


2024年の大河ドラマ「光る君へ」の舞台は平安時代。
紫式部が主役であり、一条天皇も重要なキャラとして
登場しています。
◆◇出演者発表 第5弾◇◆
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) July 25, 2023
<六十六代>#一条天皇(いちじょうてんのう) 役#塩野瑛久 さん#光る君へ pic.twitter.com/3P7lXYjnlW
塩野瑛久さん、とってもイケメンですね❤️
この記事では、一条天皇について
以下の点について詳しく解説しています。
・わかりやすい家系図
・死因と病歴、最期の様子
・性格
・容姿
・妃の人数と解説
・源氏物語との関連



知識をつけることで「光る君へ」を
より楽しむことができますので、
ぜひ最後までお読みください😊
一条天皇の家系図



以下は、一条天皇を中心とした相関図です。


一条天皇の諱 (本名)は、
懐仁 です。
藤原道長の姉である詮子と
円融天皇の間に生まれました。



上記の系図には、定子、彰子、元子しか
入れられませんでしたが、他にも
義子、尊子が入内しています。
⇒一条天皇の妻は何人だったか詳しく解説
一条天皇の系図のポイント
一条天皇の家系図を見る上でのポイントは、
藤原氏との外戚関係です。
一条天皇の母方の祖父が、
藤原兼家であり、
この時代は兼家の一族が
大きな政治的権力を持っていた
ということです。
一条天皇の即位当初は、
祖父の藤原兼家が外戚として
関白を務め、実権を掌握していましたが、
兼家の死後は、息子の道隆が関白を引き継ぎました。
道隆が亡くなり、
伊周が長徳の変で失脚した後は、
藤原道長が内覧となり、実権を握ります。


藤原道長
「内覧」は天皇に見せる文書を先に見る
権限を持った役職です。
都合の悪い文書は天皇に報告しないという
ことができるため、関白や摂政と
同じような強い権限を持っていました。
藤原道長は摂関政治の最盛期を
築いた人物であり、
一条天皇は藤原氏の繁栄に利用された天皇
ということになります。
\道長の生涯や人柄を詳しく解説/


一条天皇の死因と病気









一条天皇は非常に病弱な体質でした。
病歴や死因について詳しく見ていきましょう。
一条天皇の病歴
一条天皇は子どもの頃から病弱でした。
以下は、記録の中に見られる病歴を
表にまとめたものです。
年次(西暦) | 年齢 | 病状 | 出典 |
---|---|---|---|
永延元年(987年) | 8歳 | 2月28日「内の悩気御坐す」 記録に見える初めての病気 | 「小右記」 |
永祚元年(989年) | 10歳 | 「日を追いて危篤、甚だ激しく、供御(飲食)を廃す」 年頭から病気が続いた。 | 「寺門伝記補録」 |
正暦元年(990年) | 11歳 | 6月28日からマラリア(熱病)で苦しんだ。 8月6日に治癒するが、13日には赤痢にかかる。 赤痢は16日に治っている。 | 「寺門伝記補録」 「小右記」 |
正暦4年(993年) | 14歳 | 2月3日病気になり、安倍晴明が禊
を行う。 8月8日には当時流行していた疱瘡(天然痘)にかかる。 | 「小右記」 「小記目録」 |
長徳4年(998年) | 19歳 | 7月18日流行していた赤疱瘡(麻疹)にかかる | 「小記目録」 |
長保元年(999年) | 20歳 | 3月15日、20日咳病、 7月16日歯痛、 12月8日眼病 | 「御堂関白記」 「権記」 |
長保4年(1002年) | 23歳 | 4月3日、病悩。 | 「小記目録」 |
長保5年(1003年) | 24歳 | 2月26日、病悩。 | 「権記」 |
寛弘2年(1005年) | 26歳 | 4月26日から20日以上の食欲不振、時々悩気がある。 | 「小右記」 |
寛弘6年(1009年) | 30歳 | 2月18日病悩。 25日には病が重くなり、御手水間にへたり込んでしまった。 | 「権記」 |
寛弘8年(1011年) | 32歳 | 5月22日病悩。 「主上、日来 、尋常に御座 さず。今、頗 る重く悩み給う」 その後は一進一退の状況が続き、6月14日に病が重くなる。 6月21日、崩御。 | 「御堂関白記」 「権記」 |
一条天皇の最期の様子



一条天皇は、32歳という若さで崩御されました。


寛弘八年(1011年)5月22日に発病してからは、
一進一退の状況が続きますが、
6月14日に病が重くなり、6月19日には出家しています。



6月21日、ますます望みのない状況となり、
行成が飲み物を提供すると、「最もうれし」と語りました。
さらに「此 れは生くるか(自分は生きているのだろうか)」
と話しています。
夜になって一条天皇は体を起こし、
辞世の和歌を読み再び横になると意識不明となりました。
6月21日、時々念仏を唱えながら、
臨終を迎えました。
辰刻(午前7時から9時頃)に
臨終の気配がありましたが、しばらくすると蘇生。
数時間後の午刻(11時~13時)に崩御されました。



一条天皇の辞世の句には2つの意味がある



一条天皇は辞世の句(和歌)を詠んでいます。
辞世の句は、
「御堂関白記」「権記」「栄花物語」
「古事談」「新古今和歌集」に見られます。
少しずつ内容が異なっていますが、
共通点を総合してみると、
「権記」のものが実際に詠んだ歌に
近いのではないでしょうか。
露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
「権記」
露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ
「御堂関白記」
露の身の 仮の宿りに 君を置きて 家を出でぬる 事ぞ悲しき
「栄花物語」
露の身の 風の宿りに 君を置きて 遠く出でぬる 事をしぞ思ふ
「古事談」
秋風の 露の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
「新古今和歌集」
【「御堂関白記」原文】
つ由のミの久さのやと利尓木ミを扵きてちりをいてぬることをこそ扵毛へ
【「権記」原文】
露之身乃風宿爾君乎置天塵を出ぬる事曾悲支


この和歌の歌意は、
「君」が中宮・彰子を指すのか、
皇后・定子を指すのかで違ってきます。



【君=彰子と理解した場合の歌意】
露のようにはかない身の、かりそめのこの世に君を置いたまま出家してしまったことが悲しい
【君=定子と理解した場合の歌意】
君が成仏できず露の身となって、この世に留まっているのを置いたまま、自分だけ成仏してしまうことが悲しい
「権記」の作者、藤原行成は、
君=定子であり、この辞世の句は
亡くなった皇后・定子に向けて詠んだ歌と解釈しました。
「栄花物語」によると、定子は次のような辞世の句を詠んでいます。
煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ
「栄花物語」より引用
【歌意】
煙にも雲にもならなず空に漂うこの身であっても、草葉に置く露を見て、この私だと思って偲んでください)
一条天皇の辞世の句は、
「露」「草」などの言葉を用いて、
定子の和歌の返歌になっていると見ることができます。






一条天皇が辞世の句を詠んだとき、
そばには中宮彰子が付き添っていました。
そばに彰子がいるのに、
彰子にあてた和歌ではなく
亡き定子にあてた和歌を詠むでしょうか?



そう考えると、一条天皇はあえて
定子、彰子、どちらに宛てた歌とも
とれるような歌を考えて
詠んだのかも知れませんね。
一条天皇の死因は?



一条天皇の死因は不明です。
ですが、発病からわずか1か月で
亡くなるということは、
発病時にはすでに病気がかなり進行した状態だったのでしょう。
一条天皇は幼少期から病弱でしたが、
20代になってからは2月と4月に病気になる
ことが多かったようです。



季節の変わり目や梅雨前線(低気圧)による
自律神経失調症かと思いましたが、
それだけで命にかかわるとも思えないので、
何か別の病気や感染症を併発していたのかも知れません。
一条天皇の短命は、近親婚が原因?
家系図を見てわかるとおり、
一条天皇の両親は、いとこ同士の結婚です。
それ以前にも天皇家は摂関家との近親婚を
繰り返してきていますので、
一条天皇は遺伝的要因による疾患を
持ちやすい状態になっていたと予測されます。
近親婚により免疫系の病気や、神経の病気など、
さまざまな疾患が増えるとされているので、
一条天皇の病弱さと短命も、近親婚が原因だった可能性があります。
藤原道長が一条天皇の寿命を縮めた?
道長は一条天皇が発病して早くも3日後に
大江匡衡に譲位に関わる易占いをさせています。
占いの結果は「天皇死去」というものでした。


夜御殿にいた一条天皇は、
なんと几帳の隙間からこの様子を見てしまいます。
一条天皇は、自分の病の重さと
道長の譲位の策略を知り、
ショックを受けてさらに病状が重くなってしまいました。



\清涼殿の間取りはこちらの記事で解説/


一条天皇の性格【どんな人だったのか?】



一条天皇の性格がわかるエピソードを4つ紹介しますね。
エピソード①猫好き
一条天皇は、非常に猫を可愛がる性格でした。
一条天皇と猫にまつわるエピソードは2つあります。
子猫の産養
一条天皇は、猫好きが高じて、
子猫の産養を行っています。
産養は、人間の赤ん坊が生まれて
3・5・7・9日を経過したことを
祝う儀式です。
一条天皇はこの産養の儀式を
猫に対して行ったのです。
「小右記」長保元年(999年)
9月19日の記載によると、
内裏で飼っていた猫が産んだ子猫の
「産養」の儀式が一条天皇主導で
詮子と道長の臨席のもとで執り行われました。
「小右記」の中で実資は、
「時の人、之を笑う」と云々。奇怪の事、天下、以て目くばせす。若しくは是れ徴有るべきか。未だ禽獣に人の礼を用いるを聞かず。磋乎。
「小右記」より引用
と嘆いています。



一条天皇が行った猫の産養は、
常軌を逸した行動のように思えますが、
男皇子の誕生を祈願した儀式の意味があったのかも知れません。
この頃、一条天皇はまだ一人も男皇子がいませんでした。
猫をかばって犬を流刑にする
『枕草子』の「上に候ふ御猫は」には、
このようなエピソードが書かれています。
殿上で飼われていた猫
「命婦のおとど」が縁側で寝ていて、
乳母が中に入るように言っても
動こうとしません。
そこで乳母は、「翁まろ」という
宮中で飼っていた犬に
指示をして猫を襲わせました。
驚いた猫は、朝餉の間にいた
一条天皇のもとに逃げこみました。
猫を懐に入れた一条天皇は、
非常に怒って犬を流刑にし、
乳母を交替させました。



翁まろは、再び内裏に帰ってきたころ、
蔵人に打たれていじめられてしまいました。
一条天皇は、
身を震わせて鳴く翁まろを見て許し、
翁まろは再び宮中で飼われています。



ちなみに、このエピソードは、
長保2年(1000年)の出来事だと推定されています。
一条天皇は猫を溺愛していた。
犬よりも格段に猫派だった。
「源氏物語」(若菜下)では、
冷泉帝や今上帝(朱雀院の皇子)が
猫を可愛がっていたという記載があります。
もしかすると、猫好きの一条天皇をモデルに
しているのかも知れませんね。
エピソード②責任感が強い
一条天皇は、
藤原氏の言いなりになっていた
印象が強いですが、
天皇としての責任感を持っている人でした。
一条天皇は、定子を最愛の后としていました。
その定子の兄である藤原伊周が「長徳の変」
という政変にまきこまれて、
都を追放される時に、
一条天皇の責任感が発揮されています。
伊周とその弟の隆家が、故藤原為光家で
花山院と遭遇して従者同士の乱闘となり、
花山院がつれていた童子2人が殺害されたことを発端とする政変。
一条天皇は、伊周の家司の邸を検非違使に
捜索させたり、伊周・隆家に罪名をつけさせたりしている。
二人は流罪となり、定子はみずから髪を切り出家した。
長徳の変において、一条天皇は、
細々とした指示を出し、中関白家(伊周たち)
に対して厳しい態度を見せています。



定子への愛情には変わりはないけれど、
天皇としての責任感により貴族社会の
安定を保つために、中関白家の処罰を行ったのです。
一条天皇は聡明で責任感の強い人だった。
私情にとらわれず、最愛の后・定子の親族を処罰した。
エピソード③母親には従順
天皇としての責任感の強い一条天皇でしたが、
母親の意向に従う一面もありました。
藤原道隆が関白を辞職すると、
息子の伊周が関白職の就任を希望します。



なぜ一条天皇が、伊周の関白就任を拒否したか
というと、母詮子が道隆⇒道兼⇒道長という
兄弟順の関白就任を望んでいたからでしょう。
後に道兼の関白就任を一条天皇が許可している
点から見ても、詮子が同母兄弟すべてを
関白に就任させたいという希望を持っていて、
裏で一条天皇に指示を出していた可能性が高いのです。
一条天皇は、母親の意向にそむけない
従順な一面を持っていた。
エピソード④ユーモアを理解し、よく笑う
「枕草子」を読むと、
一条天皇は、ユーモアを理解してよく笑う性格であることがわかります。
下記の記事でエピソードを詳述しました。


一条天皇と定子は、
大叔母の藤原繁子や清少納言をからかって
嬉しそうに笑っていました。
一条天皇と定子は
イタズラ心があり、ユーモアのある夫婦だったのです。
エピソード⑤几帳面な性格
一条天皇は漢詩の教養が深い人でした。
しばしば内裏において作文会を主催し、
道長と並び、王朝文化の保護者としての側面を持っていたのです。
一条天皇の詠んだ漢詩は、すべて
「句題詩」の特徴を持ちます。
句題詩とは
五字句題七律を基本とした漢詩の型。
発句に題字を詠みこみ、
胸句に題目の趣旨を説き、
腰句では胸句と逆の繰り返し、
結句では心情を述べて締めくくる構成です。
すべて句題詩というのは、他の作者には
見られない一条天皇のみの特色であり、
一条天皇の几帳面な性格がうかがえます。
最愛の后・定子と一緒にいる時はよく笑い、
イタズラ好きな性格だった。
大の猫好きで子猫誕生を祝う儀式を
行うほどだった。
政治に関しては責任感が強いが、
母親の意向に従う一面もあった。
几帳面な性格で
漢詩や和歌の教養があり、笛を愛好していた。
一条天皇はイケメンだった?【容姿について】



一条天皇の容姿については、
「栄花物語」に「気高く美しい」と書かれています。
この上は、いみじう御かたちよりはじめ、きよらにあさましきまでぞおはします。
『栄花物語』「かがやく藤壺」より引用
【現代語訳】
この帝は、ご容貌をはじめとして、気高く美しく、ただただ驚き入るほかない様子である。
ただし、
「栄花物語」は藤原道長の栄華を賛美する
内容の歴史物語ですので、
道長の娘の夫である一条天皇の容姿についても
多少は誇張が入っている可能性があります。
一条天皇の妻は何人だったか



一条天皇の后は全部で5人です。
名前 | 入内した日 | 称号 | 備考 | 入内した年齢 | 入内時、一条帝の年齢 |
---|---|---|---|---|---|
定子 | 正暦元年(990年)1月25日 | 女御⇒中宮⇒皇后 | 藤原道隆の娘 | 14歳 | 11歳 |
義子 | 長徳2年(996年)7月20日 | 女御 | 藤原公季の娘 | 23歳 | 17歳 |
元子 | 長徳2年(996年)11月14日 | 女御 | 藤原顕光の娘 | 不明(18歳か) | 17歳 |
尊子 | 長徳4年(998年)2月11日 | 御匣殿別当⇒女御 | 藤原道兼の娘 | 18歳 | 19歳 |
彰子 | 長保元年(999年)11月1日 | 女御⇒中宮 | 藤原道長の娘 | 12歳 | 20歳 |
最愛の后は定子(さだこ/ていし)
一条天皇に最初に入内したのは、定子です。
明るくユーモアのある性格で
一条天皇から最も愛され、3人の子どもを産みました。


定子と一条天皇
長徳の変以降、後見が没落した定子を
寵愛し続けたことは、
一条天皇の生涯を通じて数少ない
「自らの意志」であったと言うことができるでしょう。
定子は第三子の媄子内親王を産んだ後に
死去します。
第二子である男皇子、敦康親王も
天皇に即位することはなく、
20歳の若さでこの世を去りました。


義子(よしこ/ぎし)
義子が一条天皇に入内したのは、
長徳の変により定子の後見が没落した後です。
この頃、
男皇子を産む可能性を増やすために他の后も
次々に入内していきました。
義子の父親・公季は、
康子内親王を母とし、皇族にも準じる扱いを
受けていました。母親も有明親王の娘です。
義子は、血筋上は定子よりも高貴であり、
有力な妃となるはずでした。
ところが、
義子は一度も懐妊をしませんでした。
不妊体質だっただけかも知れませんが
一条天皇からは、
あまり愛されていなかった可能性があります。
元子(もとこ/げんし)
義子が寵愛を受けていないことを受けてか、
同じ年の11月14日に右大臣藤原顕光の娘の
元子が入内します。
元平親王の娘を母とする顕光と、
盛子内親王との間に生まれた元子も、
義子と同じく、定子よりも高貴な血筋と言えるでしょう。
元子は、
一条天皇から気にいられたようで、
寵愛を受け懐妊しますが、
臨月を過ぎても出産することはなく、
子宮から大量の水が出ただけで
腹部は平らになり、終わってしまいます。



元子は子を産めませんでしたが、
その後も一条天皇から寵愛を受け続けました。
尊子(たかこ/そんし)
亡くなった道兼の娘・尊子は、
御匣殿別当として入内しました。
ところが、一条天皇は尊子を気にいらなかった
のか、寵愛の形跡がありません。
懐妊もしていないし、女御になったのも
入内から2年以上たってからです。
父道兼がすでに亡くなっており、
後見が弱い尊子を避けた可能性があります。
勝ち組は、彰子(あきこ/しょうし)
当時一番の権力者であった藤原道長の娘
彰子の入内は、貴族社会からおおいに祝福されました。
彰子は当時、12歳とまだ幼かったので、
しばらくは一条天皇から女性として寵愛を受ける
ことはありませんでした。
定子が男皇子を産んでしまうと、
中関白家の権力がましてしまうため、
道長は自分の娘の彰子を入内させることで
一条天皇にプレッシャーをかけたのです。
結局、彰子は見事、2人の男皇子を出産し、
2人とも天皇に即位したのです。


彰子は国母となりました。
ただし、彰子が第一子の敦成親王を産んだ際に、
一条天皇の喜びの言葉は諸資料に残っていません。



彰子は定子ほどには愛されていなかったから、
このような対応の差が生じたのでしょう。
一条天皇は帝としての義務感から、
彰子との間に皇子をもうけたのです。
男皇子を産んで、国母になるという意味で、
彰子は一番の勝者ですが、
一条天皇からの愛情という意味では、
一番ではなかったかも知れません。


定子の妹:御匣殿が寵愛を受ける
定子の死後、定子の妹(御匣殿)が
敦康親王の母代わりをつとめていました。
17、18歳くらいで、容貌も美しく、
物静かで控えめな女性でした。
「栄花物語」によると
なんと、御匣殿を一条天皇が寵愛して
懐妊させてしまったそうです。



入内当初の面影を見いだし、愛したのでしょう。
ところが、
御匣殿は妊娠中に亡くなってしまいます。
一条天皇は定子に続く御匣殿の逝去に落胆しました。
一条天皇の后たちについて学ぶには、
こちらの本がおすすめです😊
「源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり」
には、一条天皇とその后たちの動向や
歴史的背景がたいへん詳しく解説されています。
紫式部や清少納言との関連も説明されて
いるので、「光る君へ」の時代にドンピシャです。
一条天皇と源氏物語の関係



「源氏物語」の作者である紫式部は、
一条天皇の后である中宮・彰子に、女房として仕えていました。


一条天皇と「源氏物語」は
とても近い位置にあり、
実際に一条天皇は「源氏物語」を
愛読していました。
彰子の父・藤原道長は、
一条天皇を彰子のもとに通わせるために、
紫式部に命じて「源氏物語」を書かせたのだ
と言われています。
一条天皇は「源氏物語」を最も早く
読んだ読者だったかも知れませんね。
一条天皇は、源氏物語を読んでいた
「紫式部日記」に、以下のような記述があります。
内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」と、のたまはせける
「紫式部日記」より引用
【現代語訳】
一条天皇が『源氏物語』を人にお読ませになりながら、お聞きになっていた時に、「この人(紫式部)は、日本紀を読んでいるに違いない。 本当に知識があるようだ」と、おっしゃった
一条天皇は、「源氏物語」を
女房など人に読ませて聞いていたのです。
そして、作者である紫式部が日本の歴史に詳しい
ということを見抜いているのです。
一条天皇は物語に興味があるだけでなく、
教養が高く、物語を読解する能力にも
秀でていたということがわかりますね。
彰子は「源氏物語」の冊子を一条天皇に献上した
「紫式部日記」によると、
彰子が敦成親王を出産した後に
土御門邸にて「源氏物語」の冊子作りが行われました。



夫である一条天皇が「源氏物語」を
高く評価していたので、
冊子にして献上しようと、彰子は考えついたのでしょう。


この頃、「源氏物語」は
彰子のかたわらに置かれていました。
彰子自身も、「源氏物語」のファンであったことが窺えます。
\源氏物語の成立について詳しく解説/


一条天皇 まとめ
この記事では、一条天皇がどんな人だったのか
家系図、死因、性格などを詳しく説明しました。
一条天皇は「叡智欽明」「好文の賢皇」
「英明の天子」など優秀な天皇として
評価の高い天皇ですが、
この記事を通して病弱な生涯や猫好きの性格など
一条天皇の人間らしい一面もおわかりいただけたと思います。
当サイトでは、一条天皇も愛読していた
「源氏物語」の解説をメインに掲載しています。
ぜひ他の記事も読んでいってくださいね😊



