・『源氏物語』が実話なのかどうか
・『源氏物語』のモデルとなった時代と人物
この記事を読むことで、
『源氏物語』の中にどのように真実が
含まれているのかが分かります。
ぜひ最後までお読みください!
源氏物語は実話なのか
『源氏物語』は実話ではありません。
紫式部が書いたフィクションの長編小説です。
実話ではありませんが、『源氏物語』は
当時の宮中の行事や文化、慣習を織り交ぜつつ
実際に起きた出来事や、実在の人物をモデルとして
ストーリーが構成されています。
\『源氏物語』のあらすじはこちら/
「蛍」巻の物語論から分かる『源氏物語』の真実性
『源氏物語』の「蛍」の巻の中で
光源氏は長々と物語論を語っています。
この物語論は作者の紫式部が
光源氏に言わせたものであって、
紫式部自身の考えであると推測できます。
次の一文は、物語に熱中する玉鬘に、
光源氏が語った物語論の一部です。
【原文】
『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。
これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ
【現代語訳】
『日本紀』などは、ほんの一面にしかすぎません。
物語にこそ道理にかなった詳細な事柄が書いてあるのでしょう。
虚構の物語の中に
誇張してもっともらしいことが
書き綴られているのは、
小説であると知りながら
興味がそそられるものだとも言っています。
これらの言葉は、紫式部自身の考えを、
光源氏に代弁させているのでしょう。
紫式部は、実際にあった出来事を
虚構の物語の中に誇張して
混ぜ込むことにより、
歴史書よりも真実らしく、
読者の興味をひく
本(源氏物語)を作ることができたという自負があったのです。
以下の一文
(光源氏が玉鬘に語った物語論の一部)
からも、紫式部が実際の出来事を参考にして
『源氏物語』を書いたことがわかります。
【原文】
その人
の上
とて、ありのままに言
ひ出
づることこそなけれ、善
きも悪
しきも、世
に経
る人
のありさまの、見
るにも飽
かず、聞
くにもあまることを、後
の世
にも言
ひ伝
へさせまほしき節々
を、心
に籠
めがたくて、言
ひおき始
めたるなり。
【現代語訳】
誰の話だと言って、事実どおりに物語ることはありません。善いことも悪いことも、この世に生きている人の出来事で、見飽きず、聞き流せないことを、後世に語り伝えたい事柄を、心の中にとどめておくことができず、語り伝えはじめたものです。
物語とは、伝記のように、特定の人物のことを
事実どおりに書き綴ったものではありません。
しかし、現実に起きた出来事で、
他人と共有したいと
思ったことを語り出したものなのだと
言っています。
紫式部が、見聞きした出来事の中で、
「後の世の人たちに伝えたい」と思ったことを
フィクションの中に誇張して織り込んで創り上げた物語。
それが『源氏物語』だったのです。
源氏物語のモデルとなった時代
『源氏物語』は
醍醐天皇の時代がモデルになっている
と言われています。
『源氏物語』が執筆された頃(西暦1000年頃)
の天皇が、第66代の一条天皇でしたから、
醍醐天皇の御代は、100年ほど前の時代ということになります。
『源氏物語』で光源氏の父親である
桐壺帝は醍醐天皇との共通点がたくさんあります。
以下の記事で、
桐壺帝のモデルが醍醐天皇である根拠について
詳しく解説しています。
桐壺帝の時代は、醍醐天皇の時代と状況が
かなり似ており、
『源氏物語』のモデルとなった時代は
醍醐天皇の時代だと推測されています。
源氏物語のモデルとなった人物
『源氏物語』には
総勢400人以上の登場人物が出てきますが、
そのモデルについては様々に論じられています。
ここでは、主要な登場人物のモデルについて
簡単に紹介していきます。
桐壺帝のモデル⇒醍醐天皇・一条天皇
桐壺帝のモデルは、
醍醐天皇と一条天皇だと言われています。
一条天皇は、紫式部と同じ時代を生きた天皇。
醍醐天皇は、当時から100年ほど前の天皇です。
以下の記事で、この2人が
桐壺帝のモデルである理由を詳しく解説しました。
光源氏のモデル⇒藤原道長・在原業平など
光源氏のモデルと言われている人物は、
たくさんいます。
以下の記事で15人の人物を紹介しました。
中でも、藤原道長・在原業平・源融あたりが
有力視されています。
光源氏と似たエピソードを持った人物は、
数多く存在します。
紫式部は、複数の人物のエピソードを取り入れて
光源氏という人物を造形したのだと推測されます。
桐壺の更衣のモデル ⇒ 皇后定子
一条天皇と皇后定子の関係性と、
桐壺帝と桐壺の更衣の関係性が
似ていることから、
桐壺の更衣は、定子が
モデルではないかと言われています。
以下の記事で、詳しく説明しています。
⇒桐壺の更衣のモデルは定子?
また、桐壺帝と桐壺の更衣の関係は
原文中では唐の玄宗皇帝と楊貴妃に喩えられており
重層的なイメージとなっています。
紫の上 ⇒ 皇后定子
紫の上も、皇后定子が
モデルではないと言われています。
紫の上と女三の宮の関係が、
皇后定子と中宮彰子の関係によく似ているからです。
紫の上は、光源氏の最愛の妻であったが、
女三の宮が正妻として降嫁する。
格上の女三の宮の降嫁により、
妻として二番目になってしまった
紫の上は、ショックを受ける。
光源氏は引き続き紫の上を最も愛するが、
やがて紫の上は病気になり、亡くなる。
最愛の妻を失った光源氏は深く悲しむ。
定子は一条天皇の最愛の妃であったが、
長徳の変により実家が没落。
道長が権力を持つようになり、
娘・彰子が入内する。
一条天皇は引き続き定子を最も愛するが
定子は第三子の出産後に亡くなる。
一条天皇は最愛の妃を失い、深く悲しむ。
彰子の入内に気圧されて、
定子の影が薄くなり、やがて亡くなってしまう。
という流れが、
女三の宮と紫の上の関係とよく似ています。
以上のような理由で、
皇后定子は紫の上のモデルと言われています。
女三の宮 ⇒ 中宮彰子
先述したように、
女三の宮と紫の上の関係が、
中宮彰子と皇后定子の関係によく似ているため、
中宮彰子は女三の宮のモデルと言われています。
藤壺の宮 ⇒ 中宮彰子
藤壺の宮のモデルは、
中宮彰子である可能性があります。
- 藤壺の女御だった
- 亡くなった妃の遺児の義母となった
という2つの共通点が見られるからです。
2人とも藤壺の女御だった
彰子は、長保元年(西暦999年)11月に
入内し、藤壺の女御となっています。
『源氏物語』の藤壺の宮も、
その名の通り藤壺を賜っています。
彰子も藤壺の宮も
2人とも藤壺の女御だった。
亡くなった妃の遺児の義母となった
彰子は亡くなった定子の遺児である
敦康親王の養母となっています。
藤壺の宮も、
亡くなった桐壺の更衣の遺児・
光源氏と親しくつきあい、
義母のような存在となっています。
彰子と藤壺の宮。
2人とも亡くなった妃の遺児の義母となった。
以上、2つの共通点があることから、
中宮彰子は藤壺の宮のモデルではないかと考えられています。
六条御息所 ⇒ 徽子女王
六条御息所のモデルは、
平安時代の斎王・徽子女王だと言われています。
徽子女王は醍醐天皇の孫です。
西暦936年、8歳で斎王となり、
母親が急死するまで、11年間斎王を勤めました。
その後は西暦948年、
20歳で村上天皇のもとに入内し、
娘の規子内親王を出産します。
西暦967年に村上天皇は崩御。
西暦975年に娘・規子内親王が27歳で
斎王に決まると、
母の徽子女王は、娘につきそって
伊勢に下向していきました。
母親が斎王につきそって伊勢に下るとは
前例のないことと世間を驚かせました。
『源氏物語』の六条御息所も、
娘について一緒に伊勢に下向していますね。
六条御息所が娘と一緒に伊勢に下る場面は、
徽子女王のエピソードを参考にしていると考えられています。
空蝉のモデル ⇒ 紫式部自身
空蝉のモデルは、作者・紫式部自身ではないかと
言われています。
空蝉と紫式部には、3つの共通点があるのです。
- 年齢差のある結婚をした
- 地方へ下っていた経験がある
- 中川あたりに自宅があった
詳しくは、以下の記事で解説しています。
⇒空蝉のモデルは紫式部?
弘徽殿女御のモデル ⇒ 藤原穏子・藤原詮子
弘徽殿女御のモデルは、
藤原穏子ならびに藤原詮子だと言われています。
以下の記事で詳しく解説しています。
⇒弘徽殿女御のモデルは誰?
末摘花のモデル ⇒ 源邦正
末摘花のモデルは、平安時代中期の人物・源邦正
なのではないかと考えられています。
『宇治拾遺物語』には源邦正の容姿が描写
されており、末摘花の容姿によく似ているのです。
しかも、この源邦正は、日本人と外国人の
ハーフだったのではないかとも言われています。
詳しくは、以下の記事で解説しています。
⇒末摘花のモデルは外国人?
架空の人物もモデルになっている
『源氏物語』の登場人物は、
実在した人物のみならず、物語や神話に出てくる
架空の人物もモデルになっている場合があります。
玉鬘のモデル ⇒ かぐや姫
玉鬘のモデルは、『竹取物語』のかぐや姫です。
玉鬘十帖全体が、『竹取物語』の
ストーリーの影響を受けていると言われているのです。
玉鬘十帖と『竹取物語』が
どのように似ているかは、下記の記事で
詳しく説明しました。
⇒玉鬘の物語と『竹取物語』の類似点
「明石」の巻の光源氏のモデル ⇒山幸彦
『源氏物語』の「明石」巻のストーリーは、
『古事記』『日本書紀』に見られる
海幸彦・山幸彦の神話の影響を受けていると言われています。
光源氏は、無実の罪により
都から追放され、須磨の海辺に滞在していた。
数日間の大嵐が去った後、
明石の入道が迎えの舟に乗ってやってくる。
光源氏はその舟に乗り、
須磨から明石に移動する。
明石にて、光源氏は明石の君という
美女(明石の入道の娘)と出会い、
男女の関係を結ぶ。
明石の君は、光源氏の子を妊娠する。
2年半がたち、朱雀帝から呼び戻され、
光源氏は都に戻る。
昔、海幸彦・山幸彦の兄弟がいた。
海幸彦は海の魚をとり、
山幸彦は山にいる獣をとって暮らしていた。
ある日、兄弟は猟具と漁具を交換する。
山幸彦は漁具を用いて魚釣りをしたが、
魚は釣れず、漁具も紛失してしまう。
漁具を紛失したことを兄に責められた
山幸彦が浜辺で困っていると、
塩椎神が現れる。
山幸彦が事情を話すと、塩椎神は
籠の小舟を作り、山幸彦をその舟に乗せる。
舟に乗った山幸彦は、潮路に乗って
海神の御殿に到着する。
山幸彦は、そこで海神の娘・豊玉姫と出会い
結婚する。
3年がたち、山幸彦は、故郷が恋しくなり
陸上に帰還する。
豊玉姫は、山幸彦との子を妊娠していた。
海幸彦・山幸彦の物語は、
「明石」の巻のあらすじに似ていますね。
山幸彦 = 光源氏
海幸彦 = 朱雀帝
塩椎神・海神 = 明石の入道
豊玉姫 = 明石の君
という関係性になっています。
さらに細かいことを言うと、『源氏物語』で
光源氏が明石の入道の迎えの舟に乗ると、
「不思議な風が細く吹いて、
飛ぶように明石に着いた」
と表現されていますが、これは『古事記』で
山幸彦が海の「味し御路」に乗って
海神の御殿に着いたのと状況が似ています。
「明石」の巻の光源氏は、神の庇護を受けた
特別な存在として語られており、
あきらかに山幸彦をモデルにしています。
「夕顔」巻の光源氏のモデル ⇒ 大物主神
「夕顔」の巻で、夕顔のもとに忍び通う光源氏は、
日本神話に登場する大物主神がモデルになっています。
詳しくは、下記の記事で解説しました。
⇒光源氏のモデル:大物主神
以上のように、
『源氏物語』は実在の人物のみならず
物語や伝説上の架空の人物も参考にしながら、
書き綴られていったのです。
紫式部のすごいところは、
数多くの人物をモデルにしながらも、
まるで一つの真実であるかのような
『源氏物語』という
長編小説を成立させているところです。
『源氏物語』という虚構により、
現代に生きるわたしたちは平安時代における
価値観や文化、不変的な感情などの真実を知り、
味わうことができるのです。