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撫子
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30代後半の主婦。
高校生の頃から源氏物語に興味を持ち始めました。大学では源氏物語を研究し、日本語日本文学科を首席卒業しました。
30代になり、源氏物語を改めて学びなおしています。
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本居宣長:もののあはれの論5・女は「もののあはれ」を知った上でほどよい態度をとるべき

もののあはれの論 現代語訳・原文5

この記事では、
本居宣長:もののあはれ論(紫文要領)の
原文・現代語訳を掲載しています。

★大意の事 上
1.物語とは「もののあはれ」を知らせるもの 
2.蛍の巻の物語論から紫式部の意図を読み取る
3.古来の注釈書は間違いが多い 
4.『源氏物語』の善悪の基準は「もののあはれ」 
5.女は「もののあはれ」を知った上でほどよい態度をとるべき ←この記事
6.「もののあはれ」についての詳述

★大意の事 下
7.恋愛は「もののあはれ」が深い
8.「もののあはれ」と浮気っぽいのとは別物
9.『源氏物語』は教訓の物語ではない
10.光源氏と藤壺の密通を書いた紫式部の意図
11.人の真実の感情を知ることが「もののあはれ」を知ること

目次

女は浮気っぽいのも貞淑すぎるのも良くない

【現代語訳】
 ところで、紫の上の善いところは、複数の巻にその趣旨が見られ、今ことさらに言うまでもない。その紫の上の性格を言うならば、「蛍」の巻の絵物語のことを語る部分に、このように書いてある。
  上は、「思慮が浅い人の真似をした物語の類は、読んでいても馬鹿馬鹿しいです。
「上」とは、紫の上のことだ。紫の上の語ったことを書いた部分である。「人まねども」は、物語のことである。ある人の身の上を真似して書いた物語だから、「人まね」というのだ。「心浅げなる」とは、思慮が足りず浮気がちな女の様子を書いたのは、読んで「かたはらいたき」ということだ。「かたはらいたき」は、一般的に「馬鹿馬鹿しい」などということである。(物語を)「見るにも」と言っていることによって、ましてや現実でそんな浮気っぽいことをする女は、当然みっともないと思っていらっしゃることを、理解しなければならない。
  『宇津保物語うつほものがたり』の藤原の君の娘は、とても思慮深くしっかりした人で、間違いはないようですが、
この人(藤原の君の娘)は、『宇津保物語』の登場人物で、『花鳥余情かちょうよじょう』(一条兼良いちじょうかねよしによる『源氏物語』注釈書)に要約して書いていらっしゃる。詳細は、『宇津保物語』を見るとよい。この人(藤原の君の娘)は、「思慮が足りず浮気がちな」女の反対であって、多くの男達の恋慕を無視して、薄情であった。男達は残念に思って、中には死んでしまった者もいけれど、(藤原の君の娘は)まったく可哀想だと思わなかった。このような女は、常識的な考えでいうと、貞操観念ていそうかんねんが非常に高いとして褒めてよいところだ。だから、(紫の上は)「間違いはないようですが」と言ったのである。世間一般の言い方をすれば、そのような人は失敗はしないだろうが、ということである。
  そっけない返事もそぶりも、女性らしいところがないようなのが、かたくなですね」と、おっしゃると、
「すくよか」とは、木などが真っ直ぐにすっと立ち伸びただけで、何の魅力もないような心のことである。風流温潤ふうりゅうおんじゅん(雅やかで潤いがあること)がないことである。「女しき」は「女性らしい」という意味である。女は、あまり不愛想なのも良くない、ということだ。「一やう」とは、ある方面に片寄ることである。この一文を読んで、紫の上の考え方を理解せねばならない。思慮が足りず浮気っぽい女が見っともないのは言うまでもない。だからといって、藤原の君の娘のように、かたくなに貞操を守り、人の恋を受け入れない不愛想さも極端であって、女の振る舞いとしてふさわしくない。紫の上が、恋愛の方面において、もののあはれを感じるべきだと考えていることは、この発言から明白である。であれば、『源氏物語』全体の中で善い人として書かれている紫の上の心も、普通の書物で善いとするところと異なっている。貞操観念の強い女を「かたくなである」とおっしゃっていることから、理解しなければならない。
 質問して言うことには、それならば、(貞操の強い女を批判していながら)紫の上が淫乱な事件を起こしていないのはなぜか。物語の中の女性は、多くはみだらな事件を起こしている。紫の上にはそれがないから『善い』人なのか。
 答えて言うことには、淫乱な事の有無は、無視して関知しないことである。物語の中には、淫乱な事がなくても悪い人もいれば、淫乱な事があっても善い人もいる。だから、淫乱な事がなくて良い人は、言うまでもなく存在する。

【原文】
 さて紫の上のよきことは、巻々にその心見えて、今別にいふに及ばず。その紫の上の心ばへをいはば、螢の巻の絵物語のことをいへる段に云はく、
  上、「心浅げなる人まねどもは、見るにもかたはらいたくこそ。
「上」とは紫の上なり。紫の上のことばを書けるところなり。 「人まねども」とは、物語どものことなり。人の身の上にある事どもをまねてかける物ゆゑに、「人まね」といふなり。「心浅げなる」とは、心浅きあだあだしき女の有様を書けるは、見るにもかたはらいたき、となり。「かたはらいたき」は、俗に「笑止せうし」などいふことなり。「見るにも」といへるにて、ましてさやうの事する女のかたはらいたきと思ひ給ふこと、知るべし。
  宇津保うつほ』の藤原の君のむすめこそ、いと重りかにはかばかしき人にて、あやまちなかめれど、
この人は『宇津保物語』にある人にて、『花鳥余情くわてうよせい』にえうを取りて記し給へり。くはしくはかの物語を見るべし。この人はかの「心浅げなる」といへる女の反対にて、多くの人々の懸想けさうを聞き入れず、 つれなかりしかば、かの人々恨みて、あるいは死にけるもありしかども、すこしも哀れとも思はざりしなり。かやうの女は、尋常つねの論にていはば最も貞烈ていれつなりとてほむべきさまなり。されば「あやまちなかめれど」といへり。俗にいはば、さやうの人はしそこなひはあるまじけれども、となり。
  すくよかにいひ出でたるしわざ、さも女しきところなかめるぞ、ひとやうなめる」とのたまへば、
「すくよか」は、木などのまつすぐにすつと立ちのびたるばかりにて、何の見どころもなきやうの心なり。風流温潤ふうりうをんじゅんのなきなり。「女しき」は、「女らしき」なり。女はあまりさやうなるもよろしからぬ、となり。「一やう」とは、一偏いっぺんにかたよることなり。この文を見て紫の上の心ばへを知るべし。心浅くあだあだしき女はかたはらいたきことは勿論なり。さればとてかの藤原の君のむすめのやうに、一偏に貞烈を立てて人になびかぬすくよかさもあまりにて、女に相応せずといへるは、紫の上の心にも、好色のかたにも物の哀れは知れとの心あらはなり。されば一部の中によしとする紫の上の心も、尋常つねの書によしとするところとは変りあり。 貞烈なる女を「一やうなり」とのたまふにて知るべし。
 問ひて云はく、しからば紫の上に淫事なきはいかに。物語の中の婦人、多く淫事あり。 紫の上にはなきゆゑ、よしとするか。
 答へて云はく、淫事の有無は棄ててかかはらぬことなり。物語の中に、淫事なくても悪しき人あれば、淫事ありてもよき人あり。されば淫事なくてよき人は勿論なり。

女も、もののあはれを感じられるのが良い

【現代語訳】
 前述の紫の上の言葉を受けて、源氏の君が言うには、
  「実際の人も、そういうもののようです。
紫の上がおっしゃったのは、『宇津保物語』の中のことである。それを受けて、(源氏は)現在の人の心の持ちようもそうなのだろう、といっている。
  一人前に世間とは異なる主義主張を言って、ほどよい態度をとらないものだ。
「人々しく立てたる趣き異にして」とは、(藤原の君の娘が)女が守るべき道は貞操だと、ひたむきに標榜したところが、世間の人とは異なるということだ。「人々しく」というのは、(貞操を)人間が第一に守らねばならないことだと思い込み、それを守ることを、人々しきことと言っているのだ。「よきほどに構へぬや」これは、紫の上が「かたくなである」とおっしゃったのに賛成して、確かに貞操が強いからといて、かたくなに凝り固まったのは良くない、ほどよい態度をとるべきだ、と言っているのである。「や」という終助詞で言い終わっているのは、紫の上が「かたくななようだ」とおっしゃったのに賛同して、「ほどよい態度をとらないものだ、確かにかたくなである」という勢いを表している。だから、源氏の君も紫の上と同じ考えであり、女もほどよくもののあはれを感じるべきだ、ということである。
  たしなみがなくはない親が、気をつかって育てた娘が、無邪気さだけがただ一つのとりえで、劣ったところが多いのは、いったいどんなふうにして育ててきたのかと、親の育て方までが想像されるのは、気の毒です。
立派な親が気をつかって大切に育てた娘が、おっとりしているのだけがただ一つの長所で、何の才能もないのは、どんなふうに育ててきたのかと思われて、親の育て方までが想像されて、つい軽蔑してしまう、ということである。ところで、この「劣ったところが多い」というのは、和歌や書道などのことを合わせて言っているのであるが、前文の、もののあはれを知らないことの続きに書いているので、主に意味しているのは、もののあはれの感受性が劣っていることを言っている。以下に引用する「夕霧」の巻の言葉をもって理解しなければならない。
 なるほどそうはいってもその人らしいやり方だ、と見えるのは(育てた)甲斐があり、(親も)面目が立ちます」
立派な人の娘である女が、なるほど、何といってもその人の娘だけのことはある、と思えることがあると、親が細心の配慮をして育てた甲斐があって、親も世間体が保たれる、ということである。もののあはれを知らない人は、親まで軽蔑される。もののあはれを知って、行為に表すこと、口に出すことが奥ゆかしいと、親まで立派だと想像されるのである。

【原文】
 右の紫の上のことばを受けて、源氏の君の詞に云はく、
  「うつつの人もさぞあるべかめる。
紫の上ののたまふところは『宇津保物語』の上なり。それを受けて、現在の人の心ばへもさやうあるべし、となり。
  人々しく立てたる趣きことにて、よきほどに構へぬや。
「人々しく立てたる趣き異にて」とは、女の守るべき道は貞心ていしんぞと一筋ひとすぢに立てたるところ、世の人に異なるなり。「人々しく」といへるは、人間の第一に守るべきことと思ひ、それを守るを、人々しきこととするなり。「よきほどに構へぬや」。これ紫の上の「ひとやうなり」とのたまへるに同心して、いかにも貞烈なればとて一偏に固まりたるは悪しし、よきほどに構ふべし、となり。「や」文字にていひ棄てたるは、紫の上の「一やうなめる」とのたまへるに同心して、「よきほどに構へぬや、げに一やうならん」といふ語勢なり。されば源氏の君も紫の上に同心にて、女もよきほどには物の哀れを知れ、 となり。
  よしなからぬ親の心とどめてふし立てたる人の、子めかしきを生けるしるしにて、おくれたること多かるは、何わざをしてかしづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるるこそいと口惜しけれ。
よしある親の心をつけて大事に育てたる娘の、ただ子めかしきばかりが取りえにて、何の能もなきは、何ごとをして育てたるぞと思はれて、親のしわざまでが思ひやられて、見落さらるる、となり。さてこの「後れること多かる」といへるは、諸芸などのことをすべていへるなれども、上の物の哀れ知らぬことの続きに書きたれば、主とするところは、物の哀れを知ることの後れたるをいふなり。 下に引ける夕霧の巻のことばにて知るべし。
  げにさいへどその人のけはひよ、と見えたるはかひあり、おもだたしかし」。
よしある人の娘なるが、なるほどどうでもその人の娘ほどある、見ゆることあれば、親の心とどめて育てたるかひありて、親のためにも面目ぞ、となり。これ、物の哀れ知らぬ人は親まで見下げられ、物の哀れ知りて、し出づること、 いひ出づることよしあれば、親までよく思ひやらるるなり。

女は、もののあはれを表に出しづらい

【現代語訳】
 また、「夕霧」の巻で、夕霧の大将が女二の宮(柏木の未亡人)に求婚していることを(源氏が)お聞きになって、自分が死んだ後、(他の男に心を移すのかと)あなた(紫の上)の気持ちが気がかりだということを、源氏の君がおっしゃっている。それを聞いて、紫の上がお思いになったことは、次のように書かれている。
  「女ほど、身の処し方が窮屈で、心の晴れないものはない。
女ほど日常の振る舞い方が難しいものはない、という意味である。思っている通りに振る舞うと非難を受けたりするので、思うことを心に閉じ込めがちであるから、「哀れなるべき(心が晴れない)」と言っているのだ。(ここは、)最もじっくりと味わうべきところである。源氏の君に将来を疑われて、しんみりと物思いに耽っていらっしゃるところである。
  ものの情趣も、興趣深いことも、見知らないふうに身を引いて黙ってなどいては、いったい何によって、この世に生きている晴れがましさを味わい、無常なこの世の所在なさをも慰めることができよう。
「見知らぬさまに引き入り沈む」とは、女というものは、心の中でもののあはれを感じても、それを表に出せば、他人にとやかく言われるようなことになるので、感じても感じていないように引っ込み思案に黙っていなければいけないということだ。これは、日常の振る舞い方が窮屈で、心が晴れない理由である。だからといって、そのように(もののあはれを)感じても感じていないふりをして、心の中に閉じ込めていたら、何によってこの世に生きている晴れ晴れしさを味わい、また何によって無常なこの世の所在なさを慰めよう、ということである。私がいつも「もののあはれ、もののあはれ」と言っているのを、こじつけのように思う人もいるだろう。この引用部分によって、それがこじつけではないことを(もののあはれが『源氏物語』においていかに大切な要素かを)理解しなさい。
 ところで、「物の哀れをもをかしき事をも(ものの情趣も興味深いことも)」と並べてある二つは、人間の感情の働き方の基本である。広い意味で「あはれ」という言葉を使う時は、「をかし」という意味も含んでいるが、(あはれ・をかしと)分けて言う場合は、「あはれ」は心が晴れず悲しい方の意味を持ち、「をかし」は面白く嬉しい方の意味を持つ。物語の中で、分けて言っているところもあるけれど、多くは広い意味で「あはれ」と言っている。広い意味で「あはれ」と言う場合は、面白い事・嬉しい事も「あはれ」と言う。人間の感情の中で、面白く嬉しく興味深い事は軽くて浅い感情であって、心が晴れず悲しい事は、重くて深い感情である。前に引用した「蛍」の巻の文章の中で「哀れを見せ」と言っている箇所と、「をかしき節」と言っている箇所とがある。この二つをここに考え合わせて読むとよい。

【原文】
また夕霧の巻に、夕霧の大将と女二の宮との間のことを聞し召して、わがなからん跡にては君の心もうしろめたきといふことを、源氏の君ののたまへるを聞きて、紫の上のおぼし召す心を書きて云はく、
  「女ばかり身をもてなすさまも所せう、哀れなるべきものはなし。
女ほど身持みもちのむつかしきものはなき、となり。思ふままに身をもてば難も出でくれば、思ふことの心にむすぼるるがちなるゆゑに、「哀れなるべき」といへるなり。最もよくよくあじはふべきところなり。 源氏の君に行く末を疑はれて、つくづくと思ひ続け給ふところなり。
  物の哀れをもをかしき事をも見知らぬさまに、引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世にふるへしさも常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。
「見知らぬさまに引き入り沈む」とは、女といふものは、心のうちに物の哀れを知りても、それを外へあらはせば人にいはるることの出で来るものなれば、知りても知らぬやうに引き入り沈めてゐねばならぬ、これ身をもてなすさまの所せく哀れなるいはれなり。さてしかればとて、さやうに見知りても見知らぬふりして心のうちにのみめてゐれば、何につけてかこの世にふる栄へ栄へしさもあらん、また何につけてか常なき世のつれづれをも慰めん、となり。まろが常に「物の哀れ、物の哀れ」といふを、牽強けんきゃうのやうに思ふ人あらん。この段をもてその牽強ならざることを知れ。
 さて「物の哀れをもをかしき事をも」といへる二つは、人情の大綱たいかうなり。がっしていふ時は、「哀れ」といふに「をかしき」もこもれども、分けていへば、「哀れ」は物思はしく悲しき方にいひ、「をかしき」は面白くうれしき方にいふなり。物語の中にも分けていへるところもあれど、多くは合していへり。合していふ時は、面白き事うれしき事も「哀れ」といふなり。 人情のうちに、面白くうれしくをかしき事は軽く浅くして、物思はしく悲しきやうの事は重く探し。前に引けるほたるの巻の文段もんだんの中の、「哀れを見せ」といへると「をかしき節」といへるとの二つ、またここに引き合せて見るべし。

女の身の処し方は難しい

【現代語訳】
  だいたい、ものの情緒も知らず、つまらない者のようになってしまったのでは、育てた親も、とても残念に思うはずではないか。
「物の心を知る」は、つまり「もののあはれを知る(物の情緒を知る)」ということだ。それを知らないのは、「いふかひなきもの(つまらない者)」と言っている。前に引用した「劣ったところが多い」を、もののあはれを知らないことと注釈したことを、ここで考え合わせて理解しなければならない。
  心の中にばかり思いをこめて、無言太子むごんたいし ※1とか言って、法師たちが辛い修行の例とする昔の喩えのように、悪い事良い事を弁えながら、口に出さずにいるのは、つまらない。
無言太子のことは、『河海抄かかいしょう』(南北朝時代の注釈書)で解説してある。「悪い事良い事」とは、要約して言えば、もののあはれを知るのと知らないのとである。(世間の人の振る舞いのうち何がもののあはれを知っていて、何がもののあはれを知らないか)それを理解しているのも、もののあはれを知っているということである。一時的に恋のこととして言うならば、もののあはれを知っている人の思いには答えて、もののあはれを知らない人は相手にしない。これは、もののあはれを知っているということだ。だけれど、いかにも知っているという顔をすると、日他人からとやかく言われるので、引きこもって黙っているのが、女の身の処し方が難しいと言われる理由である。
  自分ながらも、ほどよい身の処し方をするには、どのようにしたらよいものか」とご思案なさるのも、今はただ女一の宮(明石の女御が産んだ娘)の御身のためを思ってのことである。
「ご思案なさる」というところまでが、紫式部が『源氏物語』を書いた意図が含まれている部分である。「蛍」の巻の物語論と合わせて考えるとよい。また、「弁えながら口に出さないでいるのはつまらない」というのは、和歌を詠むきっかけとなるところだ。このように、女は何やかやと身の振る舞い方が難しい、ということである。ところで、もののあはれを感じながら、心の中に閉じ込めるのは、世間の習慣に抑制されて遠慮されたからであって、紫の上の本音ではない。だから、「つまらない」とおっしゃっている。これらの文章をもって、紫の上の考えを理解しなければならない。また、それ(もののあはれを感じる人)を善い人とした紫式部の意図を理解しなければならない。「今は女一の宮の御身のため」とは、紫の上自身は、既に女の盛りを過ぎていて、身の振る舞いも気楽である。今は女一の宮を育てる心構えが大切だ、ということである。

※ 無言太子:仏教説話の登場人物。波羅奈国の太子で、何もかも悟っていたので、生まれて13年間、無言だった。

【原文】
  大方おおかた物の心を知らず、 いふかひなきものにならひたらんも、ふし立てけむ親もいと口惜しかるべきものにはあらずや。
「物の心を知る」は、すなはち「物の哀れを知る」なり。 それ知らぬを、「いふかひなきもの」といへり。前の「おくれたること多かる」とあるを、物の哀れ知らぬことと注せる、ここに引き合せて心得こころうべし。
  心にのみめて、無言太子むごんたいしとか、法師ばらの悲しきことにする昔のたとひのやうに、悪しき事よき事を思ひ知りながらうづもれなんもいふかひなし。
無言太子のことは『河海抄かかいせう』に出だせり。「悪しき事よき事」は、えうを取りていはば、物の哀れ知ると知らぬとなり。それを見知りわきまふるも、物の哀れを知るなり。見知らぬは、物の哀れ知らぬなり。しばらく恋の上にていはば、哀れなるかたにはなびき、哀れならぬ方にはなびかぬ、これ物の哀れを見知るなり。されども見知り顔をすれば人にいはるるゆゑ、引き入りて埋もるるが、女の身をもてなすことのむつかしきいはれなり。
  わが心ながらも、よきほどにはいかで保つべきぞ」とおぼしめぐらすも、今はただ女一の宮の御ためなり。
「思しめぐらす」といふまでが、紫式部のこの物語書ける下心も含めるなるべし。かの螢の巻と考へ合すべし。また「思ひ知りながら埋もれなんもいふかひなし」といへるところが、歌よみ出づるところなり。かくのごとく、女はとにかくに身をもてなすことのむつかしき、となり。さてその物の哀れ知りながら心のうちに埋もらすは、世間のならひにおさへられてはばかるところにして、紫の上の本意ほいにはあらず。ゆゑに「いふかひなし」とのたまへり。この段をもて紫の上の心を知るべし。またそれをよき人にしたる式部が本意を知るべし。「今は女一の宮の御ため」とは、紫の上自身ははやさかり過ぎて、身をもてなすことも心やすし、今はまた女一の宮を育つる心ばへが大事ぞ、となり。
 

「雨夜の品定め」の解釈

【現代語訳】
 前に引用した「ほどよい身の処し方をするには、どのようにしたらよいものか」というのが重要である。「帚木」の巻の、雨夜の品定めの部分に、次のような記述がある。
  ものやわらかで女らしいと思うと、度を越して情愛にこだわって、調子を合わせると、浮気っぽい。これを、第一の難点と言わねばなりません。
前の「蛍」の巻で語られている(『宇津保物語』の)藤原の君の娘のように、女らしいところがないのも極端でよくない。また、女らしい人だと思ったら、決まって情愛の方面にこだわって、(そういう女は)浮気っぽいというふうに見なされるのである。これが、女の最大の難点である。だから、「ほどよい」身の処し方は難しい、ということだ。ここに大事な点がある。極端にもののあはれを知り過ぎていては、浮気っぽくなるから、ほどほどにもののあはれを知りなさいというふうに聞こえるけれど、そのように言っては意味が違ってくる。もののあはれを、非常に深く知って、それでいて浮気っぽくないように身を保つことを、「ほどよい」と言うのである。もののあはれを知っているからといって、浮気っぽいわけではなく、もののあはれを知らないからといって、真面目なわけでもない。だけれど、そこをうまく振る舞える人は少ないもので、もののあはれを知りすぎると浮気っぽくなる人が多いから、このように言っている。次の引用文で理解しなければならない。
  何をやっても粗雑なところなどあるはずがない人は、家事という点で、物の哀れ(細かい配慮)をめぐらしさえすれば、ちょっとした折の感情が豊かで、趣味性に過度になるのはなくてもよいことだろうと思われるが、 
この部分は、文脈が少しわかりづらいので、間違って解釈する人がいる。よくよく文章の意味を考えなければならない。わかりやすいように言うならば、「ちょっとした折の感情が豊かで、趣味性に敏感でなくても、家事の面で細かい配慮さえ巡らしていれば良いだろう思うけれど、何ごとも粗雑なところがあるはずのない女は、そればかりでも良くない」という意味である。そればかりでも良くないという意味は、次の文章で詳しく説明してある。だから、「見えたるに(思われるが)」という逆接の「に」が重要なのである。「情あり(感情が豊かで)」の「あり」と、「なくても」の「なく」とを文脈上、並列していると解釈すると、意味が通らない。「あり」は、「なく」の中に含まれる言葉である。「なくてもよかるべし(なくてもよいことだろう)」は、「ちょっとした折の感情」という句にもかかっている。
 ところで、「何をやっても粗雑なところなどあるはずがない人」とは、育ちのよい人であり、言動のすべての中に、いい加減な事があるはずがない人である。そのような人は、単に家事ばかりに通じていても、(物足りなくて)とても残念だ、というのである。もののあはれということは、全ての事について存在するものだ。だから、「後見うしろみの方の物の哀れ(家事という点のもののあはれ)」と言っている。これは、家の中の仕事を処理することについて、その全ての事情をよく心得ているということである。家事を非常によく心得ている人ということだ。家事にさえ通じていれば、花や紅葉など季節ごとの感情など、風流面の感性はなくても、不足はないようだけれど、何ごとにも秀でていて良い人とするには、風流面のもののあはれを知っていなくては、とても残念だ、ということである。

【原文】
 右の「よきほどにはいかで保つべきぞ」といへるが大事なり。 帚木の巻、品定めの文に云はく、
  なよびかにをんなしと見れば、あまりなさけに引きこめられて、とりなせばあだめく、これを初めの難とすべし。
前のほたるの巻にある藤原の君のむすめのやうに、女しきところのなきも一偏いっぺんにてよろしからず。また女しき人と思へば、必ずなさけの方へ引きこめられて、あだあだしき方にとりなさるるなり。これ、をんなの第一の難なり。されば「よきほど」といふことは保ちがたきもの、となり。 ここに見やうあり。あまり物の哀れを知り過ぎてはあだあだしくなるによりて、よきほどに物の哀れを知れといふやうに聞ゆれども、さいひては心たがへり。物の哀れをばいかにも深く知りて、さてあだあだしからぬやうに保つを、「よきほど」といふなり。物の哀れを知ればとてあだなるべきものにもあらず、知らねばとてじつなるべきものにもあらず。されどそこをよく保つ人は少なきものにて、物の哀れを知り過ぐればあだなるが多きゆるに、かくいへるなり。この次の文にて心得べし。
  事が中になのめなるまじき人の、後見うしろみの方は物の哀れ知り過ぐし、はかなきついでの情あり、 をかしきに進める方、なくてもよかるべしと見えたるに、
この一節は、ことばの続きすこし心得にくきやうなるゆゑに、悪しく心得る人あり。よくよく文章の意味を工夫すべし。 今よく心得らるるやうにいはば、「はかなきついでのなさけありて、をかしきに進めるかたはなくても、後見うしろみの方の物の哀れさへ知り過ぐしてあらばよかるべしと見えたれども、事が中になのめなるまじき人はさやうにても悪しき」といふ心なり。さやうばかりにても悪しきといふ心は、次の文にいひのべたり。されば「見えたるに」といへる「に」文字が重きなり。 「情あり」の「あり」と、「なくても」の「なく」とを対して見ては、聞えぬなり。上の「あり」は軽く見て、「あり」も下の「なく」の中へこもる詞なり。「なく」は、「はかなきついでの情」といへるへもかかる字なり。
 さて「事が中になのめなるまじき人」とは、上品じゃうぼんの人にして、いふ事する事、あらゆる事が中に、なのめなる事はあるまじきはづの人なり。さやうの人は、ただ後見うしろみかたばかり知りてもいと口惜しき、となり。さて物の哀れといふことは、万事ばんじにわたりて何ごとにもその事その事につきてあるものなり。ゆゑに「後見の方の物の哀れ」といへり。これは家内かないの世話をすることにつきて、そのかたの万事の心ばへをよく弁知べんちしたるなり。世帯むきの事はずいぶん心あるといふ人なり。世帯むきさへよくば、花紅葉はなもみぢ折節おりふしなさけ、風流なる方はなくても事欠くまじきやうなるものなれども、何ごとにもすぐれてよき人とするには、風流の物の哀れを知らではいと口惜しき、となり。

家事ばかりで情緒を理解しない妻では不満足1

【現代語訳】
  また一方で、貞淑さという面を固く守り、額髪を耳挟みがちにして飾り気のない主婦が、ひたすら世帯じみた世話だけをして、
これはつまり、「家事という点で、物の哀れ(細かい配慮)を知りすぎた女」である。「まめまめしき筋を立てて」とは、「固く貞操を守って」という意味である。「耳はさみがち」とは、髪を後ろへかきやって、家事をみずから手を下して、しっかり働いている様子である。ひたすら家の中で世帯じみた仕事ばかりして、ということだ。「また」という接続詞によって、これを前述の人物とは別の人のことだと解釈するのは間違いである。「何をやっても」という部分から、後に「どうして残念に思わないだろうか」というところまで、一人の人物のことを言っている。その理由は、後で述べよう。だいたい『源氏物語』は、文章が優れていて深い意味をもっているから、通りいっぺんの解釈では文章の意味がつかみづらいことが多い。理解しづらいのを、無理に知ったかぶりをして注釈したから、多くの注釈書では間違いが多い。よくよく文章の意味を明確にして、作者の意図を理解した後に注釈せねばならないのだ。「また」という接続詞の意味は、後で述べよう。
  朝出かけて夕方帰宅する世間との交わりについても、公事や私事での他人の振る舞いや、善いこと悪いことで、目にも耳にも止まる有様を、親しくもない他人にわざわざ話して聞かせようか(いや、話さない)。親しい妻で理解してくれそうな者とこそ語り合いたいものだと思われ、つい微笑まれたり、涙ぐんだり、
「朝夕の出で入り」とは、公務と私用とで、世間に出て人と交際することである。「うちまねばむやは(話して聞かせようか)」とは、他人に関することで、様々な善いこと悪いことを、自分の心の中だけに閉じ込めてばかりはいられないことがあるものだ、ということだ。それは人に話して互いにあれこれ言い合うことで、心がすっきりするものである。けれども、親しくない人にはあまり大げさには話しづらい。「まねぶ」は人の様子を語ることである。そのような時に、妻というものは互いに遠慮をしないものであって、語り合って憂さ晴らしするものなのに、あの所帯じみた妻は家事ばかりしていて、風流なもののあはれを理解していない。だから、妻に対して語っても、その面白みや本質を知らないので、何の意味もなく、心の中で思っているだけである。そういうことを理解してその面白みを理解してくれる妻と語り合いたいと思って、(しかし現実の妻が)まったく話にならない女であることを残念に思いながら、面白い事については自分の心の中で思って自然と笑ってしまい、またしみじみと感慨深い事や悲しい事に面しては涙がこみあげてくる、ということである。ちょっとした折の感情の豊かさがなく、情緒を理解できない女は、残念なことの一つなのである。

【原文】
  また、まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに、びさうなき家刀自いへとうじの、ひとへにうちとけたる後見うしろみばかりをして、
これすなはち「後見の方は物の哀れ知り過ぐしたる女」なり。「まめまめしきすぢを立てて」は、「貞烈ていれつみさをを立てて」なり。「耳はさみがち」とは、髪をうしろい越して、家内の世話をり立ちてかひがひしくする有様なり。ひとへに家内のうちとけたる世話ばかりをして、となり。 「また」とあるによりて、これをまた上と別の一種ひとしなの人と見るは誤りなり。「事が中に」といふより、下に「いかがは口惜しからぬ」といふまで、一種の人の上をいへるなり。そのいはれは下に至りていふべし。すべてこの物語は、文章すぐれて意味の深長しんちゃうなるものなれば、ひとわたりのことにては文義の心得がたきこと多し。心得がたきをしひて心得顔に注したるゆゑに、諸抄しょせうともに誤り多し。よくよく文義をあきらめ、作者の本意を心得て後に、注すべきことなり。 「また」といふ字の意味、下にいふべし。
  朝夕の出で入りにつけても、公私おほやけわたくしの人のたたずまひ、よき悪しき事の、目にも耳にもとまる有様を、うとき人にわざとうちまねばむやは、近くて見む人の聞き分き思ひ知るべからんに、語りも合せばやと、うちもまれ、涙もさしぐみ、
「朝夕の出で入り」は、宮仕へと私の事とに世間へ出でつきあふことなり。「うちまねばむやは」とは、人の上の事の、よき悪しきよろづの事の、わが心のうちに思うてばかりはゐられぬことのあるものなり。それは人に語りてたがひにとかういへば、心のうちの晴るるものなり。しかれどもうとき人にことごとしげにはいひ聞かせがたし。「まねぶ」は、人の有様を語るなり。さやうの時に妻といふものはかたみに心へだてぬものにて、語らひ合せて心も晴らすものなるに、かの世帯むきの世話ばかりよくして風流の物の哀れを知らぬ妻には、語りても、そのあぢはひ・物の心を知らぬゆゑに何のせんもなければ、心のうちにのみ思ひてゐつつ、これを聞き分けてその味を思ひ知らん妻に語らひ合せたく思ひて、 いふかひなきことを口惜しく思ひつつ、をかしき事につきてはひとり心のうちに思ひてうち笑まれもし、またあはれなる事、悲しき事につけては涙もさしぐむ、となり。これ、はかなきついでのなさけ、をかしきかたのなき女は、また口惜しきことの一つなり。

家事ばかりで情緒を理解しない妻では不満足2

【現代語訳】
  あるいは、無性に公憤をおぼえたり、胸の内に収めておけないことが多くあるのを、(理解のない妻に)話して聞かせて何になろう、と思うと、ついそっぽを向きたくなって。人知れない思い出し笑いがこみ上げ、「ああ」と、つい独り言を洩らした時に、「何事ですか」などと、間抜けた顔で見上げるようなのは、どうして残念に思われないでしょうか。
社会生活を送っていると、自然と腹が立って不本意な事が起こるもので、自分の心だけに閉じ込めておけなくなって、そのままでは済ませられないことも多い。その中で他人に言えないような事は、妻と語り合って憂さ晴らしをしたいのに、あのもののあはれを知らない妻に言っても意味がないから、何のために話して聞かせるのかと思うと、(妻の顔を)見るのもしゃくに触ってそっぽを向いてしまう、ということである。「そむかれて(そっぽを向きなくなって)」と下に続きそうだが、ここは「て」で区切って理解しなければならない。こういう文体は多い。これもまた、もののあはれを知らない女が残念である例の一つである。「人知れない思い出し笑い」とは、あの腹が立つ事とは別の事である。これは、何にせよ昔あった面白い事を思い出して、自分だけで心の中で思い続けて笑うことである。「『ああ』と、つい独り言を洩らした時に」とは、これも昔の出来事とすると、「人知れない思い出し笑い」をこの句にかけた解釈となる。また、今自分の身に起きている事として解釈するのも差し支えない。何にせよ心の中で深く思う事を嘆いているのである。「ああ(あはれ)」という言葉は、漢文で「嗚呼ああ」というのと同じことであって、深く悲しみ溜め息をつくことである。もともと、「ああ」も「あはれ」も同じ言葉が変化して成立したものである。心の中で深く思う事を言い聞かせて語らい慰める人がいない時は、一人で悲しみ、溜め息をつくのである。
 このように思い出し笑いをして、「ああ」と独り言をいうような時に、もののあはれを知っている妻であれば、語り合って慰められるだろう。また、それと言わなくても、夫の様子を見て、適切な応対をするであろう。心が動いて(夫を)慰めるはずなのに、心がなくてもののあはれを知らない妻は、このような時にも気が付かず、何にも思わないで、夫の様子を見て、「それは何事ですか」などと、とってつけたようないい加減な対応をして、何気ない顔をして見上げるのは、どうして残念でないことがあろうか、ということである。
 ところで、前に「また(まめまめしき…)」と言っているのは、ここまでかかっていると解釈しなければならない。家事の方面のもののあはれさえよく知っていたら、ちょっとした折の感情や趣味の方面のもののあはれは知らなくても良いだろうとは思うけれど、ただ所帯じみた家事ばかりしている妻は、このような(夫が心の理解を求める時には)どうして残念でないことがあろうか、ということである。このように前後の文章を通して読んだ時に、はじめて意味が分かるのである。締めくくりの、「どうして残念に思われないでしょうか」という言葉の勢いにより、もののあはれを知らない女を強く憤慨していることは、明らかだ。であれば、この『源氏物語』の真意としては、明確に「もののあはれを知る」事を善い事としているのである。

【原文】
  もしはあやなきおほやけ腹立たしく、心ひとつに思ひあまる事など多かるを、何にかは聞かせんと思へば、うちそむかれて。人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、「あはれ」ともうちひとりごたるるに、「何ごとぞ」など、あはつかにさしあふぎゐたらんは、いかがは口惜しからぬ。
世間にまじはれば、おのづから腹立たしく心外なる事ありて、わが心ひとつには思ひあまりて、すましがたきこと多きものなるに、その中に人にはいはれぬ事は、妻にこそは語らひ合せてその心をも晴らし慰むべきを、かの物の哀れ知らぬ妻にはいひてもかひなければ、何のためにかは語り聞かせんと思へば、見るも心づきなくてうちそ
むかるる、となり。「そむかれて」といひて下へ続くやうなれども、ここは「て」文字にて句を切りて心得こころうべし。この格多し。これまた物の哀れ知らぬ女は口惜しきことの一つなり。 「人知れぬ思ひ出で笑ひ」とは、かの腹立たしき事とは別なり。これは何ごとにもせよ昔ありしをかしき事を思ひ出でて、われひとり心のうちに思ひ続けて笑ふことなり。「『あはれ』ともうちひとりごたるるに」とは、これも昔ありし事とすれば、「人知れぬ思ひ出で」といふをここまでかけて見るなり。また今身の上にある事として見るも苦しからず。何にても心に深く思ふ事を歎息するなり。「『あはれ』と」といふ時 は、漢文に「鳴呼ああ」といふと同じことにて、深く歎息することなり。もと「ああ」も「あはれ」も同じことばの転じたるものなり。心に深く思ふ事をいひ聞かせ語らひて、慰むべき人もなき時は、ひとり歎息するなり。
 かやうに思ひ出で笑ひもせられ、「あはれ」ともひとりごたるる時に、物の哀れを知りたる妻なれば語り合せても慰むべく、またそれとはいはずとも、夫の気色けしきを見て、よきやうのあへしらひもあるべく、ともにあはれと見て慰めもしつべきことなるを、心なく物の哀れ知らぬ妻は、かやうの時も心つかず、何とも思はで、夫のやうを見て、「それは何ごとぞ」などとしみつかぬあひしらひして、そ知らぬ顔してうちあふのきゐたらんは、いかでかは口惜しからざるべき、となり。
 さて上に「また」といへるは、ここまでかけて見るべし。後見うしろみかたの物の哀れさへよく知らば、はかなきついでのなさけ、をかしき方の物の哀れは知らでもよかるべしとは見ゆれども、また、ただうちとけたる方の後見ばかりしてゐる妻は、かやうの折々はいかがは口惜しからざるべき、となり。かくのごとく前後をつらぬきて見る時、始めて文義明らかなり。ぢめに「いかがは口惜しからぬ」といへる筆勢ひっせい、物の哀れを知らぬ女を強くいきどほりたることいちじるし。さればこの物語の本意は「物の哀れを知る」をよしとすること、明らかなるものなり。

「もののあはれを知る」と「浮気っぽい」とは違う

【現代語訳】
 質問して言うことには、「もののあはれを知る人」を善い人として、「知らない人」を悪い人とするということは、やはり納得できない。その理由は、物語中で、ただただ浮気っぽいことを悪く言っていて、誠実なのを褒める心遣いばかりが見えて、浮気っぽい人を善いとする意図は読み取れないからだ。このことはどう思うか。
 答えて言うことには、浮気っぽいのを善いとするとは、誰が言ったことだ(誰も言っていない)。浮気っぽいことを注意するのは、世間一般の道徳論では当然である。物語に関しても言うならば、浮気っぽいことはもののあはれを知らないのに近い。であれば、どうしてそれ(浮気っぽいこと)を善いとするだろうか。前述した通り、もののあはれを知ることと浮気っぽいことは別のことで、互いに無関係である。ただし、物語の意図としては、誠実なのと浮気っぽいのとは、重要な問題ではない。もののあはれを知っているのと知らないのとが、善い悪いの要点である。
 また、質問して言うことには、あの「帚木」の巻の雨夜の品定めの中で、女の様子をあれこれ論じて、ひたすら浮気っぽいことを非難し、誠実な方を評価している。
  ただひたすら実直で、落ち着いた心の様子がありそうな女性を、生涯の伴侶として考え置くのがよいですね。それ以上の余分な情趣を解する心や気立てのよさが加わっていたら、それを幸いと思い、少し足りないところがあったとしても、無理に期待し要求するまい。安心できてのんびりとした性格さえはっきりしていれば、表面的な情趣は、自然と身に付けることができるものですからね。
また、木工の道のたくみ・絵師・能書家などの比喩をあげた後、次のように言っている。
  まして人の気持ちの、折々にそれらしい様子を気取ったような表面だけの愛情は、信用がおけないものと存じております。
そして、(嫉妬して、喧嘩の際に夫の)指を食う女と、(派手で浮気っぽい)木枯らしの女の二例をあげて、誠実な方の女(指を食う女)を評価し、浮気っぽい女には気を付けろと注意している。これはどう説明するのか。
 答えて言うことには、雨夜の品定めは、議論がころころ変わっていて、ある時は誠実なことに賛同して浮気っぽいのを非難し、ある時は、もののあはれを知らないことに非常に腹を立てている。さまざまに議論していて、結論がまとまりにくいようだが、(頭中将の体験談の)締めくくりに、
  どういう女が良いのか結局は決めがたいのが、男女の仲ですね。ただこのように、それぞれに優劣をつけるのは難しいことで。このそれぞれの良いところばかりを身に備えて、非難される点を持たない女は、どこにいましょうか。
と言っているのが、議論の終着点である。
 だから、あの指を食う女のことも、それほど良いようには書いていない。だけれど、自分の理想通りの人はめったにいない世の中なので、本妻になる人が浮気っぽいのは困るから、仕方なくあの指を食う女のような人でも、とにかく誠実な点を評価して妻とすることを言っているのである。これは、どうにも仕方がないからのことであって、それ(指を食う女)を良いとするわけではない。本心としては、そのようなもののあはれを知らない女を、妻としていることが残念だという事情は、前に引用した文章にも見えている。「どういう女がいいのか決めがたい」と言っていることにより、理解しなければならない。

【原文】
 問ひて云はく、「物の哀れ知る」をよき人とし、「知らぬ」を悪しき人とすといふこと、なほ心得ず。そのゆゑは、巻々に、ひたすらあだなるを悪しきことにいひ、まめなるをほめたる心ばへのみ見えて、あだなる人をよしとせる心は見えず。いかが。
 答へて云はく、あだなるをよしとすとは、たれかはいへる。あだなるをいましむるは、尋常つねの論はさらにもいはず、物語にてもいはば、あだなるは物の哀れ知らぬに近し。さればいかでそれをよしとはせむ。前にもいへるごとく、物の哀れを知るとあだるとは別のことにて、たがひにあづからぬ事なり。ただし物語の本意は、まめなるとあだなるとは緊要きんえうにあらず。物の哀れを知ると知らぬが、よし悪しの緊要関鍵きんえうくゎんけんなり。
 また問ひて云はく、しからばかの帚木の巻の品定めの中に、女の有様をとかく論じて、ひたものあだなるかたをばいひおとし、まめなるを取れる中にも、
  ただひとへに物まめやかに、静かなる心の趣きならんよるべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける。あまりのゆゑよし・心ばへうち添へたらんをば喜びに思ひ、すこしおくれたる方あらんをもあながちに求め加へじ。うしろやすくのどけきところだに強くば、うはべのなさけはおのづからもてつけつべきわざをや。
といひ、また木の道のたくみ絵所ゑどころ手跡てかきなどのたとへをいひて、
  まして人の心の、時に当りて気色けしきばめらん、見る目のなさけをばえ頼むまじく思う給へはべる。
といひて、指嚙ゆびくひの女と木枯こがらしの女との二事をいひて、そのまめなる方を取り、 あだなるを強くいましめたり。 これらはいかが。
 答へて云はく、品定めは展転反覆てんてんはんぷくして、あるはまめなるを助けてあだなるをおとし、または物の哀れ知らぬことを強くいきどほり、さまざまに論じて一決いっけつしがたきやうなれども、終りのことばに、
  いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ世の中や。ただかくぞとりどりにくらべ苦しかるべき。このさまざまのよき限りを取り具し、難ずべきくさはひまぜぬ人は、いづこにかはあらん。
といへるが極意ごくいなり。
 さればかの指嚙ひ女のこともさのみよきさまには書かず。されど心にかなふ人はありがたき世なれば、本妻とする人のあだなるは取りがたければ、やむことを得ずかの指嚙ひ女のやうなるにても、まづまめなるかたを取りてよるべとするをいへるなり。これ、せん方なきゆゑのしわざにして、それをよしとするにはあらず。下心には、さやうの女の物の哀れ知らぬをよるべとしてゐることの口惜しきいはれは、先々のことばにも見え、終りに「いづれと思ひ定めぬ」といへるにて知るべし。


誠実であるだけでは不十分

【現代語訳】
 また、質問して言うことには、それなら、どうにも仕方がない時には、もののあはれはひとまず保留としておいて、誠実かどうかを重視するので、誠実なのを良いとするのが、『源氏物語』の本来の意図なのか。
 答えて言うことには、万事につけて、自分の思う事のみ強調して、世間の人の言う事をただただ非難するばかりなのは、これはつまり、もののあはれを知らず、自分への執着が強い人である(だから、紫式部はもののあはればかり過剰に主張せず、誠実さについても述べているのだ)。また、自分の本妻とするはずの女が、いくらもののあはれを知っているからといって、心が浮気っぽいのを誰が良いと思うだろうか(思わない)。どうにも仕方がなく、もののあはれは知らないけれども、誠実な点を評価するものである。これ(誠実さを重視する)は、人間の感情が必ずそうであるはずのことである。であれば、自分への執着が強いことと、人間の感情に反することとは、きっと紫式部が嫌っているはずのことである。
 どれだけもののあはれを知っているかを本来の意図としているからといって、もののあはれさえ知っていれば、浮気っぽくても良いとはどうして言えるだろうか。ここは、紫式部の気持ちになってもみなさい。(もののあはれを良いとする)自分のこだわりを離れ、(誠実なのを良いとする)世間の感情に従った紫式部の書き方は、要するに、これがもののあはれを知っている書き方なのである。誠実だけれども、もののあはれを知らない女を妻にするのは、仕方がないことであって、しばらくは一般的な人の感情に従って、自分の思う意図を主張していない。このようだ(誠実な女が良い)と言っているけれど、それを非常に残念に思う気持ちは、前に引用した文章にも見えるし、また言葉にしていない部分にも、その気持ちがはっきり読み取れる。ましてや、終わりに「どういう女がいいのか決めがたい」と言い、「非難される点を持たない女は、どこにいるのか」とも言い、また「どういう結論に達するというでもなく、最後は聞き苦しい話に落ちて、夜をお明かしになった」と書いて(雨夜の品定めを)終わりにしていることで、『源氏物語』の本当の意図は、もののあはれであることを理解しなければならない。
 ところで、この時、「女性論評の先生」になったうまかみは、身分が低いので、最高級の女の心遣いや様子は詳しくは知らない。なので、「私の手の及ぶ範囲ではないので、上流中の上流について論ずるのは遠慮します」と言っている。だから、あの品定めであれこれと論じているのは中流以下の女のことであって、上流の女のことではない。であれば、中流以下には「非難される点を持たない女はいない」と言っているのだ。品定めの最後の文章に、
  源氏の君は、お一方の御様子を、胸の中に思い続けていらっしゃる。この人は、足りないところも、また出過ぎたところもない方でいらっしゃるなあと、めったにいない人だと思うにつけても、ますます胸がいっぱいになる。
と書いている。この一文で理解しなければならない。源氏の君は、藤壺の宮の心遣いや様子をよく知っていらっしゃるので、いま馬の頭が論じた「非難される点を持たない人」とはこの人のことだと、心の中で思い続けなさったのである。

【原文】
 また問ひて云はく、しからば、やむことを得ざる時は物の哀れをばまづさしおきて、まめなる方につくなれば、まめなるをよしとするが本意なるべきにや。
 答へて云はく、よろづの事、わが思ふ方のみを立てて、世の人のいふところをひたすらにいひおとすは、これすなはち物の哀れ知らぬ我執がしふの強き人なり。またわが本妻とすべき女の、いかに物の哀れ知りたればとて、心のあだなるを誰かはよしとせん。やむことを得ずば、せん方なく、物の哀れは知らずともまめなる方を取るべし。これまた人情の必ずしかるべきことなり。さればかの我執なると人情にそむけるとは、必ず紫式部が憎むべきところなり。
 いかに物の哀れを知るを本意ほいとすればとて、物の哀れさへ知らばあだあだしくともよしとはいかでかいはるべき。ここは式部が心になりてもみよかし。我執をはなれ人情にしたがへる書きざま、とりもなほさず、これが物の哀れを知れる書きざまなり。まめなれども物の哀れ知らぬ女を妻にする、やむことを得ざるところにして、しばらく人情にしたがひてわが思ふ本意を通さず。かくのごとしといへども、それをばいたく口惜しく思ふ心ばへ、前に引けるぶんどもにも見え、また言外げんぐゎいにもその意いちじるし。いはんや、終りに「いづれと思ひ定めずなりぬ」といひ、「難ずべきくさはひまぜぬ人は、いづこにかはあらん」といひ、また「いづ方に寄り果つともなく、果て果てはあやしき事どもになりて、明し給ひつ」と書き閉ぢめたるにて、本意は物の哀れにあることを知るべし。
 さてこの時の「物定めの博士」になりたる馬の頭は、下﨟げらふなれば、極上品ごくじゃうぼんの女の御心ばへ有様はくはしく知らず。 ゆゑに「なにがしが及ぶべきほどならねば、かみが上はうちおき侍りぬ」といへれば、かの品定めにかれこれと論ずるところは中品ちゅうぼん以下の女のことにして、上品の女のことにはあらず。されば中品以下には「難ずべきくさはひまぜぬ女はなし」といへるに、奥の文に、
  君は人ひとりの御有様を心の内に思ひ続け給ふ。これは、たらずまたさし過ぎたることなく物し給ひけるかなと、ありがたきにもいとど胸ふたがる。
と書けり。 これにて知るべし。源氏の君は藤壺の御心ばへ有様をよく知り給ふに、いまむまかみが論ずるところの「難ずべきくさはひまぜぬ人」とはこの人のことなりと、心の内に思ひ続け給ふなり。

藤壺は、もののあはれを知る人

【現代語訳】
「足りないところも出過ぎたところもない」というのは、あの紫の上が「ほどよい身の処し方をするには、どのようにしたらよいものか」とおっしゃったのに該当する。ところで、その部分の私の注釈に、「ほどよいとは、もののあはれをほどほどに知れということではない」と言っているのを、ここで考え合わせなければならない。藤壺の宮は本当に深くもののあはれを知っていらっしゃる方である。それを「ほどよい」女性として当てはめたのだ。そして、(藤壺は)もののあはれを知っていらっしゃることが原因で、源氏の君と密通をした。それなら、(藤壺は)浮気な人と言われるのかと思ったら、「ほどよい」人とされている。このことによって、浮気っぽいのともののあはれを知ることとは別であり、無関係であると理解しなければならない。同じく源氏と密通した朧月夜の君と、藤壺の宮を比べて、普通の道徳の書物の常識で論じるなら、(源氏の義母である藤壺よりも、源氏の異母兄の妃の一人であった)朧月夜の方が罪が軽いはずだ。なのに、朧月夜を浮気っぽい人として、藤壺の宮を最高級の「ほどよい」人としている。このことにより、普通の書物で言う善い・悪いと、『源氏物語』の善い・悪いとは、異なると理解しなければならない。また、訓戒のための物語ではないと理解しなければならない。
 また、質問して言うことには、「源氏の君はお一方の御様子を(略)」という文章の後に「どういう結論に達するというでもなく」と書いてあるので、藤壺の宮を善い人だと結論づけた書き方ではないのではないか。
 答えて言うことには、「源氏の君はお一方の(略)」というのは、源氏の君が心の中でお考えになった事だから、他の人は(源氏の)その結論を知らない。ただ馬の頭の品評の中流以下の女性の話ばかりで、品定めは終わっている。いずれにせよ、もののあはれを本来の意図として、男は源氏の君、女は藤壺の宮・紫の上などを善い人の例としているのは、前述した通りである。

【原文】
「たらずさし過ぎたることなき」といふが、かの紫の上の「よきほどにはいかで保つべきぞ」とのたまへるところなり。さてその所のしゃくに「よきほどとは、物の哀れをよきほどに知れといふことにあらず」といへるを、ここに思ひ合すべし。 薄雲の女院にょうゐんはいかにも深く物の哀れを知り給へる御方なり。それを「よきほど」といふ人に当てたり。さて物の哀れを知り給ふよりして、源氏の君と密通あり。さらばあだなる人とするかと思へば、「よきほど」といへる人なり。これをもて、あだなると物の哀れを知るとは別の事にして、あづからぬことを知るべし。同じく源氏と密通せし朧月夜の君とこの女院との御事をくらべて、尋常つねの書物の心ばへにて論ぜば、朧月夜のかたは罪軽かるべし。しかるを朧月夜をばあだなる方の人とし、この女院をば極上品ごくじゃうぼんのよきほどの人とす。 これをもて、尋常の書物にいふよししと、この物語にいふよし悪しとは変りあることを知るべし。また教戒けうかいのためにあらざることを知るべし。
 また問ひて云はく、「君は人ひとりの御有様を云々」といへる文の下に、「いづかたに寄り果つともなく」とあれば、藤壺の女御をよきにきはめたる書きやうにあらざるか。
 答へて云はく、「君は人ひとりの云々」といふは源氏の君の心の内に思ひ続け給ふ事なれば、人はその定めをば知らず。ただむまかみが定めの中品以下の事ばかりにて、品定めは終りたるなり。とにかくに物の哀れを本意として、男にては源氏の君、女にては薄雲の女院・紫の上などをよき人のためしとすること、右のごとし。

もののあはれを知らない人々

【現代語訳】
 また、葵の上もかなり善い人のように言われている。しかし、「葵」の巻で、あの(六条御息所との)車争いのことを、源氏の君がお聞きになって、お思いになったことは、このように書かれている。
  やはり、惜しいことに重々しい方でいらっしゃる人が、何事にも情愛に欠けて、無愛想なところがおありになる結果として(後略)
 「若菜下」の巻には、次のように書かれている。
  きちんとして重々しくて、どの点が不満だと思われることもなかった。ただ、あまりにくつろいだところがなく、真面目すぎて、少しできすぎた人であったと思うにつけても、信頼が置けたのだが、妻として見るには面倒な人柄であった。
この記述によって、理解しなければならない。(葵の上は)きちんとしていて、重々しく、ここが悪いと非難するようなところは見えない上流の人であり、それは信頼がおける人柄ではあるが、情愛に欠けていて、もののあはれを知る心が薄いので、本妻として見るには面倒くさいと言っている。もののあはれを知らないと、他が立派でも、欠点になるのだ。
 そしてまた、もののあはれを知らないのを悪い人とするのは、「桐壺」の巻にも例がある。
  風の音や、虫の声を聞くにつけて、何となく一途に悲しく思われなさるが、弘徽殿女御こきでんのにょうごにおかれては、久しく上の御局にもお上がりにならず、月が興味深いので、夜が更けるまで管弦の遊びをなさっているようである。(後略)
もののあはれを知らない人の様子を見るとよい。月を「面白き(興味深い)」と書いてあるところに、深い意味がある。(「帚木」巻に書いてある)「見る人によって美しくも殺風景にも」という風情にて、桐壺帝が風の音、虫の声にさえ物悲しくお思いになる、ちょうどその時に、もののあはれを知る人なら、月が興味深いとご覧になるはずがあろうか(いや、ない)。
  たいへん気が強くて、とげとげしい性質をお持ちの方なので、何ともお思いなさらず無視して振る舞っていらっしゃるのであろう。
「賢木」の巻には、次のように書いてある。
  院の御在世中こそは、遠慮もなさっていたが、后の御気性は激しくて、あれこれと悔しい思いをしてきたことの仕返しをしよう、とお思いのようである。
これは、弘徽殿大后こきでんのおおきさきのことである。
「真木柱」の巻には、次のようにある。
  この大北の方は、性悪な人だったのである。
「若菜下」の巻には、次のようにある。
  大北の方という性悪な人。
これは、紫の上の継母ままははのことである。『源氏物語』の中では、光源氏側の人に対して悪意を向ける人のことを、悪い人として書き、もののあはれを知らない人としている。これは、源氏を善い人としているからである。
 また、「帚木」の巻の雨夜の品定めに、博士の娘(ひる食いの女)が、賢ぶって学問をふりまわしたということを聞いて、貴公子たちが気味が悪いことと嫌悪して、お憎みになったということを書いている。これは、きわめて悪いこととして書かれている。

質問して※1言うことには、この(ひる食いの女の)段で、「公的な事をも相談し」と言っているのは、前に「無性に公憤をおぼえて」と言っているところに対応する言葉である。あれは、もののあはれを知らない妻だったが、これ(ひる食いの女)はもののあはれを知っている妻のように聞こえる。であれば、この女を悪い人と書いているのは矛盾しているようである。
 答えて言うことには、「公的な事をも相談し」というのは、確かに良い事のように書いてある。けれど、この女のことは、賢ぶって学問をふりかざすことを主として取り上げて憎んだ書き方なので、もののあはれのことは、この女に関しては、強くは論じていない。女が学問で見栄を張るのを強く憎んでいるのは、紫式部自身の学問をふりかざない心構えを表現しようとするためである。紫式部は才能豊かな女なので、世間の人が、「式部はさそがし学問の自慢をするだろう」と、『源氏物語』を書いたことについても憎むだろうと推測して、(式部は)学問をふりかざさないことを読者に知らせるために、この女を悪く書いたと思われる。学問で見栄を張ることについては、さらに後で書く。ところで、悪い女の例として、この女をここであげたことについて、私の考えは、恋人のことについてである。この理由は、後で書く。見るとよい)

 前述した人々は、恋愛話は出てこないけれど、悪い人とした書き方は、はっきりしている。もし、普通の儒教・仏教の教えをもって言うならば、源氏の君・藤壺の宮などは、弘徽殿大后よりもはるかに道徳から外れた人だというだろう。なのに、それ(普通の評価)とは違っているから、『源氏物語』の善い・悪いが指し示すところは、これまで色々述べてきた通りである。

※1 ()内の問答は、底本では二行割注の形になっている。

【原文】
 また葵の上をもずいぶんよき人のやうにいひたれども、葵の巻に、かの車争ひのことを源氏の君の聞き給ひておぼし召す心を書きて云はく、
  なほあたら重りかにおはする人の、ものに情後なさけおくれてすぐすぐしきところつき給へるあまりに云々。
若菜の下に云はく、
  うるはしく重りかにて、その事のあかぬかなと覚ゆることもなかりき。ただいとあまり乱れたるところなく、すぐすぐしく、すこしさかしとやいふべかりけんと思ふには、頼もしく、見るにはわづらはしかりし人ざまになん。
といへるにて知るべし。うるはしく重りかにて、ここぞと難ずるところは見えぬ上品じゃうぼんの人なれども、それは頼もしくはあれども、情後れて、物の哀れを知る方の薄かりしゆゑに、本妻として見るにはわづらはしきといへるを見れば、物の哀れ知らねば、いづこがよくても難となるなり。
 さてまた物の哀れ知らぬを悪しき人とすることは、桐壺の巻に云はく、
  風のおと、虫のにつけても、物のみ悲しくおぼさるるに、弘徽殿には久しう上の御つぼねにもまうのぼり給はず、月の面白きに夜ふくるまで遊びをぞし給ふなる云々。
物の哀れ知らぬ人の有様を見るべし。月を「面白き」と書きたるに、心あり。「見る人からえんにもすごくも」といへる心ばへにて、帝は風の音、虫の音にさへ物を悲しく思し召すころしも、心あらん人は月を面白しと見給ふべきことかは。
  いとおし立ち、かどかどしきところ物し給ふ御方にて、事にもあらずおぼちてもてなし給ふなるべし。
賢木の巻に云はく、
  院のおはしまいつる世こそ憚かり給ひつれ、后の御心いちはやくて、かたがたおぼしつめたる事どものむくいせむとおぼすべかめり。
これ弘徽殿の大后おほきさきの事なり。
真木柱まきばしらの巻に云はく、
  この大北おほきたかたぞさがな者なりける。
若菜の下に云はく、
  大北の方といふさがな者。
これ紫の上の継母ままははのことなり。すべてこの物語の中、源氏の君の方ざまにしく当る人をば悪しき人に書きなして、物の哀れ知らぬ人にせり。これ、源氏をよき人とするゆゑなり。
 また帚木の巻、品定めに、博士の娘がこと、さかしだち学問ぶりせしことを聞きて、きんだちむくつけき事と爪弾つまはじきをしてあはめ給ふよし書けり。これ、いたりて悪しき事にせり。

(問ひて云はく、この段に「おおやけごとをもいひ合せ」といへるは、前に「あやなき公腹立おおやけはらだたしく」といへる所に応ずることばにして、かれは物の哀れ知らぬこと、これは物の哀れ知れることのやうに聞ゆ。さればこの女を悪しきになすは相違のやうなり。
 答へて云はく、「公ごとをもいひ合せ」とあるは、いかにもよき事に書けり。されどこの女のことは、賢しだち学問ぶりすることをせんに憎みたる書きざまなれば、かの物の哀れのことは、この女につけてはしばらく強くは論ずべからず。その学問だてを強く憎みたることは、紫式部自分の学問だてせぬ心をあらはさむためなり。 式部は広才くゎうさいの女なれば、世の人の、さぞ学問自慢をすると、この物語作れるにつきても憎むらんと推量おしはかりて、学問だてせぬことを知らさんために、この女を悪しく書けると見えたり。学問だてのこと、なほ奥に記す。 さて悪しき女のしょうにこの女をここへ挙げたるまろが意は、好色の事につきてなり。このいはれ、次下にいふ。見るべし)

 右の人々は、好色の事は見えざれども、悪しき人としたる書きざま、あらはなるものなり。もし尋常つねの儒仏の論をもていはば、源氏の君・薄雲の女院にょうゐんなどは弘徽殿の大后おほきさきよりもはるかに無道ぶだうの人といふべし。しかるにそれとは変れるゆゑに、この物語のよししの指すところ、右段々のごとし。

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