この記事では、
本居宣長:もののあはれ論(紫文要領)の
原文・現代語訳を掲載しています。
★大意の事 上
1.物語とは「もののあはれ」を知らせるもの
2.蛍の巻の物語論から紫式部の意図を読み取る
3.古来の注釈書は間違いが多い ←この記事
4.『源氏物語』の善悪の基準は「もののあはれ」
5.女は「もののあはれ」を知った上でほどよい態度をとるべき
6.「もののあはれ」についての詳述
★大意の事 下
7.恋愛は「もののあはれ」が深い
8.「もののあはれ」と浮気っぽいのとは別物
9.『源氏物語』は教訓の物語ではない
10.光源氏と藤壺の密通を書いた紫式部の意図
11.人の真実の感情を知ることが「もののあはれ」を知ること
他の注釈書への批判(前半)
【現代語訳】
前に引用した「蛍」の巻の段については、昔から多くの注釈書で間違いが多い中で、あの仏法と比較して述べているところの注釈は、特に無理やりなこじつけであり、すべてが間違いである。素直に解釈するべきところを、さまざまに理屈をつけて煩わしく仰々しく注釈しているので、浅はかな人は「なるほど」と思うけれど、逆にそれは愚かな注釈である。その理由は、(そこに引用された)仏典の解釈としてだけ読むなら、それなりに正当性はあるが、源氏がここで仏法を持ち出して物語のことを説明しようとした比喩の趣旨からは外れているからだ。(比喩として持ち出されたという)本来の目的を忘れて、仏法自体を詳しく論じても、中心になっている意味とずれているのだから、無駄なことである。逆に読者を混乱させることになる。私のこの注釈は、紫式部の意図と物語と仏典を比較して、ぴったり適合していることを記載している。多くの注釈書はすべて、仏典の内容ばかり述べているので、紫式部の比喩の意図と大きな相違があり、(紫式部の意図とは)別物になってしまっている。以上のような理由によって、他の注釈書の説が(紫式部の意図と)適合しがたい理由を詳しく解説して、読者が迷わないことを願う。ここの部分の意味が明白にならなければ、『源氏物語』全体の意味ははっきりしないからである。
まず他の多くの注釈書の間違いとは、「仏のうるはしき心」という部分を、仏典を引用して大げさに注釈していることで、これは、道理に合わないことである。「うるはしき」という言葉は物語中に何度も出現し、みな厳粛で正しいという意味である。ここだけどうして特別に深い意味があろうか(いや、ない)。注釈というものはこことあそことで解釈が矛盾しては採用しづらい。このように(「うるはしき」のように)あちこちに見られる言葉は、全ての用例をよく考え合わせて、間違いがないように注釈すべきである。なのに、多くの注釈書では他の用例を考え合わせず、ただ自分の当て推量で都合のよいように解釈して注釈しているから、こことあそことを考え合わせるときに、大きな相違が見られるのである。このような種類の誤りが多い。みな同じ理屈である。「うるはしき」をここだけ仏教に関係づけて注釈するのは、まったく根拠のないことである。他の用例があるのを、どのように解釈したらよいのか。
「方便」ということについて、法華経を根本の教えとして、釈迦がそれ以前に説いた経典はすべて方便の教えであるとするのは、天台宗の考え方であって、言うまでもない。しかし、それによって、ここで「方便」というのを(大乗仏教<法華経など>成立以前の)小乗仏教の経典を指すと解釈するのは、間違っている。ここで「方便」というのは、何の経典によるものでもなく、すべての仏法の中にある方便である。法華経の中にも方便はある。大乗・小乗・四教・五時の議論は不必要なことであって、ここに適合しない。ただ人間を救済するために設けてお説きになる方便ということである。
「悟りなき者」とは、世間一般に飲み込みの悪い人ということである。これは、後世に経典を読む人のことを指している。それなのに、「悟りなき」という言葉にとらわれて、釈迦の生前にその説法の席に連なって教えを聞いた人のことにして、いろいろに注釈するのは、間違いである。そのことは、確かに経典に書いてあることなので、推量の「べく」とはいうはずがない。後世の人のことなので、「疑ひ置きつべく(疑いを抱くだろう)」と(推量で)いっている。この「べく」で理解しなければならない。「悟りなき」という言葉も、他に用例が多い。あれこれ用例を考え合わせて理解しなければならない。
【原文】
右に抄出せる螢の巻の文段、古来諸抄の説誤り多き中に、かの仏の御法に引き当てていへるところの注釈、ことに牽強にしてことごとく誤りなり。 やすらかに見るべきところを、さまざまに義理をつけてむつかしくことごとしく注せるゆゑに、悟りなき人はげにもと思ふべけれど、かへりてそれは愚かなる注なり。そのゆゑは、経文の上ばかりにて聞けばさることなれども、ここに引き出だせる譬への意に当らず。本を忘れて末の穿鑿ばかりくはしくしても、旨とするところの義理にかなはざれば無益のことなり。 かへりて人を惑はすことなり。今この注は、紫式部が下心と物語の上と経文の上とを引き合せて、よくかなへることを記す。諸抄の注は、経文の上ばかりをことごとくいへるゆゑに、紫式部の譬への本意と大きに相違して別々のことになるなり。よりて諸抄の説のかなひがたきいはれをくはしく述べて、読む人の迷はざらんことをねがふ。このところの義理明らかならざれば、一部の本意明らかならざるゆゑなり。
まづ諸抄の誤りとは、「仏のうるはしき心」といへるを、経文の意を引きことごとしく注せること、当らぬことなり。「うるはしき」といふ詞は物語の中に多くありて、みなきつとして正しきことなり。ここばかり何ぞ深き義理あらん。すべて注といふものは、こことかしこと相違しては用いがたし。かやうに多く方々にある詞は、 いづこもいづこもよく見合せて、違はぬやうに注すべきことなるに、諸抄の注は、外を見合さずして、ただ己が闇推にてよきやうに注せるゆゑに、こことかしこと見合す時に大きに相違するなり。このたぐひ多し。みな同じ理りなり。「うるはしき」をここばかり仏の上につきて注せるは、はなはだいはれず。外のところにあるをばいかが解すべきや。
「方便」といふこと、法華を実教として余の爾前の経をばみな方便とすると、法華宗の意にして、さることなり。それによりてここの方便といへるを小乗の諸経として見るは、誤りなり。ここに方便といへるは、ただ何の経によるともなく、すべて仏の御法の中にある方便なり。法華経の中にも方便はあるなり。大小乗・四教・五時の沙汰は無用のこと、ここにかなはず。ただ衆生を済度せんために設け説き給ふ方便といふことなり。
「悟りなき者」とは、俗に合点の悪い者といふことなり。これは末の世に経文を見る人のことなり。しかるを「悟りなき」といふ詞になづみて、仏の在世に会座に連なりて説法を聞ける人のこととして、さまざま注せるは、誤りなり。そのことは正しく経にあることなれば、「べく」とはいふべからず。後の世の人のことゆゑに「疑ひ置きつべく」といへる、「べく」にて悟るべし。「悟りなき」といふ詞も外に多し。かれこれを引き合せて心得べし。
他の注釈書への批判(後半)
【現代語訳】
「『方等経』(以下略)」。仏様の方便は、大乗・小乗の経典に多く見られることだが、特に方等部の経典にはあちらこちらで矛盾していることが多い、ということである。
「せんじつめれば同一の趣旨に帰着して」。これを「五時の教えはすべて法華経の真理に帰着する」と注釈するのは適切ではない。また「畢竟皆空(究極において万事は実体がない)」、あるいは「万法一如(万事は本質的に一つ)」などと注釈するのは、ますます適切ではない。これは単に、仏様の本心は人間を救済するためだから、さまざまな方便もすべて無駄ではなく、最終的な趣旨をせんじつめていけば、方便も本来の教えも区別なく同一である、ということである。
「菩提と煩悩とのへだたりなん」。この「へだたり」というのを、多くの注釈書どのように受け取ったのだろう、まったく理解できない注釈である。「(紫式部はこの部分を)すべて天台の経典をもって書いた」と言って、『法華経』の龍女成仏の物語などを引用して、迷いと悟りには差がないと「煩悩即菩提」という仏の教えの核心を説明している。それは、「へだたり」という言葉と大きく意味の違いがある。まったく正反対である。この『源氏物語』の段をよく堪能する時に、『細流抄』『弄花抄』などの古い注釈書にうるさく引用してある仏典の文章は、すべて適合しない。「へだたり」とは「違い」というような意味だ。
「この、人のよき悪しきばかりのことは変りける」。前に「へだたり」といい、ここでは「変りける」といっているのこそ、仏教を具体例に出した理由として重要なところである。それなのに、「悟りと迷いとに差はない」という意味に行き着いて注釈しているのは、どういうことか。それならば、人間も善い悪いの区別がないという意味になってしまう。これは、紫式部の真意であろうか。
そもそも、これらの注釈書は、作者の真意までは言うまでもなく、文章の表面をさえきちんと検討しないで、でたらめに勝手なことを並べた、非常にいい加減なものであり、あれこれと批判するまでもないことである。
ところで、また「紫式部は、天台宗の許可を得て奥義を悟っているので、すべて天台宗の経典をもって書いた」というのも、紫式部の真意に反するものである。まず紫式部の性格を考えると、学問めいて利口ぶったことを非常に嫌がって恥ずかしがる性分であり、『源氏物語』の作中にもその性格が表れている。彼女の書いた『紫式部日記』においてもその性格は、はっきりしている(このこと、さらに後で述べている)。なのに、どうしてここで、そのような仰々しいことを言い出すだろうか。たとえ、そのようなことを書くつもりだったとしても、この場面は表面的には源氏の君が玉鬘の君に語っているところである。源氏の君自身は、天台宗の経典の奥義をよく理解なさっているとしても、若い姫君に対して、どうしてそのような奥義や、仏法の意義を比喩としておっしゃるだろうか。若い女性が、どうしてそのような本格的で仰々しい事を聞いて、理解なさるだろうか。女性などに言う言葉は、ただ簡単で理解がしやすくて、身近な事柄がよいのだ。だからこそ、「方便ありて」とは言わずに「方便ということ」と言っている。こういう言い回しからも、女性に向けて言った言葉だと理解しなければならない。紫式部は、このようなところに、特別に注意して書いている。そういうことの配慮がなく、無作法に書くような人物ではない。
【原文】
「『方等経』云々」。仏の方便は大小乗の諸経ともに多くあることなれど、ことに方等部の経にはここかして相違せるやうのこと多し、となり。
「いひもてゆけば一致に当りて」。これを「五時の教へことごとく法華一実に帰する」と注するはかなはず。また「畢竟皆空」、あるいは「万法一如」などと釈するは、いよいよ当らぬことなり。これはただ、仏の本意は衆生を救はむためなれば、さまざまの方便もみな空しからず、畢竟の極意をいひもてゆけば、方便も実教も差別なく一致なり、といへるなり。
「菩提と煩悩とのへだたりなん」。この「へだたり」といへるを、諸抄には何と見たるやらん、大きに心得ぬ注なり。「悉皆天台の法文にて書ける」といひて、龍女成道のことなど引きて、煩悩・菩提、差別なき極意をいへり。それは「へだたり」といへるに大きに相違せり。裏腹の違ひなり。この所をよくよく味ふ時は、『細流』『弄花抄』などにことごとしくいへる法文、みなこの段にかなはず。「へだたり」とは、「違ひ」といはんがごとし。
「この、人のよき悪しきばかりのことは変りける」。前に「へだたり」といひ、ここに「変りける」といへるこそ、仏教を証例に出だしたる肝心要のところなれ。それを「菩提・煩悩、へだてなし」といふ心に落着して釈したるは、いかにぞや。 それならば、人もよき悪しき差別なしといふ心に落着するなり。これ、作者の本意ならんや。
大方これらの注釈は、作者の本意まではさらにもいはず、文面をだにくはしくはかへりみずして、みだりにいひ散らしたる杜撰のいたり、とかくいふにもたらぬことなり。
さてまた「式部は天台の許可を受けて宗旨をはめたれば、悉皆天台の法文をもて書ける」といへるも、式部が本意にそむくなり。まづ式部が気質を考ふるに、学問だてし賢しだちたることをば大きに憎み恥ぢたること、巻々にその心あらはれ、かれが『日記』にもその心あらはなり(このこと、なほ奥に記すべし)。しかるにいかでかここにさやうのことごとしき事をいひ出づべきぞや。たとひさやうのことを書くべきにもせよ、ここは表は源氏の君の玉鬘の君への物語なり。 源氏の君自身は天台の法文の奥旨をよくわきまへ給ふとも、若き姫君に対して、いかでかはさやうの宗旨の大事、仏法の大義を譬へに出だしてのたまふべき。若き婦人の、いかでかはさやうのはかばかしきしたたかなる事を聞きて心得給ふべき。婦人などにいふ詞は、ただやすらかによく聞えて、物遠からぬことにてこそあれ。されば「方便ありて」とはいはずして「方便といふこと」といへる、これらにても婦人にいふ詞をさとるべし。紫式部はかやうのところに別して心をつけて書けり。さやうのこと用意なく、みだりに書く式部にはあらず。
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