この記事では、『山路の露』の原文・現代語訳を掲載しています。
1.序章/薫、浮舟の近況
2.浮舟と小君の再会/都の火災
3.浮舟と薫の再会
4.右近と母、浮舟の生存を知る ←この記事
5.浮舟、母と右近に再会/妹尼、経緯を語る
6.匂宮、薫、女二の宮の近況/都と小野の歳末の様子
22.右近、薫から浮舟生存を聞かされる
それから後は、あの手紙(浮舟が母親宛に書いて小君に託した手紙)を母親に届けさせようとして、薫は
「(浮舟の手紙を読んだ母親が)喜びを抑えられず騒ぎ立てて、(浮舟が生きていることが)周囲の人たちにも聞かれてしまうと思うと悩ましいな」
とおっしゃいます。
あの右近という名の女房は、(同じく浮舟の女房であった)侍従などがすぐに明石の中宮に出仕するようになったので、依然として悲しみから立ち直れず、ひなびた所(宇治)に隠れ住んでいました。薫はそのことをお聞きになって、不憫に思われました。右近は性格なども思慮分別があって好ましいものだと、薫は以前から見定めておきなさったので、目立たないようにして参上するようにおっしゃいました。出仕するための装束などをお与えになると、右近はたいそう喜んで参上しました。右近の振る舞いや態度は、もとから薫の女房として仕えている人々にも劣っていないので、薫も見苦しくない女房だと思っていらっしゃいます。
あの夕顔の女房であった右近は、(夕顔が亡くなった後に源氏が)「見し人の煙を雲とながむれば夕べの空もむつましきかな」とお詠みになった時に、その返歌さえも、おぼつかなかったけれど、この右近(浮舟の女房の右近)は、たいへん若々しくて、感じがよくて、歌の方面にも教養があるようです。薫は、その右近にも夢のような(浮舟生存の)ことは、そぶりにもお見せになりませんでしたが、周囲に人がいない時だったので、今やっと右近を近くに呼んで、全部ではないもののお話しになりました。それを聞いた右近の気持ちは何にたとえられるでしょうか。驚き途方に暮れる様子は、無理もありません。薫が、
「私も、(浮舟失踪が)どういうことかとも事情がわからなかった当初は、ただもう宇治川の激しい流れのせいにして恨みました。異様な状態で浮舟を発見した人は、『単に悪い精霊のようなもののしわざでしょう。助けた後も浮舟はまったく回復せず、長く患っていらっしゃいました』などと言うので、宇治の山荘のような古い建物ではそういうこともあるだろうと思っていました。しかし、浮舟が母親に宛てた手紙には、自分からこの世を疎ましくお思いになった(自分から入水を図った)けれど、意に反して生き長らえているというふうに見えるので、どういうことかと理解しがたいのです。失踪直前の様子を見た人ならば、こういうことだと納得がいくこともあるはずでしょう」
とおっしゃると、右近は、
「最初(失踪発覚直後)から申し上げたように、ただもう(失踪前の浮舟は)朝も晩もひたすらお泣きになって、たいそう深く思い悩んでいらっしゃいました。時たま起き上がって座っていらっしゃるときは、来世の罪が軽くなるであろう勤行をなさって、どうやって我が命を捨てようかとお泣きになることもありました。(浮舟が)行方不明になったと判断してからは、ただもう疑うことなく宇治川の底にお沈みになったのだと、今までお思い申し上げていたのです。あの巻数<読誦した経文の回数などを記録した文書>にお書きになった辞世の和歌なども、自分の命もこれまでと、入水の決心をなさったのだとお見受けしましたが、(ご存命とは)どういうことだったのでしょうか」
と言って、激しく泣きます。薫は、
「浮舟の母親は、(浮舟生存のことを知ったら)どんなにか混乱するだろう。あまりに驚いて心が落ち着かない間は、(薫から使いを出しても)騒ぎに紛れてしまうだけでしょう。この小君はとても配慮のある子だけれど、やはり右近が小君に同行して、事情を詳しく言いふらさないように口止めするのがよいかも知れませんね。(事情を知っている人が)一人や二人と思っていてさえ、世間の出来事は隠し立てできないものです。たくさんの人に知られてしまったら、匂宮などがお聞きになって、何か事が起きてしまうかも知れません。そうなると、今以上に誰にとっても無意味なものになるでしょう」
とおっしゃいます。
この後は、ありし文をつかはすとて、
「よろこびにたへずもてさはがん程、人もあまた聞きなんと思ふこそ苦しけれ」
とのたまふ。
かの右近といひしは、侍従なども程なく后の宮に参りてければ、猶嘆き惚れつゝ あやしき所に隠ろへてありけるを聞き給ひて、あはれとおぼしつゝ、心ざまなどもおとなおとなしくよかりしものをと見置き給ひければ、忍びて参るべくのたまはせて、衣など遣はしたれば、いみじうよろこびて参りけるを、もてなしありさま、もとより交らひなれたる人々にもこよなからねば、君もめやすしとおぼしけり。
かの夕顔の右近は、「煙を雲」とのたまひし御さしいらへだにも、心もとなげなりしを、これはいと若やかにて、にくからぬさまして、さやうの方もつきなからずぞあめる。それにもこの夢のやうなることをば、気色をも見せ給はざりけるを、人繁からぬ程なれば、今ぞ召し寄せて、まほならねどのたまひ出でたるに、聞く人の心地何にかはたとへん。 思ひあきれたるさまいとことわりなり。
「我も猶いかなりし事とも心得がたくおぼゆる初めはたゞひたすら、荒ましき水の音にのみかこちしを、あやしきさまにて見つけ聞こえたりける人は、「たゞよからぬ木霊やうの物のしわざならん、その後もうち絶えて久しくなやみ給ひける」などいふなれば、年経たる所はさもありなんと思ふを、かの母君のもとへの消息には、我と世をいとひ給ひけるが、思ひのほかにさすらふるさまに見ゆれば、いかなりけることにかと心得がたき。猶そのころのありさま見けん人こそ、いかにも思ひあはするかたあるべけれ」
とのたまへば、
「はじめより聞こえさせしやうに、たゞ朝夕音をのみ泣き給ひて、いみじうものをおぼしつゝ、たまたまも起きゐ給ひては、後の世の罪軽みぬべき行ひをし給ひて、いかさまにして身を失はんと泣き入り給ふ折々侍りし。あとはかなく見なし聞こえてし後は、たゞ疑ひなく水の底に入り給ひてけりとこそは、今までも思ひ聞こえ侍りつれ。かの巻数に書き付け給へりしことなども、今はと世をおぼしなりにけるとなん見え侍りしを、いかなりける御ことにか」
と言ひて、いみじう泣く。
「筑波山はいかに思ひまどはん。 あまり心をさめざらん程、いと物さはがしからん。この子はいとあうなからぬさましたれど、猶もろともにも行きて、事のやう詳しく言ひ散らすまじう、口固めてぞよかるべき。一人二人と思ふだに、世にあることは隠れなげなるを、あまたへ漏りなば、宮など聞きつけ給ひて事ども出できなば、今いとゞ誰がためにもよしなかるべきことを」
とのたまふ。
23.右近、小君をともない浮舟母に会う
【現代語訳】
すぐに(右近と小君を浮舟の母のもとに行かせるため)車を邸内に引き入れさせて、(2人は)急いで乗り込んで出発しました。(浮舟の義父・常陸介の邸の)門を少し過ぎたあたりに車をとめて、右近は小君に、
「車をおりて、(右近が)参上しましたと申し上げてください」
と言うと、小君は門の内側に入って、
「こういうことです」
と伝えました。浮舟の母は応対して、
「どうして大げさに取り次ぎをなさっているのですか。さあこちらへ」
と言ったので、右近はゆっくり寛げる部屋に入っていきました。豪華な薫のお邸を見慣れた右近にとっては、(常陸介の邸は)とても品がないように感じられました。(ちょうどその時は、)常陸介も邸にいる時間でした。浮舟の母は、
「思いがけない時に、どういうわけでいらっしゃったのですか。右近は見るたびに美しくなられますこと。薫大将殿は、何事にも浮舟の縁者を気にかけて、人並みに取り立てて下さいます。そのご好意を拝見するにつけても、(浮舟が)生きていらっしゃったら、大将殿の恋人として安心してお世話してさしあげられたのにと思うのです。悲しみは尽きることがありません」
といって泣き出しました。常陸介も、
「薫大将殿のお引き立てによる、万事にわたる身の程に過ぎた恐れ多い恩恵を、嬉しく思い申し上げる気持ちは深いのです。ですが、その気持ちを申し上げようにも、恐れ多く思う気持ちに邪魔されて、これまで過ごしてまいりました。機会があれば、大将殿によろしく申し上げてください。こうしたお引き立ても、亡き姫君(浮舟)の縁者に精一杯のお情けをおかけくださっていると拝見しています。こんなにも恩情をかけていただけると思い申したことがあったかと、もったいなく思っております。ましてや姫君が生きていらっしゃったら、どんなに幸せだったろうと残念に思っております。大将殿にお仕え申し上げているあなた(右近)までも、以前と同じ人のようには思えず、たいそうご立派で」
などと、口まかせに言って部屋から出て行くようです。
【原文】
やがて車引き入れさせつゝ、急ぎ乗りて出づれば、御門すこしやり過ぐる程におしとどめて、
「下りて、かくなんと聞こえ給へ」
と言へば、入りて、
「さなん」
と言ふに、
「何かことごとしきめいて案内し給ふ。たゞこなたへ」
と言へば、うちとけたる方へ入りぬ。玉の台の目移し、いとゞしなじなしからぬ心地して、守もこゝにゐたる程なりけり。
「思ひかけぬ程には、いかにしておはしたるにか。見るたびにきよげになりまさり給ふものかな。大将殿よろづにかくこのゆかりをおぼし数まへ給へる御心ざしを見たてまつるにつけても、おはせましかばさるかたに心のどかにてこそ見聞こえましをと思ふに、尽きせず悲しき」
とてうち泣けば、守も、
「この殿の御かへりみの、よろづにかたじけなき、身の程にも過ぎたる御めぐみを、喜び思ひ給ふる心深けれど、聞こえさせんにつけても、恐れに思ひ給へつゝまれてまかり過ぎ侍る。便宜にはよきさまに啓し給へ。これもたゞ故姫君の御ゆかりにせめての御なさけかけさせ給ふと見たてまつれば、かばかりその御光にあたるべしとや思ひきこえしと、かたじけなく侍る。ましておはせましかば、いかにと口惜しくなん思ひ給へらるゝ。大将殿につかうまつり給へる御つぼねまでも、 ありし人ともおぼえず、いとこそやんごとなけれ」
など、 言ひ散らして立つめり。
24.浮舟母、浮舟の生存を知る
【現代語訳】
浮舟の母は、夫の常陸介がこのように言うので、亡き浮舟の面目も立ったと思うことでしょう。そばにいた女房たちも、あちらこちらへと座を外して、少し静かになったので、右近は浮舟の母の近くに寄って、
「こっそりとお耳に入れなければいけないことがございまして、こちらに参上しました」
と言いました。すると、浮舟の母は
「何があったのですか」
とお騒ぎになるので、右近は
「何はさておき、そのようにお騒ぎにならないようにご注意申し上げようと(思って参上したのです)。詳しい事情は、こちらの小君が申し上げなさいましょう」
と言います。
「いやいや、この子の言うようなことは、頼りになりませんよ」
と浮舟の母に言われた小君は、にやっと笑って、(事情を知らない)母を愚かしいと思っているような表情で、手紙を取り出して差し上げました。
「誰からの手紙でしょうか」
と言って、浮舟の母は急いで開封しましたが、(手紙の内容は)まったく人の想像できるようなことではありません。しばらくは茫然として(手紙を)見つめていましたが、以前と変わらない浮舟の筆跡は、読んでいくにつれて、信じられないことではあるものの、(確かに)浮舟の筆跡だとわかりました。その時の浮舟の母の気持ちは、まったく何にたとえられるでしょうか。
「これは、どういうことですか」
と言って、浮舟の母は倒れこんでしまったので、右近は、思った通りの反応だと悲しんで、
「こうして取り乱している間に、多くの邸内の人たちが聞き知ってしまっては、都合が悪いでしょう。(浮舟生存の知らせを聞いても)何事もなかったようにして心を落ち着けなさるように申し上げよと、薫大将殿がおっしゃったので、こうして私は参上したのですよ」
などと言いなだめます。色々になだめられて、浮舟の母はしばらくの間、混乱した気持ちを静めて起き上がって、
「それにしても、このような知らせを聞くとは、夢なのか何なのか」
と驚いて途方にくれる様子は、無理もありません。
【原文】
母君、守のかく言へば、亡き御かげまでもおもだゝしく思ふべし。ありつる人々も、とかく行き隠れなどして、少ししめやかになりぬるに、近くゐ寄りて、
「忍びて聞こえさすべきこと侍りて、参りぬる」
と言ふに、
「何事ならん」
と騒ぎ給へば、
「まづ、かゝる御もの騒ぎをいさめ聞こえさせんとてなん。細かなる御ことの心は、この小君こそ聞こえ給はめ」
と言へば、
「いでや、吾子の言ふらんことは、はかばかしからじ」
と言はれて、うちほゝゑみて、をこがましと思へる気色にて、御文取り出でてたてまつれば、
「あやし」
とて、急ぎ開けたれども、うつたへに人の思ひよるべきことにあらねば、しばし心も得ずまぼりゐたるに、変はらぬ筆の跡は見もて行くまゝに、さすがそれと見なしぬる心地、なかなか何にたとへん。
「こはいかなる事にか」
と、倒れ伏しぬれば、思ひつることゝ悲しくて、
「かくおぼしまどはん程に、人もあまた聞きては悪しかりなん。さりげなく思ひ静め給へと聞こえさすべくのたまはせつれば、かく参り侍りつる」
など、さまざまこしらへられて、とばかり心まどひを静めて起きあがりつゝ、
「さてもこれは夢か何ぞ」
とあきれまどへるさま、いとことわりなり。
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