この記事では、『山路の露』の原文・現代語訳を掲載しています。
1.序章/薫、浮舟の近況
2.浮舟と小君の再会/都の火災
3.浮舟と薫の再会 ←この記事
4.右近と母、浮舟の生存を知る
5.浮舟、母と右近に再会/妹尼、経緯を語る
6.匂宮、薫、女二の宮の近況/都と小野の歳末の様子
13.薫、小君から報告を聞く
【現代語訳】
火の勢いは物凄かったけれど、間もなく鎮火して、周辺は静かになりました。集まっていた人たちもみな退散して、騒動の余韻もなく落ち着いています。薫は明けていく空の情緒深い様子を、渡殿に出てご覧になるという体で、あの小君をそばにお呼びになりました。
「昨夜は、遅くまでずっとお前の帰りを待っていたのだよ。いつ帰ってきたのだ」
と薫がおっしゃると、
「さきほどの火災のどさくさに紛れて帰参いたしました」
と小君は申し上げます。
「どうだったか。いつもと同じような、物足りない返事だろうと思うと、残念だよ」
と薫はおっしゃいますが、小君は、浮舟に(自分が別人であると)あえて事実とは違えて薫に申し上げてほしいと言われています。その上、(薫に居場所が知られることを)本当に嫌だと思っていらっしゃる浮舟の顔が、小君には心にしみて気の毒に思い出されます。小君は少しの間、躊躇しながら、
「最後まで隠し通せることではないのだ。(今嘘をついたところで、後で)事実ではないとわかったら、良くないことになるだろう」
と思って、小野で見た浮舟の様子を詳細に薫に報告し申し上げます。薫は、すでに横川僧都から、浮舟が出家していることを確かに聞いていらっしゃいますが、やはり(浮舟の出家を)本当のこととはお思いになれません。しかし、確かに報告通り浮舟は尼になっているのだろうと、前例がなく、呆れたことだとお思いになっていらっしゃいます。
「姉上は尼姿にまでもおなりになってしまったので、姉上とも思えないほど様変わりして」
と小君が薫に申し上げると、
「薄気味悪い尼姿になってしまわれたのか」
と薫はお尋ねになります。小君は、
「ただもう、姉上の美しさは昔のままで」
などと言うやいなや、涙が流れ落ちるのを隠そうとしてうつぶせになるのを、薫はしみじみと不憫に思いながら見ていらっしゃいます。
【原文】
いみじかりつれども、程なく燃え止まりて、世の中静まりてみなまかで散りなどして、名残なくしめやかなるに、君は明け行く空のをかしきに、渡殿に立ち出でて見給ふとて、かの童召しよせたり。
「よべは更くるまでこそ待ちしか。いつ程にものしつるぞ」
とのたまへば、
「ありつる紛れに参りつる」
と聞こゆ。
「いかにぞ、例の同じいぶせさならんと思ふこそ、かひなけれ」
とのたまふにも、さしもあらぬさまに聞こえなしてよとて、まことに憂しと思ひ給へりつる人の御面影あはれに心ぐるしう思ひ出でられて、しばしためらひながら、
「つひに隠れなからんものゆゑ、事たがひては悪しかりなん」
と思ひて、ありつるさま細かに聞こゆ。 日ごろもさぞと確かに聞き給ひしことなれど、猶うつゝとは思ひ給はぬに、げにとさておもはすらん。めづらかにあさましうおぼす。
「あらぬさまにさへなり給ひにければ、その人ともなく面変はりして」
と申せば、
「うとましげにやなり給ひし」
と問ひ給へるに、
「たゞありしながら」
など言ふまゝに涙の落つるを紛らはしてうつ伏したるを、いとあはれに見給ふ。
14.薫、浮舟が母に宛てた手紙を読む
【現代語訳】
「では、浮舟が母親に届けよと言ったという手紙は」
と薫がおっしゃると、小君は手紙を取り出しました。薄く墨色がかった青色の紙が、とても小さく巻紙になっていて、手紙の表面を見るやいなや薫は不思議なくらいに心が動きます。ましてや薫は、手紙の内容が気になるので、開封してお読みになろうとして、
「(他人宛の手紙を開けて読むとは)身分の低い人間がやりそうなことだな。自分のことながら、どうしてこんな卑しいことをするようになったのだろう」
と微笑みになりました。浮舟の手紙は、まったくかつてと同じ筆跡であるけれど、筆遣いも迷いながら書いた形跡がはっきりと見えます。墨の具合も途切れ途切れで、
「この世が嫌になって捨てた命はなくならずに、私は再び同じつらいこの世に生きています
私を迷わせた、心に巣くう闇を思い返すにつけ、出家して仏道に励む現在の境遇を嬉しく思います」
と書いてあるのをご覧になると、薫はたいそう切ない気持ちになります。しばらく我慢していらっしゃった涙は、溢れんばかりです。
ほのかに明けていく空に朝の光がにじんでいます。薫は表現のしようもなく美しく、物事を深くしみじみと感じなさっているご様子は、たいへん優美にお見えなります。小君も、薫のことをとても素晴らしいと見つめ申し上げながら、
「(薫は浮舟を)これほどにもお思いになっているようなのに、(浮舟が出家して)甲斐のない姿になってしまわれたことを、残念でもったいないことだ」
と思っていました。薫は、
「(浮舟が母親に宛てた手紙について)もう少し考えることがあります。今日明日を過ごしてから、母親に伝えさせるようにしなさい」
とおっしゃって、手紙を持ったままでいらっしゃいます。さらに薫は、
「とても軽々しいようであっても、今夜こっそりと小野に出かけようと思うので、そのつもりで、夕方に参上しなさい」
とおっしゃるので、小君は、浮舟がどうお思いになるかと心配だけれど、そう申し上げることもできず、承知して邸を退出しました。
【原文】
「さて、その伝へよとあるらん文は」
とのたまへば、取り出でたり。青鈍の紙いとさゞやかに押し巻きたるうはべよりあやしう物あはれなり。まして物の心ゆかしければ、開けて見給ふとて、
「よからぬ人のあらむやうにもあるかな。我ながらなどかく屈しけん」
とほゝゑみ給ひて、たゞありしながらの手なれども、筆の行くかたも迷ひける程しるく見えて、墨つきかれがれにて、
「いとひつゝ捨てし命の消えやらでふたゝびおなじ憂き世にぞふる
迷はせし心の闇を思ふにもまことの道は今ぞうれしき」
とあるを見給ふに、いみじう悲し。とばかりためらひ給へる御袖の雫ところせきまでなん。
ほのぼのと明けゆく空の光に、いふよしなうきよらにて、物を深くあはれと思ひ給へる御けしき、いみじうなまめかしく見え給ふを、この子もいとめでたしとうち
まもり聞こえつゝ、
「かばかりおぼしためるに、かひなきさまになり給へるを、惜しうあたらし」
と思へり。
「猶しばし思ふやうなんある、いま今日、明日過ぎて伝へさすべき」
とのたまひて、持給へり。
「いとかろがろしきやうなりとも、今宵忍びてものせんと思ふを、その心まうけして、夕つかた参れ」
とのたまへば、いかにおほさんと苦しけれど、さもえ聞こえさせず、うけたまはりて出でぬ。
15.薫、小君をともなって小野へ赴く
【現代語訳】
日が暮れたので、薫はたいへん人目を忍んで目立たないようにした女用の牛車に乗ってお出かけのようです。(小野に近づいて)山道になってからは、牛車から馬に乗り換えなさいます。夕霧がたちこめて、道はとてもわかりにくいけれど、薫は(浮舟に対する)熱意に導かれて、急いで移動されます。しかし、一方では、(自分がどうしてこうまでして浮舟に会いたいのか)不思議に思っていて、
「(浮舟が出家した)この期に及んでは、(自分が会いに行っても)その甲斐はないだろうに」
とお思いになりますが、せめて夢のようであった昔の出来事を語り合いたいと、早く小野に着きたいというお気持ちでいます。空に浮かぶ雲を四方から吹く風が払ったので、雲の欠片もなく澄み切った月が空に昇って、薫は、遥か遠くまで見通せるような気がしました。様々なことが思い起こされることでしょう。山の奥深くに進んでいくにつれて、道はうっそうと草木が生い茂っていて露も多くなってきました。薫の随身は目立たない服装をしているけれど、そうはいっても高貴な人の従者らしく、手際よく先導の露払いをしており、その様子も風情があるように見えます。
小野の里は、山の麓のたいへんこぢんまりとした所でした。まずあの小君を邸の中に入れて様子をお探りになると、
「こちらの門には鍵がかけてあるようです。竹垣を巡らせたところに、通る道があるようです。そのままお入り下さい。誰もいません」
と申し上げるので、薫は
「少しの間、物音を立てるなよ」
とおっしゃって、自分一人で邸の敷地内にお入りになります。
【原文】
暮れぬればいみじう忍びやつしたる女車のさまにておはすべし。山道になりてぞ、 御馬には乗り移り給ひける。 夕霧立ちこめて道いとたどしけれども、深き心をしるべにて、急ぎ渡り給ふもかつはあやしく、
「今はそのかひあるまじきを」
とおぼせども、ありし世の夢語りをだに語り合はせまほしう、行く先急がるゝ御心地になん。 浮雲払ふ四方の嵐に月名残なう澄みのぼりて、千里の外まで思ひやらるゝ心地するに、いとゞおぼし残すことあらじかし。山深くなるまゝに、道いと繁う露深ければ、御随身いとやつしたれど、さすがにつきづきしく御先の露払ふさまもをかしく見ゆ。
かしこは山の麓にいとさゞやかなる所なりけり。まづかの童を入れて案内み給へば、
「こなたの門だつ方は鎖して侍るめり。竹の垣ほしわたしたる所に、通ふ道の侍るめり。たゞ入らせ給へ。人影もし侍らず」
と聞こゆれば、
「しばし音なくてを」
とのたまひて、我一人入り給ふ。
16.薫、勤行をする浮舟に近づく
【現代語訳】
小柴垣を簡素に巡らせてあるのも、(こういう山里では)どこも同じことだけれど、(この邸は)たいへん好ましくて風情のある造りです。妻戸(建物の四隅に設けられた板戸)も開いていて、まだ人が起きているのかと見えるので、薫は生い茂った植木の根元伝いに建物に近づいて、軒のそばの常緑樹がうっそうと茂っている下に隠れて、(邸の中の様子を)ご覧になります。手前の部屋は、仏間のようです。仏に奉るお香のかおりが深くたちこめていて、ちょうどこの部屋の端で勤行をしている人がいるのでしょうか、広げた経が巻き戻される音も静かに好ましく聞こえて、しんみりと趣があります。薫は、理由もなくそのまま涙が出そうな気持ちになって、しみじみと見ていらっしゃいます。しばらくして勤行が終わったのか、
「素晴らしい月の光だわ」
と独り言を言って、簾の裾を少しあげて、月をじっと眺めています。その横顔を見て、薫は昔のままの浮舟の顔が急に思い出されになって、胸がいっぱいになりました。見ていらっしゃると、月の光がくまなく部屋の中に射しこんでいて、濃い灰色、薄紅色などでしょうか、袖口が好ましく見えます。(尼削ぎで短く切った)額の髪がゆらゆらと顔にかかっている、その目元のあたりがたいそう優雅で美しく、このような尼姿なのがさらに可憐さがまして、薫はじっとしていられない気持ちで浮舟を見つめていらっしゃいます。さらに浮舟はしばらく物思いに耽って、
どこにいても同じように照らす月の光だけが、昔の秋と変わらないものなのでしょうか
(月以外はすべて昔と変わってしまった)
と、静かに独り言を言って、涙ぐんでいるのは、たいへん胸を打つ様子であるから、真面目な人(薫)もそこまでは感情を抑えることがおできにならなかったのでしょう。
宇治の月は涙で見えなくなり、昔のままの月の光を見ることはありませんでした
(宇治で姿を消してから、浮舟の姿を見ていない)
と歌を詠んで、薫が不意に浮舟に近づきなさると、浮舟はまったく思いもよらなかったことで、化け物などというものが出たのかと気味が悪くて、部屋の奥に隠れようとなさいます。薫はその袖をつかんで引き寄せなさるやいなや、涙をせき止められないご様子です。浮舟は驚いたとはいえ相手が薫だとおわかりになり、とても恥ずかしく残念に思われます。(今目の前にいるのが)気味の悪い化け物ならば仕方がないけれど、(そうではなく薫に)この世に生きている人だと知られ申したことが、辛いことだと思って、どうにかして(小野にいるのは)自分ではないと訂正していただこうと、いろいろと手段を思いめぐらせてみます。しかし、それも甲斐なく薫に自分のことを知られてしまったと、どうしようもなくて、浮舟は涙があふれるばかりで、茫然自失の様子はたいへん可哀想です。
【原文】
小柴といふ物はかなくしなしたるも、同じことなれどいとなつかしくよしあるさまなり。妻戸も開きて、いまだ人の起きたるにやと見ゆれば、茂りたる前栽のもとより伝ひ寄りて、軒ちかき常磐木の所せく広ごりたる下に立ち隠れて見給へば、こなたは仏の御前なるべし。名香の香いと染み深く薫り出でて、たゞこの端つかたに行ふ人あるにや、経の巻き返さるゝ音も忍びやかになつかしく聞こえて、しめじめと物あはれなるに、何となくやがて御涙すゝむ心地して、つくづくと見ゐ給へるに、とばかりありて、行ひ果てぬるにや、
「いみじの月の光や」
と、ひとりごちて、簾のつま少し上げつゝ、月の顔をつくづぐとながめたるかたはら目、昔ながらの面影ふとおぼし出でられて、いみじうあはれなるに、見給へば、月は残りなくさし入りたるに、鈍色、香染めなどにや、袖口なつかしう見えて、額髪のゆらゆらと削ぎかけられたる、まみのわたりいみじうなまめかしうをかしげにて、かゝるしもこそらうたげさまさりて、忍びがたうまもりゐ給へるに、猶とばかりながめ入りて、
里わかぬ雲居の月の影のみや見し世の秋にかはらざるらん
と、忍びやかにひとりごちて、涙ぐみたるさま、いみじうあはれなるに、まめ人もさのみはえ静め給はずやありけん、
古里の月は涙にかきくれてその世ながらの影は見ざりき
とて、ふと寄り給へるに、いとおぼえなく、化け物などいふらん物にこそとむくつけくて、奥ざまに引き入り給ふ袖を引き寄せ給ふまゝに、堰き止めがたき御気色を、 さすがそれと見知られ給ふは、いとはづかしう口惜しくおぼえつゝ、ひたすらむくつけき物ならばいかゞはせん、世にある物とも聞かれたてまつりぬるをこそは、憂きことに思ひつゝ、いかであらざりけりと聞きなほされたてまつらんと、とざまかうさまにあらまされつるを、逃れがたく見あらはされたてまつりぬると、せんかたなくて涙のみ流れ出でつゝ、我にもあらぬさまいとあはれなり。
17.薫、浮舟に気持ちを語る
【現代語訳】
悲しみも苦しみも、どのことから切り出して全てを語ることがおできになるでしょう。
「あなた(浮舟)がただもうあっけなく亡くなったと聞いた時の私の気持ちは、かえって言うべき言葉もありませんでした。後になって(入水という)普通ではない亡くなり方だったと聞くことがあって、ますます混乱しましたが、無常なこの世の摂理として理解しようとしたのです。普通の死者を偲ぶ思いだけで、あなたは死んで朝には雨となり、夕方には雲となっているのだろうと眺めていたときは、亡き大君に対する心残りもあって、さらにいっそうの思いが加わって、これ以上長生きすることはできないだろうという気持ちでした。ところが、夢のようなこと(浮舟生存の報告)を人が詳しく知らせてくれたからは、どうしてそんなことがあろうかと、あちらこちらと夢の中でさまよっている心地がして、夢占をして事実かどうかを確かめる機会があるだろうかと、そればかりを願ってすごしてきたのです。そんな私の胸のうちを、あなたは少しもご存知なかったでしょう。思いあまって京からさまよい出た先の、小野の山道で露に濡れた姿を、神仏も気の毒におぼしめしたのでしょうか、思いがけずこれだけでもあなたに聞いていただけました。生きている甲斐もないこの命を長らえたことが、今初めて嬉しいのです」
などと、薫は、(筆者が)全てをその通りに(この物語で読者に)伝えることができないくらいに(長々と)お話しになるので、浮舟も当惑はしているものの、胸打たれてお聞きになる点もあります。しかし、浮舟は言うべき言葉も見つかりません。ひたすら泣いていらっしゃる様子は、おっとりとして可愛らしいです。
【原文】
憂さもつらさも、いづくをはじめと語り尽くし給はん。
「だゞあへなく聞きなしつる心の内は、なかなか言ふべきかたなかりしを、程へて後にあやしきさまにさへ聞くことありしに、いとゞ心も乱れまさりて定めなき世のことわりに思ひなしゝを、一かたの嘆きばかりにて朝の雨夕の雲ともながめしは、よそふるかたの名残もありしに、今一しほの思ひ添へて、さらに長らふまじき心地なんせしを、又、夢のやうなることをまねぶ人のありし後は、いかでさることあらんと、とざまかうさまに夢より夢にまどひつゝ、あはする折ありなんやとのみ、嘆き過ぐしつる心の内を、片端もいかでおぼし知らざらん。 思ひかねあくがれ出づる山道の露けさを、仏神もあはれみ給ひけるにや、思ひのほかにかばかりも聞こえぬるは、かひなき命の長らへけるも、今なんうれしき」
など、すべてまねぶべくもあらずのたまひ続くるに、さすがあはれと聞き給ふふしもあれど、 言ひ出でんかたなくて、ただうち泣き給へるさま、おほどかにらうたげなり。
18.薫と浮舟、和歌を詠む
【現代語訳】
「そうですよ、あなたがまったくこのように(出家して)私のことをお見捨てになっているのがつらくて耐えられないのです。昔から、(あなたに愛されていないと)分かっていました。しかし、(あなたを愛する)心の深さに関しては、他の男はこれほどではないだろうと、私一人でそう思っているのです。だからこそ、馬鹿げた恨み言もあなたに言ってしまうのでしょう」
と薫はおっしゃいます。浮舟は、(自分と匂宮の)思い出したくない過去を少しあてつけておっしゃるのを聞くのがたいへん居心地が悪いので、ますます言うべき言葉が思いつきません。けれど、あまり黙っているのも不自然なので、
死にそこない、(出家して)生きているともいえないような今の私を、現実としてではなくただ夢としてそのままにしておいてください
小さな声でつぶやくのも、昔の浮舟に変わらず好ましい様子です。いろいろと辛いことを経験してきたせいか、昔よりも身のこなしや心遣いが奥ゆかしく大人っぽくなったような気がして、薫は
「故人(大君)に、やはりよく似ているなあ」
と思っていらっしゃいます。よりいっそう浮舟への思いを募らせるお心ですよ。
「これまで(浮舟の安否を思って)心が乱れたことさえ残念なのに、再会した後も、強情に『あれは夢だった』と言うのは、とんでもないことです」
薫は、そうおっしゃって、
あなたが失踪した時のことを思い出すだけでも悲しいのに、再会できたこの状況を、またつらい夢になどできるでしょうか
とお詠みになります。本当にたいそう浮舟のことを深くお思いになって、涙を袖で押さえて隠していらっしゃる薫のご様子は、少しでも情感のある人間であれば、胸を打たれない人はいないでしょうよ。浮舟のお心もまた、薫の昔から変わらない優しさが、耐えられないくらいに心をしめつけています。(浮舟の心を感じた薫は、)
「私以外の男であったら、これほどまでに横川僧都の忠告どおりに、衝動を抑えることはできないだろう」
とお思いになりますが、御簾の内側にはお入りになりません。上品に浮舟の横にお座りになって、言い尽くせない気持ちを浮舟に親しく語りかけなさいます。
「このまま、(まだ若いのに)このような尼姿のままでは(かえって)罪を作ることになるでしょう。どうしてもう一度、以前と変わらない姿で私に会おうとお思いにならなかったのですか」
と言って、薫は自制しているとはいえ、強く訴えかけなさいますが、浮舟はただただ辛いと思って聞いていらっしゃいます。
【原文】
「さりや、いとかくおぼし捨てたるなんつらき。昔より思ひ知りにし身なれども、深き心の色はかうしも人はあらざりけると、我のみ思ひ知らるゝに、烏滸なる恨みも添ふにやあらん」
とのたまふに、憂かりし筋のこと少しかすめ給ふを聞くがいみじうはづかしくて、 いとゞ言ふべき言の葉もおぼえねども、あまりおぼつかなからんもあやしかりぬべければ、
長らへてあるにもあらぬうつゝをばたゞそのまゝの夢になしてよ
ほのかに紛らはしたるも、昔に変はらずなつかし。よろづ思ひ知りたるしるしにや、ありしよりももてなし、用意、心にくゝねびまさりにたる心地して、
「昔の人にも猶ようおぼえたるかな」
と見給ふに、いとゞしき御心のうちなりかし。
「過ぎにし方の迷ひだに悔しきを、かつ見て後も、しひて夢になさんことこそあるまじけれ」
とて、
思ひ出でて思ふだにこそかなしけれまたや憂かりし夢になすべき
げにいと心深くおぼし入れて、おしのごひ紛らはし給へる御さまは、少しもの思ひ知らん人は、あはれ見過ぐすやうはあらじかし。かの御心はた、昔に変はらぬなつかしさの忍びがたうあはれなるにも、
「我ならざらん人は、いとかうしも僧都の諌めにも憚らじかし」
とおぼし続くれど、内へだに入り給はず、さまよく寄りゐ給ひて、尽きせぬこともなつかしう語らひ給ひつゝ、
「猶、かゝる御さまなん罪得ぬべき。などか今一たび変はらぬさまにてあひ見んとはおぼさゞりける」
と、さすが引き動かし給ふも、苦しとのみ聞き給ふ。
19.薫と浮舟、語り明かす
【現代語訳】
ただ、あの向かいの山の峰に立った松が見えるだけで、強い山風が吹いて鹿の声が響き渡っているのが、殺伐として次から次へと聞こえて物寂しい。ぼんやりと見る庭の草むらは露が玉のように輝いて、段々と澄んでいく月は秋を悲しんでおり、虫の声も悲しげです。それらを寄せ集めて風情があふれるような場所の様子においては、世間一般のなかなか逢えない男女の逢瀬でさえも、感動がますに違いないでしょう。ましてや、薫が「現世ではなんとかして夢の中ででも逢いたい」と思っても、はっきりとは見ることができなかった浮舟の姿を、(今は)ただ昔のままの姿で対面していらっしゃる感動は、どうして並ひととおりでありましょうか。
「このような例は他にはないでしょうよ」
と言って、途切れなく涙をぬぐいなさる薫の袖の香りは、この世のものとも思えないくらい良い匂いです。曇りなく澄んだ月の光のもとで、小野という場所柄、薫はよりいっそう何とも言えないくらい優雅にお見えになります。
浮舟も、薫の訪問に当惑しているとはいえ、人情をわきまえていらっしゃるので、薫と世間一般に親しく、思いやり深く言葉をお交わしになります。そうではあるけれど、薫は中途半端な下心をうかがわせなどもなさらないのを、他の男と違って珍しいことと(浮舟は)分かって、少しは薫に対する愛情も高まったことでしょうよ。いつものように、恋愛めいた話に口出ししたくなる老尼たちは、
「姫様(浮舟)の寛いだご様子を、薫大将はどうご覧になったかしら。こんなに2人が仲睦まじいのに、(浮舟が)質素な尼姿におなりになったことを、今改めて残念に思うわ」
などと言っています。老尼が、浮舟のいる部屋の格子を細目に開けて覗くと、薫は、妻戸にかかっている御簾をかぶっているように見えます。(御簾の下方から薫の)指貫の裾だけがわずかに見えているのを、老尼は
「たいへん優美なお姿だね。今時の若者は、こんなふうではないのに、薫大将は思慮深いご様子だこと」
などと言って、褒めちぎっているのも感心できません。
「薫大将殿のそばを吹きすぎていく追い風の香りなどは、ましてや気味が悪いほどにこの世のものとは思えないよ。仏様が(法華経で)お説きになった栴檀の香りも、(薫の体から香る芳香によって)今はじめて想像できるわ」
など、老尼たちは薫の覗き見に夢中で、夜通し格子のそばにこっそりと立ったままでした。
「薫大将殿は、まだそのまま同じところにいらっしゃるようだね。あきれるほど愛情が強いのでしょうよ」
などと、口々にささやいているのも、不適切なお節介ですよ。
【原文】
たゞかの向かひに峯の松、嵐に鹿の音ひゞき添えたる程、すごく聞きわたされてもの悲しきに、ながむる庭の草むらは、露のみ玉かとみがきつゝ、澄み行く月は秋を愁へ顔なる虫の声など、とり集めあはれを尽くしたる所のさまなるに、世の常のまれなる仲の行きあひだにも、多くあはれも添ひぬべきを、この世にはいかで夢にだに定かには見がたかりし面影を、たゞそれながらあひ向かひ給へるあはれは、いかでなのめならん。
「またかゝるためしあらじかし」
と、たえずおしのごひ給へる御袖の匂ひ、この世のものともおぼえず、隈なき月の光に、所からいとゞいふよしなくなまめかしく見え給ふ。
女もさこそいへ、思ひ知り給ひければ、大方はなつかしく心深く語らひ給ひながら、さこそあれ、なま心ぎたなきかたうち交ぜなどもし給はぬを、人には異にありがたく思ひ知られつゝ、少しあはれもまさりけんかし。例の色めいたるさし過ぎ人どもは、
「姫君のうちとけたりつる御さまを、いかに見聞こえ給ふらん。かかりける御ことどもに、やつい給ひてしことこそ、今更口惜しけれ」
など言ひて、そなたの通りの御格子細めて覗きければ、妻戸の御簾引き着ておはすめり。指貫の裾ばかりほのかに見ゆるを、
「いみじう艶なる御さまかな。 今様の人はかうしもあらぬものを、思ひやり深き御気色こそ」
など、愛でまどふも心づきなし。
「吹き過ぐる御追ひ風などは、ましてうたてこの世のほかの心地こそすれ。仏の説い給へる栴檀の薫りも今こそ思ひやらるれ」
など、心も空にて、夜もすがら格子のもとに忍び佇みつゝ、
「いまだそのまゝにてこそおはすべかめれ。あさましき御色の深さなりや」
など、口々さゞめくもけしからぬ思ひやり心なりかし。
20.薫、小野から引き上げる
【現代語訳】
だんだんと夜明けが近い雰囲気になってきたので、薫は退出なさろうとして、
「あなた(浮舟)がまったくこのように満足がいかず、晴れない思いをなさっているのは、いろいろと辛いことの多い我が身の責任だと思っていますが、やはり残念です。私は昔から仏道に惹かれる心を持っていたので、(浮舟が出家した)今となってはいっそう、あなたへの愛情がまさってきています。普通の男女とは違った関係であっても、疎遠にならない程度にご連絡申し上げたいのです。これほどまでには俗世から離れていない所に、あなたをお移し申し上げましょう。昔、(浮舟が滞在していた)宇治の山荘は、八の宮がご存命だった頃から感興のそそるところだと思っていましたが、つらい思いをしてからは<浮舟と匂宮の密通>、『憂し』に似ている『宇治』という地名にまで文句をつけたくなって、(宇治の山荘は)以前とくらべて一段と荒れ果ててしまいました。それはそうと、今日の夜明けの空ほど、心が激しく乱れることは、いまだかつて経験したことがありません。未明の暗い朝の露にしっとりと濡れた袖が、どうしてこんなに濡れているのかお分かりですか(涙ですよ)」
と言って、次の和歌を詠みました。
想像してください、小野への山道を露に濡れながらやってきて、再び露を分けて帰る朝帰りの私の袖を
と、愚痴をおっしゃる薫の悲しみも、いい加減ではないでしょうよ。浮舟の返歌は次の通りです。
露の多い山道を歩いていない私でさえ、秋はいつも袖が涙で濡れるものです
「思った通りだ。軽々しくおっしゃいますね。私が真剣な気持ちで差し上げる手紙の返事など、今後は私が不安になるような態度はなさらないでください。(そんなことをされたら)あなたのことを嫌いになってしまいそうですよ」
など、薫は何度もおしゃって、(日が昇って明るくなり)人目につくようになる前に慌てて退出なさいました。薫は非常に質素な狩装束を着ていましたが、たいそう優雅で美しく、露の多い草むらをかきわけてお帰りになる様子は、(薫を遠ざけようとしている浮舟でさえ)そうはいってもしみじみと心を打たれてご覧になることでしょうよ。
【原文】
やうやう明け方近き心地すれば、出で給ひなんとて、
「いとかう心ゆかずおぼしむすぼゝれたるこそ、憂き身の咎に思ひなせども、猶うれたけれ。昔よりかゝる方に進みにし心なれば、今しもあはれ添ひて、さま異なるむつびまでも、おぼつかなからぬ程に聞こえまほしきに、かばかり世離れたらぬ所に移ろはせ聞こえん。昔の山里は、宮のおはせし世よりあはれに思ひしを、 憂かりし後は、里の名をさへかこちてこそ、ありしよりけに荒し果てにしか。さてもこの暁の空ばかり心尽くしなること、まだ身に知られざりつる。夜深き露にしをれん袖よ、いかがおぼし分けん」
とて、
思ひやれ山路の露にそぼち来てまた分け帰る暁の袖
と愁へ給へるあはれさも、なほざりならんや。
露深き山路を分けぬ人だにも秋はならひの袖ぞしほるゝ
「さりや、浅はかにものたまひなすかな。まめやかに聞こえさせん御返りなど、今はおぼつかなうなどもてなし給ふな。うたてあらん」
など返すがへすのたまひて、はしたなからぬ程に急ぎ出で給ふ。いたくやつしたる狩の御よそひも、いみじうなまめかしくをかしげにて、露けき草むらを分け出で給ふ 御さまは、さすがあはれと見給ふらんかし。
21.帰京した薫と浮舟、手紙の遣り取りをする
【現代語訳】
夜が明けると、老尼たちは、仏前で(薫と浮舟の2人は)どのように打ち解けて語り合ったのだろうかと、あらためて部屋の中をうろつきます。薫が座っていらっしゃった場所に残っている香りなどを、褒めそやして、
「『袖ふれし藤袴』ではないけれど、薫がいらしゃったところには、別の良い匂いが染みて匂うわ」
など、不快になるくらい大げさに語り合うのも、なんだか憎らしい。しかし、都の人でさえ類い稀なお方として称賛申し上げる(薫の)ご様子なので、まして大した魅力もない(僧都の妹尼の死んだ娘の)婿の中将ばかりを、小野の山里の光と思ってきた老尼たちの心では、大げさに薫をお褒め申し上げるのも、仕方のない部分がありますよ。
浮舟が何となく人に会いたくない気分で、普段よりいっそう勤行に専念していらっしゃるところへ、早くも薫から手紙が届きました。浮舟は、いつものようにすぐには手紙をご覧にならないので、尼君は、
「なんともうぶなご様子ですね」
と言って、手紙を開封してお見せ申し上げます。薄藍色の丈夫な素材の料紙に、
「小野から帰ってきて、まだ私の心は困惑しています。長い夜に見る夢のようなあなたを、現実のこととして受け入れらなくて
今朝はいっそうぼうっとした心地です。(小野に住んでいるあなたに)ただ申し上げる手段もないのです。出家した今、あなたは人の心の機微がおわかりになるはずの境遇なのに、いまだに変わらないご様子なのは、かえって私の心を乱れさせます」
と書かれています。浮舟は、すぐに薫にご返事申し上げるのは、やはりたいへん気が引けて、思いもなさらないのを、尼君は、
「たいそう思慮の足りないことですよ。こんなに薫大将が真面目に申していらっしゃるのに、(返事を書かないのは)逆に気持ちを煽っているようにお感じになるでしょう」
などと申し上げます。浮舟は尼君に、丁寧に道理を説明されて、泣きながら、薫からもらった手紙の余白に、
以前(宇治川への入水をこころみる時)と同様に、私の魂は体を抜け出して、夢か現実なのかよくわかりません
とても素っ気なく書いて、薫にお返事を申し上げました。
(浮舟からの返事を)待っていらっしゃった薫は、(返事を読んで)
「出家したからといって、急にわざとらしい(地味な)色の料紙に返事を書くのも、いかがなものか。2人の関係には似合わないだろう。また、逆にもしも恋文めいた薄い和紙などであったなら、(出家した)今では気に入らないということもあろう。(しかし、浮舟は別の紙に書くことを避けて)さりげなく(薫からの手紙の余白に)目立たないように書いたのだ。このような細やかな心遣いは、昔からなかなかのものだと思っていたが」
などとお思いになりました。
※1 「主しらぬ香こそにほへれ秋の野にたが袖ふれし藤袴ぞも」(古今和歌集・秋上・素性法師)の和歌を踏まえた表現
【原文】
つとめては、人々、仏の御前のうちとけざまいかなりけんと、今更めぐりて寄りゐ給へりし所の移り香などを、愛で騒ぎつゝ、
「袖ふれし藤袴、あらぬ匂ひにこそ染み薫りにけれ」
など、うたてことことしく言ひあへるも、なま憎けれど、都の人だに猶いと尽きせずめづらかなることに愛で聞こゆる御さまなれば、まして何ばかりの事もなき婿の中将をのみ、山里の光に思ひあへる心どもにには、おどろおどろしく愛で聞こえ侍るも、ことわりなる方もありかし。
姫君は何となくつゝましき心地して、いとゞ経にのみ紛らはしてゐ給へるに、いつしか御文あり。例のとみにも見給はねば、尼君、
「いとわかわかしき御さまかな」
とて、引き解きて見せ聞こえ給ふ。縹の唐紙すくよかなるに、
「たちかへり猶こそ惑へ長き夜の夢をうつゝにさましかねつゝ
今朝はいとゞ心も惚れまさり侍る。たゞ聞こえさせんかたなくなん。今は物のあはれもことにおぼし知るべき御さまに、猶尽きせぬ御気色こそ、なかなか心きよからね」
と。うちつけに御返り聞こえんは、猶いとつゝましうて、おぼしもかけぬを、尼君、
「いと思ひぐまなき御ことになん。かばかりまめやかなるさまに聞こえ給ふめるに、かへりてすきずきしきやうにもおぼしなむ」
など、いたくことわりを言ひ聞かせられて、うち泣きつゝ、この御文のかたはらに、
そのまゝにまた我が魂の身に添はで夢かうつゝかわかれだにせず
いとことなしびに書きてたてまつりつ。
待ち見給ふ心には、あはれにのみおぼしつ、
「さま変はりにたればとてうちつけにことさらめきたる紙の色したるも、いかにぞや、ことのさまにたがひたらん。また、たとひ艶なる薄様の何ぞならんも、今は目につかぬかたありなんを、何となきさまに書き紛らはしたる程、かやうのつまづまの心ばせは、 昔もけしうはあらず見えしを」
などおぼしけり。
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