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撫子
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30代後半の主婦。
高校生の頃から源氏物語に興味を持ち始めました。大学では源氏物語を研究し、日本語日本文学科を首席卒業しました。
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「山路の露」5・浮舟、母と右近に再会/妹尼、経緯を語る

「山路の露」現代語訳・原文その5

この記事では、『山路の露』の原文・現代語訳を掲載しています。

1.序章/薫、浮舟の近況
2.浮舟と小君の再会/都の火災 
3.浮舟と薫の再会 
4.右近と母、浮舟の生存を知る
5.浮舟、母と右近に再会/妹尼、経緯を語る ←この記事
6.匂宮、薫、女二の宮の近況/都と小野の歳末の様子

目次

25.右近、浮舟母の小野訪問を提案

【現代語訳】
 小君は、浮舟発見当初からの経緯を、幼いながらも、しっかりと説明しました。(それを聞いた浮舟の母は)とても悲嘆にくれて、(母と右近とで)身を寄せ合って涙を我慢することができません。
 「浮舟はまだこの世で生きていらっしゃるのだ。今は何としてでも少しでも早く会いたい」
と浮舟の母が身をよじって恋しがるのも無理はありません。右近が、
 「しかし、(浮舟のいる)小野の里は近い場所ではないとのことです。どこに行くとも言わずにあなた(浮舟の母)が急に姿をおくらませになったら、夫の常陸介もきっとあなたをお探しになるでしょう。今日明日に小野に出かけるのはお諦めになって、いつものように初瀬詣でなどの口実をお作りになり、明後日にでもお出かけになるのが、よろしいでしょう」
と提案すると、(すぐにでも出発したいから)浮舟の母は本意ではないながらもうなずきながら、
 「今は明後日を待つのが気が気でないのを、どうしたらいいでしょうか」
と言って、涙ばかりが流れ落ちる様子は、たいへん不憫です。

【原文】
 初めよりのことゞも、幼けれども、いふかひなからず語りなせば、いみじう悲しくて、さしつどひつ ゝせきかねたり。
 「まだ世にこそおはすなれ。今はいかで片時のをも過ぐさず見たてまつらん」
と、もみこがれ給ふもことわりなり。
「されども近き程にも侍らざなり。いづくとなくてにはかにはひ隠れさせ給ひなば、かみもさだめて尋ね聞こえ給はんずらん。今日明日おぼしのどめて、例の初瀬詣はつせまうでなどつくりなし給ひて、あさてばかりにおはしまさなんは、よかるべき」
と言へば、心にもあらずうちうなづきながら、
 「今はその程の心もとなさをば、いかゞすべからん」
とて、涙のみ降り落つるさま、いとほしげなり。

26.浮舟母、小野訪問の日を待つ

【現代語訳】
 品のない女房たちは、はっきりとではないが、(浮舟の母の普通ではない)様子に気づいたけれど、どうしてそれが浮舟生存に関することだと思い至りましょうか。浮舟の母はただ単に、(浮舟失踪以来)いつもと同じ涙目なのです。薫大将殿が亡くなった浮舟をいまだ深く思っていらっしゃるという(右近の)話などに、(浮舟の母は)いっそう昔のことを思い出して、取り乱していらっしゃる(と女房たちは勘違いして)、ほほえましく思っているのでしょう。
 右近は、
 「それでは、小野へのお供には、私も必ず同行させていただきます。私を置いてけぼりになさったら、ひどくがっかりしますよ」
と言って、何度も約束して薫のもとに帰参しました。浮舟の母は、話をして気分を晴らすような仲間さえいないままに、小君だけをそばに置いて、
 「もっと、(薫が)どう思っていらしたのか詳しく話しておくれ。薫大将殿は、いま浮舟のことをどう思っていらっしゃるのか」
と問いかけます。
 「薫大将殿は(普段は)無駄話さえおっしゃらないので、ましてや(浮舟が失踪して)あれほど苦しんでいらっしゃる姿は、これまで拝見したことがありませんでした。(薫が、顔をおおった)ご自身の袖を離すことなく、ひどく泣いていらっしゃったお姿は、まばゆいほどに優雅でした。お母様が倒れ伏してお嘆きになるお姿よりも、はるかに深い悲しみようだと拝察しました」
など、子ども心に遠慮なく言うので、母は、「そうかそうか」と(悲しみの中ではあるが、小君の懸命な報告に)ほほえまれました。浮舟生存のことを思うにつけても、浮舟が出家して尼姿になってしまわれたことに、胸が痛み、残念だと思わずにはいられません。差し出がましいことをしていた浮舟の乳母も、悲しみに耐えられず病気になって、この間の春に亡くなってしまいました。もう少し長く生きていたらと、浮舟の母はしみじみと乳母のことを思い出します。

【原文】
 よからぬなまたちは、まほならねど気色けしき見けれど、いかにしてかこの筋とは思ひ寄らん、たゞいつとなきいや目さなれば、大将殿のおぼしたるさまの物語などに、 いとゞしく取り返し思ひまどひ給ふに、をかしくも思ふべし。
 右近は、
 「さらば、かしこの御供にかならずしたひ聞こえさせん。おくらかさせ給ひなば、いとなん口惜しかるべき」
と、かへすがへす契り置きて参りぬれば、言ひて慰むべき友だになきまゝに、この子をのみまつはして、
「猶、おぼしけんさま詳しく語れ。大将殿はいかゞおぼしたる」
と問へば、
「まろは、かの殿のあだにものたまふことだになければ、ましてさばかり物おぼしたるなん、まだ見たてまつらざりつる。御袖も引き放たずいみじう泣い給ひしこそ、目もあやにありしか。御前のふしまろび給ふには、はるかにまさりて思ひ聞こゆる」
など、幼き心にまかせて言へば、さてさてとさすがにうちゑまれながら、それにつけても、かひなき様になり給ひにけるを、胸いたく口惜しとおぼゆ。さしすぐしゝ乳母めのとも、嘆きに堪へず病づきて、過ぎにし春のころはかなくなりにしを、今しばし長らへましかばと、あはれに思ひ出づ。

27.浮舟母、小野を訪問する

【現代語訳】
 右近が言った通りに、初瀬詣でに行くと周囲の人たちには言って、夕方に右近を呼び寄せ、夜明け前のまだ暗い時間帯に急いで出発します。
 小野では、いつものように案内役の小君をまず邸内に入れました。小君が母の訪問の旨を申し上げると、浮舟は動揺する間もなく、まず最初にお泣きになります。尼君(僧都の妹)はもともとしっかりした性格なので、(母子の対面に)ふさわしい場所をとりあえず整えるなどして、(母と右近を)部屋に招き入れなさいました。浮舟にも、(着替えたところで)見栄えのしない墨色の尼衣だけれど、新しい装束を差し上げて着替えさせます。尼君は
 「なんとも見るに堪えない墨色の袖だこと。ましてやお母様は、今初めてあなたの尼姿をどのような気持ちでご覧になることでしょう。お母様のお気持ちを想像しますと、たいへん辛うございます」
と言って、お泣きになります。浮舟は、
 「本当に、(母は)どんなにか(つらいことだろう)」
と思うと、気まずくて、(母のいる所に)出て行くことがおできになりません。(その様子を見た)尼君が、
 「(そのように躊躇っていては)あまり会いたくないと思っているように、お母様たちもお感じになるでしょう」
と注意をしたので、室内の襖障子の入り口に几帳を立てて、浮舟はそこまでいざってお進みになりました。
 浮舟の母は、(娘の姿を)ちらっと見るだけで、心が乱れて正気を失い、ただもうむせび泣くばかりです。いくらの年月もたっていないのに、母は以前の面影もなくやつれて、あんなにさっぱりふっくらしていた人が、人相が変わってしまっています。そのような母の姿をご覧になって、浮舟の心の中では、ただただ自分のせいなのだろうと、罪深いことをしたとお分かりになり、たいそうお泣きになります。右近も、(これまで)離れた所から浮舟を想像し申し上げていた時の悲しみは取るに足らないもので、(実際に間近で浮舟を)拝見すると、目の前が真っ暗になり、対面の場ではよりいっそう涙の海に溺れています。

【原文】
 右近が言ひしまゝに、初瀬詣はつせまうでのよし人々にも言ひ聞かせて、宵より右近をば呼ばせて、暁はまだ夜をこめて急ぎ出づる。
 かしこにては、例のしるべの童をまづ入れて、かくと聞こゆれば、心騒ぎもせんかたなくて、まづうち泣かれ給ふ。 尼君かひがひしき本性ほんしゃうにて、さるべき所とかくひきつくろひなどして入れ給へり。姫君にもかひなき墨染めなれど、あざやかなる御にたてまつり替えさす。
 「いとうたて見まうき御袖の色かな。まして今いかに見つけ聞こえ給ひてん。人の御心の内思ひやるこそ、いみじけれ」
とて、うち泣き給ふ。
 「げにいかばかり」
と思ふに、はしたなくて、え出でやり給はぬを、
 「あまり心づきなきやうにや、人も思ひ給はん」
と制しければ、中の障子口さうじぐちに几帳添へていざり出で給へり。
 母君、うち見るより心惑ひして物もおぼえねば、たゞむせかへるばかりなり。いく程の年月も隔たらねど、ありしにもあらず衰へて、さしもきよげにふとり過ぎたりし人の、面変おもがはりするまでなりにけるを見給ふに、姫君の心の内、たゞ我ゆゑならんかしと、罪がましくおぼし知られて、いみじう泣き給ふ。右近もよそにて思ひやり聞こえつる悲しさは物の数ならず、見たてまつるに目もくれて、こゝにては今一しほ涙におぼれゐたり。

28.浮舟母、浮舟と妹尼に会う

【現代語訳】
 対面して時が経ったけれど、(母と浮舟は)互いに口になさる言葉もありません。
 母は、やっとのことで気持ちを静めて、
 「これまで、(私が)このように生きているとも言えないような姿で生き長らえてきましたのは、驚くべきことです。(浮舟失踪時に)そのまま死んでいたとしたら、今日どうしてお目にかかることができましょう。どうして風の便りにでも、こうして生きているとほのめかして教えて下さらなかったのですか。そのことが薄情で悲しくて。せめて今、(浮舟を)昔と変わらないお姿を拝見できるのならば、私の気持ちも慰められるでしょう。しかし、このように(浮舟は)世を捨てた尼姿におなりになっているので、いっそう私の心は乱れることです」
と言葉を連ねて身もだえなさいます。母の言うことは、浮舟にとってはごもっともなことであり、対応のしようもなく、ひたすら涙にむせぶばかりで、返事もなさいません。母が、
 「最初からの経緯や様子を、詳しく教えてください」
と申し上げると、
 「おっしゃる通り、今は並一通りではない最初のご縁として(お目にかかり、詳しくお話しましょう)」
と言って、(主人の尼君が出てきて、)浮舟の母に対面なさいました。

【原文】
 いと久しくなりぬれど、たがひにうち出で給ふ言の葉もなし。
 母君からうしてためらひつゝ、
 「今まで、かくあるにもあらぬさまながらも長らへ侍るは、不思議にてなん。そのまゝに命絶えなましかば、今日いかでか見たてまつらん。されば、いかで風のつてにも、かくこそはとおぼめかし給はざりけることの、つらう悲しきに、今だに変はらぬ御姿見たてまつらば慰みなん。かくかひなき御さまになり給ひにければ、いとゞ心地もまどひたること」
と言ひ続けてふしまろび給へる、ことわりに置き所なく、たゞ涙にのみむせびて、いらへもし給はず。
 「初めよりのこと、ありさま詳しく聞かまほしき」
と聞こえたれば、
 「げに今はをろかならぬ初めにこそ」
とてあるじの尼君対面し給へり。

29.妹尼、これまでの経緯を語る

【現代語訳】
 浮舟の母は、まずお泣きになって、
 「それにしても、どのようにして(浮舟を)発見なさったのですか。身寄りのない状態で、落ちぶれるところだったのを、こうしてお助けくださったご恩情は、並み並みではなく、申し上げる言葉もなく感謝申し上げています」
などと言います。尼君は、(浮舟を助けた時のことを)初めから、全てではないが話し出します。
「(救助した後)4月、5月の頃までは(浮舟は)この世の人のようにもお見えになりませんでした。そのまま(看病していても)意味がなさそうだったので、(放っておくと)目の前で(浮舟が亡くなるという)さらなる悲しみが加わると思って心配で、様々にお祈り申し上げたのです。その霊験でしょうか、このように(浮舟の元気になった姿を)拝見しています。仏や神への祈りの霊験であると喜びまして、日々の寂しさを慰めるために、(浮舟を)お世話し申し上げています。ですが、どこの方でどのような事情でここにいるかということは、少しも知らないのです。時々、『私たちを避けていらっしゃるのでは』などと申し上げますが、(色々ときかれるのが)つらいと思っていらっしゃるようなので、無理にお尋ね申し上げることはありません。(浮舟は)こんなに素晴らしいご容貌なので、普通の人ではいらっしゃらないだろうと思っていました。(高貴な方をお預かりして)大変なことになったと思っていたら予想通り、薫大将殿が浮舟をお探し申しておられるようなので、(浮舟が)残念な尼姿(になったこと)を際限なく悲しんでいます」
などとおっしゃるので、浮舟の母は、ますます泣いて、
 「私には娘がたくさんいますが、この子は他の娘とは違って幼い頃から後見人もいないのです。毎日どうにかして浮舟を人並みの女性に育て上げたいと思っていましたが、その甲斐もなく、川に身を投げて亡骸さえ残さないようなことにおなりになったので、どんなにか(浮舟は辛い思いをなさったことでしょうか)。死別ということも目の前で別れるのこそ、世間一般の風習です。(亡くなった状況が)はっきりとしないということもあわせて悲しみに暮れていた私の心中を、よくご推察ください。それほどの私の親心を知らん顔して、同じこの世に生きていながら(小野の里で)こっそりと暮らしていらっしゃったとは、まったく親が思う気持ちの欠片ほども、(浮舟は親を)思っていないのだと、つらく残念に思います。私のような取るに足りない身分の母親だと、(浮舟が)本当に嫌がってお見捨てになるのももっともだけれど、同じことなら以前と同じ(出家していない)お姿だったら良かったのにと、残念です。しかし、ただひたすらに亡くなったとばかり思っていましたのを、このように思いがけず再会した喜びで、今までの(苦悩の)全ては、何ほどのことでもないと、心が慰められます」
など、長々とおっしゃるので、「本当にどんなにか(つらかっただろう」と尼君もお泣きになる。尼君は、
 「(浮舟は)かなり気分がよくなってからも、一日中物思いに耽り、塞ぎ込み、気分が晴れる間もなく悩み続けていらっしゃいました。たまにおっしゃることといったら、ただ『出家したい』ということをそれとなくおっしゃるので、まったくとんでもないことと、(出家するのは)勿体ないと思い申し上げて、(そのまま)日を送っていたのです。しかし、(浮舟が結局出家したのは)そうなるような前世からの因縁がおありだったのでしょうか。(浮舟に)お目にかかった最初からのご縁※1もあるので、祈願も特に長谷寺にと考えましたついでに、こっそりと(浮舟に初瀬詣でを)お勧め申し上げました。けれど、(浮舟は)気乗りしない様子だったので、心配だったけれど、小野に残し申して(自分だけで)長谷寺にお参りにいったのです。ちょうどその時、兄の僧都が比叡山から(小野の里に)下りてきていて、(浮舟が僧都に出家の意志を)涙ながらに訴えなさったところ、兄は僧の中でもあきれるほど素直な人なので、希望を聞き入れ(受戒させ)申し上げてしまったのです。何度思い返しても、浮舟の尼姿を拝見した時はがっかりして、すっかり気が動転して、どうすることもできませんでした。まして(母親であるあなたの気落ち)はさぞかしと、ご推察申し上げて不憫に思います。あの(浮舟を)お尋ね申し上げていらっしゃる方も、たいそう深い愛情のようにお見受けいたしますにつけても、やはりこの(出家した浮舟の)お姿は残念で」
などとお話しして、(浮舟の母と)長く語り合っていらっしゃいます。

※1 浮舟は、初瀬詣での帰り道に宇治に立ち寄った横川僧都の一行に発見され、救助された。

【原文】 
まれ人まづうち泣きつゝ、
 「さてもいかにして御覧じつけさせ給へるにか。はかなきさまにて落ちあぶるべかりけるを、かく取り留めさせ給ふ御なさけは、この世ひとかたならず、聞こえさせんかたなく思ひ給へらるゝ」
など言へば、初めよりのこと、まほならねど語り出でて、
 「四、五月までは、うちはへうつし人ざまにも見え給はざりしかば、猶かひあるまじきなめるものゆゑ、目の前なる嘆きをや加へんと思ひ給へ嘆きて、さまざま念じ聞こえししるしにや、かく見たてまつる。仏神の御しるしと悦び給へつゝ、明け暮れのつれづれ慰めに見たてまつりあつかひながら、いづくにいかなりける御行方ゆくへなりといふことは、ほのかにも心得侍らず。折々おぼし隔てたるにこそなど聞こゆるにも、苦しとおぼしためれば、しひても問ひたてまつること侍らで、かばかりめでたき御さまなれば、たゞ人にてはものし給はじと、わづらはしく思ひ給へしもしるく、尋ね聞こえさせ給ふめれば、かひなき御さまも尽きせず思ひ給へ嘆き侍る」
などのたまふに、いとゞうち泣きて、
 「おなじたぐひなる人あまた侍れど、これはさま異に幼くより見譲る人なくて、朝夕はいかで人並み並みにも見なしてしがなと思ひ侍りしかひなく、うち捨てゝ骸をだに留めずなり給ひしかば、いかでか。別れも目の前なるこそ世の常の習ひにて侍れ。おぼつかなさを添へて思ひ嘆き侍りし心の内、たゞ推し量らせ給へ。 さばかりの心ざしを知らぬ顔に、同じ世ながら忍び過ぐし給ひけるなん、げに親の思ふ片端だになきことにこそ侍れと、つらう恨めしく思ひ侍る。かくはかなき身にては、まことにいとひ捨て給ふもことわりなれど、同じくは変はらぬさまならましかばと、口惜しくなん。されどたゞ一筋に亡き人とのみ思ひ侍りしを、かくて思ひのほかに二たび対面しぬる悦びに、よろづは何かはと、慰み侍る」
など、かきくどき給へば、げにいかばかりかと尼君も泣き給ひて、
 「大方の心地さはやぎて後も、明け暮れ物をなんおぼしむすぼゝれて、晴れ間なくなやみわたり給ひつゝ、たまたまのたまふことゝては、たゞかの筋をほのめかし給ひしかば、いみじうあるまじきことに惜しみ聞こえて過ぐし侍りしを、 しかるべきことにやものし給ひけん。見たてまつり初めしたよりもあれば、御祈りにもことさら初瀬に思ひ立ち侍りしついでに、みづからも忍びてそゝのかし聞こえしかども、もの憂げにおぼしたりしかば、うしろめたながら留め置き聞こえてまうで侍る折しも、はらからのなにがし僧都そうづ、山よりりけるに、泣く泣くのたまはせければ、法師といふなかにも、あさましうきすぐなる人にて、聞き入れたてまつりけるなん、返すがへす見たてまつりしあへなさは、さらに心地も惑ひ、せんかたなく侍りしに、ましてさこそはと、かなしう推し量り聞こゆる。かの尋ね聞こえ給ふ人も、いみじう浅からぬ御思ひなめりと見たてまつり侍るにも、猶この御ありさまは口惜しくこそ」
など、多く言ひかはし給ふ。

30.右近、浮舟と語る

【現代語訳】
 右近は、この間(妹尼と母が語り合っている間)に、浮舟の近くに寄って、
 「それにしても、どういうことだったのですか」
などと申し上げると、浮舟は
 「自分のことながら現実にあったこととも思えなくて、とてもつらかったのです」
と言って、絶え間なくお泣きになる様子は、たいへんしみじみと心を打たれます。年老いて美しさを失った人でさえ、このように尼姿になったら、非常に若く見えるようですが、まして(若く美しい浮舟の尼姿は)ただもうまるで幼い子どものような雰囲気で、弱々しく可哀想なところまであります。あれほど豊かだった髪が短く切られているので、五重の檜扇を広げた様子以上に、(髪の裾が広がって)幾重にも重なっています。尼削ぎの髪の裾の削ぎ目が、(長い髪よりも)かえってとても美しく見えるにつけても、右近はあらためて涙に暮れるのでした。右近は、
 「それでは、どうして尼になどおなりになったのですか。お仕えしていた頃は、これほど色々と嫌なことをお考えになっていたとは、夢にも思い申し上げませんでしたよ。まったく、あきれるほど(本音を)隠してお暮しになっていたのですね。私も幼い頃から(浮舟にお仕えして)この上なく信頼し申し上げて、どんな所へもお供しようと思い申し上げていました。しかし、その甲斐もなく、(失踪の)そぶりさえほのめかして下さらなかったのが、悲しいのです」
などと申し上げて、際限なく泣いていました。

 右近はこのひまに近くさし寄りつゝ、
 「さてもいかなりし事にか」
など聞こゆれば、
 「我ながらうつゝとも覚えず、いみじく憂かりける」
とて、絶えずうち泣き給へる気色けしき、いとあはれなり。さだすぎたるみにくき人だに、 かゝるさまになりぬれば、こよなく若やぐものなめるを、ましてたゞ幼き稚児ちごの心 地して、あえかに心ぐるしきかたさへ添ひて、さばかりこちたかりし御髪みぐしの短く削がれたれば、五重いつへも過ぎて、いくらともなく重なりたる程、裾の削ぎ目の、なかなかいとめでたきにも、またかきくらし、
 「さは、などかくはなり給ひにけむ。見たてまつりし世に、かばかりさまざまうとましき御心づかひおぼしかけんとは、夢にだに思ひ聞こえやはせし。さもあさましく忍び過ぐさせ給ひし御心かな。右近も幼くよりまたなく頼み聞こえさせて、いかなる道にも遅れたてまつらじと思ひ給へしかひなく、気色だにかすめ聞こえさせ給はざりしつらさ」
など聞こえて、尽きせず泣きゐたり。

31.浮舟、匂宮と薫について聞く

【現代語訳】
 右近は、匂宮のことも話題に持ち出して、
 「(匂宮様は)たいそうみっともないほどに嘆き悲しんでいたようですが、しばらくすると、いつものように女性関係がお噂になるのも、興味深いことです。あの薫大将殿は何とも穏やかでおっとりとしているようにお見えですが、(浮舟のことを)忘れることなく大切な人であるとずっとお思いになっています。私のような者までお召し下さり、人前に扱って下るのも、あなた様の縁者であるとお思い下さってのことと、もったいなく拝見しております。(薫に仕え始めてからは)ゆっくりできる時はなく、(薫は私を)近くにお呼びになって、際限なくあなた様のお話ばかりをなさいます。
『生前の浮舟は私(薫)を頼りない男だと思っていたようだが、他の男で私ほど心変わりしない者がいましょうか。いつ何時も、私の気持ちは変わらないけれど、一向に治ることのなさそうな私の優柔不断な性格は、この上なく愛情が薄いというふうにばかり、浮舟には感じられたのでしょう。(浮舟が亡くなった)今となっては、後悔しても仕方がない。誰が浮舟に訊くことができようか。(私の気持ちを亡き浮舟に)伝え申し上げる幻術士がいたなら、いくら何でも(私の気持ちを)おわかりになるでしょう』
などと、お話しになる時があるにつけても、本当に(薫大将殿を)おいたわしく拝見しています」
などとお話し申し上げます。浮舟は、しみじみと心を打たれる一方で気恥ずかしくも思いました。さまざまな感情が入り乱れて思い続けた末に、浮舟は、薫の真心の深さは(右近の)言う通りなのだろうとお考えになります。
 「やはりあってはならないことだったわ。目の前の(匂宮の)愛情に馴染み申し上げて、少しでも心を傾けた自分の軽率さだけが言いようもなく情けないことでした。仕方がないわ、それも現世だけの応報ではないのでしょう(前世からの因縁だ)。匂宮様をどうして恨めしいと思い申し上げるでしょうか。身をよせる所もなく流浪するような宿命であるからこそ、あのような男女関係のもつれも起こったのでしょう」
と思うと、もっぱら避けることのできない我が身のつらさは、前世からの因縁なのだと(浮舟は)身に染みて残念にお思いになります。
 それにしても、すっかり浮舟を亡くなったと思い込んでしまっていたであろう昔馴染みの人(右近)と向かい合って、再び以前ように(語り合い、)当時の様子を聞いたのは、夢の話を聞いているような感じがします。めったにないこととも、心打たれることとも、どうして思わないことがあるでしょうか。生きている以上は、そうは言っても(会うことを避けようとしていても)、少しずつ人に会ってしまうものです。けれど、(浮舟が)もうこれまでだと入水を決めた夕刻まで申し訳なく思っていた乳母は、(浮舟失踪の)悲しみに耐えられず亡くなったといいいます。浮舟は、その乳母の寿命を、しみじみと残念にお思いになります。

【原文】
 かの宮の御事も語り出でて、
 「いみじう人目見ぐるしきまでおぼし嘆くめりしに、程ふれば例の御すきごとども聞こえ給ふさへこそあはれに侍れ。かの殿のたとしへなくのどかにぬるきやうに見え給ひしかども、忘るゝ世なくあはれにおぼし入りつゝ、右近などまで尋ね数まへ給ふも、その御ゆかりとおぼしためるこそ、かたじけなく見たてまつり侍れ。のどやかなる折なく、近く召し寄せて尽きせぬ御ことのみのたまひ出でつゝ、 おはせし世にはおぼつかなかるものにこそおぼしけめども、人はかく心長くやはある。いつとても心の色は同じことなれど、大方絶ゆまじき身の癖は、こよなく浅きかたにのみなん、人目には見えける。今はいとかひなしや。誰かこと問はん、伝へ聞こゆるまぼろしもあらば、さりともあはれとはおぼしなんかしなど、語らはせ給ふ折々侍るにも、げにこそあはれに見たてまつり侍りぬれ」
など語り聞こゆれば、あはれにも恥づかしうもさまざまかき乱り思ひ続け、うつし心の色濃さはさこそと聞き給ふに、
 「猶あやしや、目の前のあはれにならされたてまつりて、少しもなびきけん心がろさのみぞ言はんかたなく憂かりける。 よしや、そもこの世ひとつの報ひならじ。 人をば何か憂しと思ひ聞こえん。身のあはあはしくさすらふべき契りにてこそ、さる乱れもありけめ」
と思ふには、たゞ逃れがたき身の憂さぞ、世々よよの報ひも口惜しく思ひ知られ給ひける。
 さてもひたすら世になきものと思ひ果てけん古里ふるさとの人にあひ向かひて、また立ちかへりその世のありさま聞きぬるは、夢語りなどの心地してめづらかにもあはれにもいかゞおぼえざらん。長らふる限りは、さすがかく誰にもやうやうあひ見るを、今はとなりし夕まで心苦しう思ひ置きし乳母めのとも、思ひに堪へず亡くなりけん命のほど、あはれに悲しくぞおぼしける。

32.浮舟母、浮舟に転居を勧める

【現代語訳】
 客人きゃくじん(浮舟の母と右近)も今夜は(小野に)泊まりました。尼君は、趣向を凝らしたヒノキの食器や、都ではあまり見られない食べ物などを、洒落た様子に整えて、こちら(客人)に差し上げなさいました。(浮舟とその母は)少しも眠らず、尽きることのない会話をして、長い夜もすぐ明けて朝になりました。母は、帰ろうとしますが、お互いにまだ話したりないとお思いになります。母は、
 「(京から小野への)道のりは遠いけれども、同じこの世にいるのであれば、(安心です。ですが希望としては)いつでも会える場所へどうにかしてあなたを転居させたいのです。以前、あの時々身を隠していらっしゃった粗末な家は覚えていらっしゃいますか。土地はたいへん広いですので、住みやすいように修理させて、あなたをお移し申し上げようと思っています。薫大将殿があなたのことを極秘にするようにおっしゃるので、それもどうだろうかと気がねしますが、どうして世間の人に知られることがありましょうか。こっそり(お移し申し上げよう)と思っています」
などと、泣きながら申し上げます。浮舟は、
 「(京へ転居するなど)ありえないことだわ」
とお思いになりながら、ひたすらお泣きになって、
 「(もともと母に会えないことで)気分が塞がっていたけれど、お母様のおっしゃる通り、かえって(お母様に会って)憂鬱が募ります。このような尼姿をしている人間が、(修行のために)わざわざ求めて行かなければならない小野の山奥を抜け出して、人目の多い都に住むのはみっともないでしょう」
と言葉を濁して、顔をそむけなさいます。その(浮舟の)横顔が、言い表せないほど美しいのを見て、母はよりいっそう悲しみを感じていました。

【原文】
 客人まらうとも今宵は泊まりぬれば、尼君の方よりゆゑある檜破籠ひわりごやうの物、都には目慣れぬくだ物など、をかしきさまに取りなして、こなたにたてまつり給へり。うちもまどろまず、尽きせぬ物語に長き夜も何ならず明けぬれば、帰りなんとかたみに飽かず思ひ給ふ。
 「道の程、はるけさも、同じ世に侍らば、おぼつかなからぬ所へいかで渡し侍らん。昔、かの時々隠ろへ給へりしあやしの宿はおぼえ給ふや。所はいと広く侍れば、さりぬべきさまにつくろはせなして、渡し聞こえんと思ひ侍るを、大将殿のいみじう忍ぶべくのたまへば、それもいかゞとはばかられ侍るも、などか人の知るべき。忍びてこそはと思ひ給ふる」
など、泣く泣く聞こゆ。
 「あるまじの事や」
とは聞き給ひながら、たゞうち泣き給ひて、
 「いぶせきはげになかなかなるべけれども、かゝるさましたる人は、わざとだにたづぬべき山の奥を分け出でて、人目しげき住まひはうたてあらん」
と言ひ紛らはして、うちそむき給へるかたはら目、いひしらずをかしげなるを、いとゞしく悲しと思へり。

33.浮舟母と右近、小野を引き上げる

【現代語訳】
 浮舟の母が、
 「いえいえ、都といっても、そんなに人目の多いところばかりではありませんよ。(浮舟の家は)格別に山荘風に建てさせましょう」
などと、娘の気に入るように説得を申し上げるのも、しみじみと心を打ちます。母は、いろいろな絹や綾などを持ってきていたのを、取り出して、浮舟用のは言うまでもなく、尼君(妹尼)にも置く場所がなくなるほど差し上げました。尼君は、これまでそのような贈り物をされたことがなかった身の上なので大喜びして、寂しい日々を送っている(他の)尼君たちも、目がさめるような新鮮な気持ちになりました。右近も、そのまま(小野に)とどまりたいと思ったけれど、浮舟は、
 「このような寂しい山荘に閉じこもって、どのようにして生活していくのですか。(出家していないあなたにとっては)ありえないことだわ」
とおっしゃっいます。浮舟は、
  (俗世とは)別世界と思っている小野の山奥に、あなたは何を探し求めて来て、涙で袖を濡らしているのですか
とお詠みになります。右近は、
  京へ帰るだけでもこんなに名残惜しくて悲しいのに、仮にこれが永遠の別れだと思うとしたら(どんなにか悲嘆に暮れることでしょう)
と返歌を申し上げて、たいそう感慨に耽っています。帰りの道中から見える小野周辺の山までが、ぼんやりと遠くなっていくにつれて、(母と右近は)よりいっそう寂しい気持ちになっていきました。あちら(小野)では(母と右近が退去した後に、(浮舟は)あらためて、名残惜しく悲しく感じて、物思いに沈んでいました。その気分を紛らわすために、浮舟はいつものように早朝の勤行に没頭されるのでしょう。

【原文】
 「都とても何かさのみ人目しげう侍らん。ことさら山里びて作らせるべき」
など、御心につくさまに聞こえなすもあはれなり。さまざまなる絹、綾など持たせたりける、取り出でて、姫君の御料はさらにもいはず、尼君にも所せきまでたてまつりたれば、またなき身に悦び騒ぎて、物さびしき尼君どもなど、目さめたる心地なんしける。右近もやがて立ちとまらまほしく思ひたれども、
 「かばかり心細き住まひに絶え籠もりては、いかにして過ぐさん。いとあるまじきこと」
とのたまひて、
  あらぬ世と思ひなしつる山の奥になに尋ねきて袖濡らすらん
とのたまへば、
  立ち帰る名残だにかく悲しきに長き別れと思はましかば
と聞こえて、いみじう思へり。道すがら見るそのあたりの山さへ、かすかに遠うなるまゝに、いとゞ心細くて、かしこにはまた名残悲しくてながめ給ふ紛らはしに、君は例の後夜ごやおこなびに心入れ給ふべし。

34.右近、薫に報告する

【現代語訳】
 右近は、帰京したその日の夕方に薫の邸(三条殿)に参上したところ、いつもより人が少なく静かでした。薫は、寝殿の端の簀子近くで御簾を巻き上げて、慰みに笛を吹いているところでした。薫は、右近が女房たちと小声で話している気配にお気づきになって、特別に右近をお呼びになって、
 「小野の様子はどうでしたか」
などと、おききになります。右近は、小野での母子対面の様子を詳しく報告申し上げて、あの
 「あらぬ世と思ひなしつる山の奥になに尋ねきて袖濡らすらん」
とおっしゃった浮舟の和歌も申し上げました。薫は、
 「なるほど、浮舟はそう思うことだろう」
と、しみじみと胸を打たれ、涙ぐんでいらっしゃいます。かえって浮舟が出家していなければ、薫はこれほどには深く浮舟を思わないことでしょう。(浮舟が出家した)今となっては、しみじみと可哀想な要素が加わって、薫のお心から浮舟が離れる時がありません。

【原文】
 右近はその暮れに殿へ参りたれば、例よりも人少なにしめやかにて、はしつかたに御簾みす巻き上げて、笛吹きすさびつゝおはします程なりけり。たちと忍びてもの言ふ気配を聞きつけ給ひて、とりわき召し出でて、
 「いかに」
など、問ひ給へば、ありつるさま浅からず聞こえなして、かの
 「なに尋ねきて」
と、のたまひつる口ずさみも語り聞こゆれば、
 「げに、さぞ思ふらん」
とあはれにて、うち涙ぐまれ給ふ。なかなか変はらぬさまならば、かばかりも覚えずやあらん。今はいとあはれに心苦しきかた添ひて、御心にかゝらぬ折なかりけり。

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