ちます。

道長は太政官首席となり、
内大臣だった伊周を追い抜いて
政権の座についたわけです。


7月24日、伊周の不満が爆発したのか、
道長と伊周は陣座(じんのざ)で口論になっています。

筆者
他の貴族たちは後ろに群がって、この喧嘩を聞いていたとのこと。

道長と伊周 距離縮まる?

伊周は長徳の変(長徳2年<996年>)で
太宰府に左遷となりますが、
その翌年には京都に呼び戻されます。

筆者
詮子の病気の平癒のために、大赦が行われたのです。


その後、伊周の妹・定子は
一条天皇との間に3人の子どもを残して死去。
道長の長女・彰子は入内したものの、
子どもが生まれていない状況でした。

一条天皇の後継としては
定子の産んだ敦康親王しかいない状態となり、
道長もこの時期は敦康親王の後見をしていたのです。

源氏物語 初心者
道長は、本当は娘の彰子に皇子を産んでもらって一条天皇の後継としたいけど、生まれないから、仕方なく敦康親王の世話をしていたんだよ。

敦康親王の伯父である伊周も
後見として相応しい地位に戻す必要があったし、
恨みを残されても困るので、
寛弘2年(1005年)には
伊周は「大臣の下・大納言の上」という地位につきました。

伊周はしばしば道長邸を
訪問するようになり、
道長が頭痛を患った時には見舞いもしています。

また、この時期、道長と一条天皇を中心として
漢詩の興隆が見られましたが、
伊周もその中で才能を発揮しており、
土御門邸で催され作文会にも参加しています。

筆者
この時期、表面的には伊周と道長の関係は良好だったのです。

伊周と隆家、道長暗殺計画を立てる!?

寛弘3年(1006年)頃になると、
一条天皇と彰子との間に懐妊の可能性がでてきて、
道長の敦康親王に対する態度は冷淡になっていきました。

伊周もそのことを感じ取ったのか、
『小記目録』によると、
伊周と隆家が平致頼(むねより)と協力して
道長を殺害しようとしているという噂が流れ始めます。

『大鏡』には寛弘4年(1007年)に、
伊周が道長邸を訪ねて双六をうっていたが、
足の裏に「道長」と書いて
踏んで歩いていたという説話まで見られます。


寛弘4年12月頃ついに彰子が懐妊し、
翌年出産となります。
彰子が産気ついたとき、
道長は伊周と会おうとしませんでした。

敦成親王 百日の儀の宴での伊周の和歌序

彰子が出産した子どもは
道長が願った通りに男子でした。
敦成親王といいます。

寛弘4年(1007年)12月12日、
敦成親王の百日の儀の宴が開催され、
公卿たちは祝いの和歌を詠みました。

伊周は行成から筆をとりあげ、自作の和歌序を
書きましたが、この内容が驚くべきものでした。

第二皇子(敦成)の百日の嘉辰、宴を禁省くに合う。
<中略>
恩に酔う余り、私かに相語って云ったことには、
隆周の昭王・穆王は、暦数が長かった。
我が君(一条天皇)も又、暦数が長い。
本朝の延暦(桓武天皇)と延喜(醍醐天皇)は、
胤子が多い。我が君も又、胤子が多い。
なるかな帝道は。
<後略>

敦成親王を「第二皇子」と呼んだ上に
一条天皇には敦成親王の他にも
子どもが大勢いると書かれています。
さらに「隆周」という言葉は、
道隆・伊周親子を暗示するものであるし、
「康なるかな帝道」
敦康を想定して言ったものであることが明白です。

次の東宮になるのは、
第一皇子であり伊周の甥である敦康親王である。
第二皇子である敦成親王ではないと、
伊周はこの和歌序を通して必死に公卿に訴えたのです。

伊周、道長と彰子、敦成親王を呪詛

寛弘6年(1009年)、
伊周が道長と彰子を呪詛していたことが発覚します。


伊周は朝廷に参内することを禁じられました。
せっかく復権しかけていたのにも関わらず
政治生命がまたもや絶たれてしまったのです。

そして、翌年の正月、伊周は37歳という若さで
この世を去りました。

ただし、伊周含め、この呪詛の関係者は
翌年までに皆赦免されておいることから、
この事件自体、道長による捏造だった可能性もあります。

このように、伊周と道長は
権力争いを繰り返してきたのです。

そしてその争いは、
伊周の逝去という形で終焉を迎えました。

藤原伊周の死因は何?

藤原伊周は寛弘7年(1010)正月28日に、
37歳という若さで死去しました。


死因については、『大鏡』によると
「御病」としか書かれていません。

ひどく苦しむことはなく、
咳の病気かと思っていたら
重態となって亡くなってしまいました。

筆者
風邪から肺炎を引き起こしたのかも知れませんね。


『栄花物語』には伊周の病気について
「しきりに水を飲んでいて、
食欲もあるのに痩せていった」
という記述があり
父道隆、叔父道長と同じ糖尿病であった可能性もあります。

長徳の変から始まった悲劇や、
道長との政権争いによるストレスは、
伊周の心身を徐々にむしばみ、寿命を削っていったのでしょう。

1008年には道長の娘・中宮彰子が
一条天皇との間に敦成親王を産み、
1010年には、敦良親王を出産したため、
道長の権力はますます増して、
周りの公卿も道長の機嫌をとるようになっていました。

伊周はすっかり政権闘争にやぶれ、
世の中を悲観していたのです。

伊周の遺言

『栄花物語』によると
伊周は自身の娘たちに次のような
意味合いの遺言を残しています。

私が死んでしまったら、あなたたちの将来はどうなるのだろう。
なぜ生きている間に、姫君たちを先立たせてくれと祈願しなかったのだろうと、今さら悔やまれる。
私が死んだあと、物笑いの種になるようなみっともない振る舞いがあったら、きっと恨みますよ。

結局のところ、長女の大姫君は
道長の二男・頼宗の妻となり、
二女の中姫君は彰子の女房となっています。

息子・道雅には次のように遺言を残しました。

あなたを大切に育ててきたが、この程度の官位で見捨てて死ぬとは。
私に先立たれてあなたはどういうふうに生きていくのか。
官位目当てに世間の言うなりになったり、心にもない追従をしたり
するくらいなら、出家してしまいなさい。

道雅は従三位の左京大夫どまりで
天喜2年(1054年)62歳で亡くなっています。

藤原伊周の人生年表

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和暦(西暦)伊周周辺の出来事伊周の年齢摂関備考天皇
天延2年(974年)伊周誕生1歳関白:藤原兼通円融
天元2年(979年)弟・隆家誕生6歳関白:藤原頼忠
寛和元年(985年)11/20伊周従五位下12歳花山
寛和2年(986年)8/3伊周侍従 10/15伊周左兵衛佐13歳6/23花山天皇出家、一条天皇即位。兼家摂政となる。
永延元年(987年)1/7伊周従五位上 9/4伊周左少将 10/14 伊周正五位下 10/17蔵人14歳摂政:藤原兼家一条
永延2年(988年)1/7伊周従四位下15歳
永祚元年(989年)3/25伊周従四位上 4/5伊周右中弁 7/13伊周右少将16歳2/23父道隆内大臣 10/26定子着裳
正暦元年(990年)7/10伊周右中将 9/1伊周蔵人頭 10/22伊周正四位下17歳関白:藤原兼家⇒道隆⇒摂政:道隆1/5一条天皇元服 1/25定子入内 5/5兼家関白 5/8道隆関白 5/26道隆摂政 7/2兼家死去 10/5定子中宮
正暦2年(991年)1/26伊周参議 9/7伊周権中納言 伊周、この頃、源重光の娘と結婚。18歳摂政:藤原道隆
正暦3年(992年)8/28伊周権大納言 12/7伊周正三位 伊周長男(道雅)誕生<松君>19歳
正暦4年(993年)伊周、他の公卿と確執が生じる。20歳関白:藤原道隆清少納言が定子の女房となる。
正暦5年(994年)8/28伊周内大臣 
伊周、道長に競射で負ける(『大鏡』)
21歳
長徳元年(995年)2/28伊周と道長、確執を見せる 3/9伊周内覧 5/11伊周内覧停止 7/24伊周と道長、口論 8/28 伊周、東宮傅(とうぐうのふ)を兼ねる。22歳内覧:藤原伊周⇒関白:道兼⇒内覧:道長

4/10父道隆死去 4/27道兼関白 5/11道長内覧 6/19 道長右大臣
長徳2年(996年)1/16 伊周と道隆の従者、花山院の従者と乱闘騒ぎ 4/24伊周太宰権帥、隆家出雲権帥に配流決定(長徳の変) 5/4伊周出発 5/15伊周、播磨に留まる。10/7伊周、上京 10/11伊周、ついに太宰府に送られる 23歳内覧:藤原道長12/16 中宮定子、第一皇女を出産(脩子内親王)
長徳3年(997年)4/5 伊周と隆家、大赦により都から呼び戻される。5/21に隆家は京に戻る。12月伊周京に戻る。24歳
長保元年(998年)25歳11/1 彰子入内 11/7中宮定子、第一皇子を出産(敦康親王)この年の春、紫式部、藤原宣孝と結婚。
長保2年(999年)26歳2/25 彰子中宮となり、定子は皇后となる。12/15定子第二皇女を出産(媄子内親王)12/16定子崩御 紫式部、賢子を出産。
長保5年(1003年)9/22 伊周、従二位30歳この頃、紫式部、『源氏物語』を執筆開始か。
寛弘元年(1004年)閏9月一条と道長と伊周、漢詩を和す。31歳
寛弘2年(1005年)2/25伊周、大臣の下かつ大納言の上の位になる。32
紫式部、彰子に女房として仕え始める。
寛弘4
年(1007
年)
8/9伊周と隆家、道長殺害計画の噂が立つ
この頃、道長邸で双六を打つ。足の裏に「道長」と書いて踏む。(『大鏡』)
34歳12月中宮彰子懐妊。
寛弘5
年(1008
年)
12/20伊周、敦成親王百日の儀で和歌序題を書く。35歳9/11中宮彰子、敦成親王を出産。この頃、紫式部の『源氏物語』の大部分が完成か。
寛弘6
年(1009
年)
伊周の縁者が道長・彰子・敦成を呪詛。2/20伊周の参内禁止 6/13伊周、参内許される。36歳11/25 中宮彰子、敦良親王を出産。
寛弘7
年(1010
年)
1/28 伊周死去。37歳
藤原伊周の人生年表

伊周は光源氏のモデル?

『源氏物語』の主人公・光源氏は、
伊周をモデルにしているのではないかという説があります。

光源氏と伊周の類似点は、下記の3点です。

  • 学問に優れていた点
  • 容姿が美しかった点
  • 地方に配流された点

光源氏も伊周も学問に秀で、
イケメンであった点が共通しています。

光源氏17歳 「源氏物語画帖 夕顔」土佐光則

また、光源氏は須磨に配流されましたが、
伊周は播磨国(姫路)に抑留された上で、
太宰府に配流されました。

源氏物語 初心者
伊周と光源氏、似てるね!


紫式部と伊周は同じ時代を生きた人物であり、
伊周が太宰府から京に戻ってきた後に、
紫式部は『源氏物語』の執筆を開始したのです。

長徳の変で世間の話題になった伊周が
光源氏の人物造形に影響を与えていたとしても
不思議ではありません。

ただし、光源氏のモデルと言われている人物は、
伊周以外にもたくさんいます。

上記の記事でも述べた通り、
光源氏のモデルとは特定の人間一人を
指すものではありません。

伊周や道長、在原業平など複数の人物から
ヒントを得て、紫式部が創り上げたものなのです。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★

この記事では、
藤原伊周の容姿や性格、人生について
詳しく解説しました。

容姿にも才能にも家柄にも恵まれた伊周は、
子どもっぽい性格と軽はずみな行動により、
中関白家の没落という不幸を生み出してしまったのです…。

\一条天皇はどんな人だったか解説/

\源氏物語のあらすじを解説/


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