2024年の大河ドラマは「光る君へ」の
主要な登場人物の一人
藤原定子(ふじわらのていし/さだこ)
紫式部とは直接的な交流はありませんでしたが、
平安時代中期の歴史を語るにおいて不可欠の存在です。
この記事では、
気になる定子の容姿や性格、エピソード
について紹介します✨
・容姿
・性格
・死因
・清少納言とのエピソード
・一条天皇とのエピソード
・家系図
・お墓の場所
この記事を読むことで、
「光る君へ」の理解も深まります。
長い記事になりましたので、
下記の目次をタップして、好きなところから読みください😊
藤原定子は美人だった!
道隆の長女#藤原定子(ふじわらのさだこ)#高畑充希
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) December 11, 2023
◆◇◆◇◆
道隆の長女。一家の繁栄を願う父の思いを一身に負い、年下の一条天皇に入内(じゅだい)する。清少納言らが集う、才気にあふれたサロンを作り上げ、一条天皇の最愛の妃(きさき)となるが、悲運に見舞われる。#光る君へ pic.twitter.com/yPmy5xkevz
結論から言うと、
藤原定子は、美人でした。
清少納言も絶賛の美貌
清少納言は、「枕草子」の中で
定子の容姿を絶賛しているのです。
いとつめたきころなれば、さしいでさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、おどろかるるまでぞ、まもり参らする。
「枕草子」より引用
【現代語訳】
とても寒い時期なので、(中宮さまの)差し出しなさった手がほのかに見えるが、その手がたいへん美しい薄ピンク色なのが非常に素晴らしいと、私のような田舎者は「こんな人が世の中にいらっしゃったのか」とはっと気づいて、じっと(中宮さまを)見つめ申し上げる。
この文章は、
清少納言は初めて定子のもとに出仕したときの記録です。
清少納言は、
定子の美しさにうっとりと見とれてしまったと書かれています。
差し出された定子の手も、
血色がよく薄紅梅色で、美しい手でした。
宮は、白き御衣どもに紅の唐綾(からあや)をぞ上に奉りたる。御髪(みぐし)のかからせたまへるなど、絵にかきたるをこそかかることは見しに、うつつにはまだ知らぬを、夢のここちぞする。
「枕草子」より引用
【現代語訳】
中宮様は、白いお召し物を重ね着していて、その上に紅の唐綾をお召しになっている。そこに髪が垂れてかかっていらっしゃる様子は、絵で見たことははあるものの、現実にはまだ見たことがなかったので、夢のようである。
上記のように、
清少納言は、中宮定子の容姿について、
「まるで絵のようだ」とまで語っているのです。
定子の妹の原子も美しい女性でしたが、
2人を並べてみると、
やはり定子は比べるものがないくらい
魅力的な容貌でした。
家族そろって美貌の持ち主だった!
美しかったのは、定子だけではなく、
定子の家族にも美貌の持ち主が多かったのです。
藤原道隆:定子の父親。
容貌が美しい上に、
コミュニケーション力が高く、
周りから好かれていた。
藤原伊周:定子の兄。
容貌が美しく漢詩の才もあったが、
感情的になりやすく
心が幼稚な人だった。
原子:定子の妹で、道隆の二女。
東宮・居貞親王の許に入内。
絵に描いたような可愛らしい姫だった。
御匣殿:定子の妹で、道隆の四女。
美しく控えめな女性。
定子が亡くなった後は、
一条天皇の寵愛を受ける。
藤原道頼:定子の異母兄。
たいへん容貌が美しく、
性格も伊周より良かった。
「落窪物語」に登場する貴公子
(右近の少将道頼)
のモデルと言われている。
一条天皇と定子は美男美女カップル!
「栄花物語」には一条天皇も美男
だったと書かれています。
「枕草子」によると、
清少納言はこの美男美女カップルには
ただもうぼうっとなって魂を奪われる思いをしていたようです。
「御硯の墨すれ。」と仰せらるるに、目はそらにて、ただおはしますをのみ見奉れば、ほとどつぎめもはなちつべし。白き色紙をおしたたみて、「これにただいまおぼえむふるきことひとつづつ書け。」と仰せらるる、外にゐ給へるに、「これはいかが。」と申せば、「とう書きてまゐらせ給へ。男は言くはへ候ふべきにも侍らず。」とて、さし入れ給へり。御硯取りおろして、「とくとく。ただ思ひまはさで、難波津もなにも、ふとおぼえむことを。」と責めさせ給ふに、などさは臆せしにか、すべて面さへ赤みてぞ思ひ乱るるや。
【現代語訳】(中宮定子さまが)「お硯の墨をすりなさい」とおっしゃったが、私の目は宙を泳ぎ、ただいらっしゃった帝のお姿ばかり拝見しているので、墨の継ぎ目を取り外しそうになった。中宮は「この紙に今思い浮かぶ古歌を、一つずつ書いてみなさい」とおっしゃった。御簾の外にいる伊周大納言様に、「これはどうしたらよろしいでしょうか」と問うと、「早く歌を書いて差し上げなさい。男が意見を申し上げることではありません」と言って、紙を差し入れ、戻してきた。中宮さまはお硯を私に突きつけて、「早く早く。何も思い悩まずに、難波津でも何でもいいから、思いついた歌を」と要求なさってくるので、どうしたことか私は臆病になって、まったく顔が真っ赤になりパニックになってしまった。
「枕草子」より引用
一条天皇、定子、伊周という
美男美女に囲まれて清少納言はもう真っ赤。
歌どころではありません。
\一条天皇の容姿や性格を詳しく解説/
定子の容姿は具体的にどんなだった?
定子の容姿が
具体的に語られた資料はありません。
「枕草子絵詞」(枕草子を絵画化した絵巻物)
も、後の時代(鎌倉時代末期)に
書かれたものであって、
本人を忠実に描いたものではないのです。
なので、定子についても
どのような目鼻立ちをしていたかはわからないのです。
清少納言は、
女房として定子に仕えている身でした。
ご主人様のことを悪く書けるはずがありません。
「枕草子」の中に見られる
定子についての記述も、
もしかするとかなり誇張して書かれているかも知れませんね。
\大河ドラマ 光る君へ 紫式部とその時代/
「光る君へ」の時代背景や平安時代の
文化・風習など
わかりやすく学べる副読本です!
大河ドラマファンの必携となっていますので、
ぜひ読んでみてくださいね。
藤原定子は性格も良かった!
容姿以上に注目するべきは、
定子の性格の良さです。
定子は明るく、優しく、よく笑い、
ユーモアと才気に溢れ
思いやりの豊かな女性でした。
まだ若い年齢でありながら、
人を惹き付けて感化させるような、
指導力のようなものを備えていました。
皇后が持つべき性質を、
定子は天性のものとして持っていたのでしょう。
以下、清少納言と一条天皇とのエピソードを
通して、定子の性格を詳しく見ていきましょう✨
一条天皇とのエピソードを紹介
定子が后として入内したのは、
一条天皇の元服から20日たった
西暦990年(正暦元年)1月25日でした。
夫11歳、妻14歳(満年齢だと9歳と12歳)の
お雛様のような夫婦でした。
定子のエピソードからは、
彼女がユーモアの精神を持っており、
その明るい性格で
一条天皇から深く愛されていたことがわかります。
定子と一条天皇とで乳母をからかう
一条天皇、定子にとっての大叔母に当たる
藤原繁子を二人してからかったことがあります。
円融院が亡くなり、喪が明けた頃、
繁子は差出人がわからない手紙を受け取りました。
その手紙には、以下のような和歌が書いてありました。
これをだに
かたみと思ふに都には
葉がへやしつる
椎柴の袖
【意味】
せめてこれ【喪服】を
(円融院の)形見と思うのに
都では喪服から衣替えをしてしまったのか
喪服の袖よ
繁子は、この和歌を見て、勘違いしました。
喪が明けて
自分が喪服を脱いだことを
誰かが責めているのではないか?
繁子が一条天皇と定子に
このことを報告すると、定子は、
すっとぼけた態度。
「昔の鬼のしわざとこそおぼゆれ。」
「枕草子」より引用
【現代語訳】
昔話にでてくる鬼の仕業じゃない?
一条天皇が
「その紙は、
この辺にあった色紙とよく似た紙だよ」
と我慢できずに笑いだしてしまい、ネタばらし。
定子が、繁子を動揺させるために
偽の手紙を書かせ、
一条天皇と一緒に藤原繁子をからかっていたのですね。
定子の周辺は、
冗談と笑いが溢れた雰囲気で
開放的な空気が出来上がっていたのです。
長徳の変にも負けない深い愛
定子が長子となる女児を産んだのは
西暦996年(長徳2年)の12月16日。
定子が内親王を受胎したのは、
逆算すると伊周と隆家の処罰が
諮問されていたころでした。
(長徳の変)
定子の兄・伊周は、
自分の恋人のもとに花山法皇が
通っていると勘違いをして、
弟の隆家に相談。
隆家は自らの従者に命じ、
花山法皇の袖を矢で射抜いた。
この事件をきっかけに
定子を含む中関白家
(道隆一家)は凋落していった。
謹慎の意を表して定子が内裏を退出して
自宅に戻れば、いつまた戻ってこられるか分からない。
そのような状況の中で、
一条天皇と定子の愛は
以前よりまして燃え上がり、
第一子の懐妊につながったのだろうと推測されます。
定子と一条天皇の愛は深く、
長徳の変によりますます燃え上がった。
定子は出家した後も一条天皇の寵愛を受ける
定子は伊周が起こした長徳の変をきっかけに
髪を切り、落飾(出家)をして内裏を退出していました。
しかし、一条天皇は変わらず
定子を愛しており、
また第一子である脩子内親王にも
逢いたかったので、
定子を御所に戻したのでした。
定子の住処は、
天皇が生活をする清涼殿から遠い
中宮職の職曹司と決められました。
ところが、定子はしばしば内裏に行き、
ときには長く逗留することもありました。
出家しても、依然として定子は一条天皇に深く愛されていたのです。
定子と一条天皇とで清少納言をからかう
一条天皇と定子とで
清少納言をからかったこともあります。
大雪が降ったある日のこと
職曹司の庭に役人を動員して雪山を作りました。
12月11日のことでした。
女房たちは
その雪山がいつまで溶けずに残っているか?
の賭けをします。
他の女房が10日や半月というのに対し、
清少納言は年明け1月15日くらいまであるだろうと予測しました。
月が変わって、定子は1月14日の夜、
侍たちに雪を捨てさせてしまいました。
15日に清少納言は雪がなくなっているのを知ります。
20日に内裏に参内したときに
清少納言は定子に愚痴を並べます。
定子は笑いころげ、
「そこまで本気で思いつめているのに嘘を言うべきではないわね。実は私が14日の夜に捨てさせたの」
と白状します。
清少納言ははへそを曲げます。
そこへ来た一条天皇も会話に加わり、
「今まではてっきり寵愛の女房だと思ってたけど、そんな態度をとるのでは考えを改めた方がいいかな」
とけしかけます。
一条天皇と定子にとって
清少納言はいじりがいのある女房だったようですね。
一条天皇と定子はいつも楽しそうです。
一条天皇は定子を守るために孤軍奮闘した
道長の娘・彰子は、西暦999年(長保元年)に
一条天皇のもとに入内します。
その6日後の11月7日、定子は男皇子を出産するのです。
しかし、定子の実家は長徳の変をきっかけとして
この時にはもう力を失っており、
世間はみな、彰子の入内のお祝いムードで溢れていました。
彰子に追い風が吹く宮中の中で、
一条天皇はひとり、定子の出産を大喜びしたのです。
生まれた子ども(敦康)の
百日の祝いのときも、
一条天皇は供える御膳のことを指図して
敦康に食べさせる餅も用意させました。
宮中の人はほとんど彰子のほうに
気持ちが向いており、
定子の周りは人も少なく、
寂しいものになっていました。
一条天皇は、
自分だけが定子を守ってあげられるのだ
という気持ちで、一人で定子のために
最善をつくしてあげていたのです。
定子の葬儀の段取りも一条天皇が直接指示
定子が第三子の出産後に亡くなった後、
周囲の役人は定子の葬儀の段取りを
なかなか進めようとしませんでした。
道長が権力を握ってしまった中で、
みなその娘の彰子中心に動いており、
定子のために積極的に
動こうとする者が少なかったのです。
一条天皇は一人で愛する妻の葬儀の指示を
色々な人に命じて孤軍奮闘したのです。
左衛門尉という低い身分の者にまで
葬送の日はきちんと奉仕してほしいと
声をかけたりまでしています。
清少納言とのエピソードを紹介
「枕草子」の中に見られる
定子と清少納言のエピソードを紹介しますね。
定子と清少納言の性格や
2人の関係性がよくわかって面白いですよ✨
清少納言と紫式部の関係や、
性格の比較は、こちらの記事で詳しく述べています。
和歌が詠めない清少納言&無理強いしない定子
梅雨時の、手持ち無沙汰なある日、
清少納言は仲間の女房たち4人で
ホトトギスの歌を詠むために
「松ヶ崎」という場所までお出かけをすることになりました。
一行は、高階明順(定子の母:貴子の兄)
の家を訪れて食事をとったり、
藤原公信の邸まで行ってちょっかいを出したり
楽しんだあげく、機会を逃してしまい、
ついに歌が一首も詠めませんでした。
内裏に帰って
定子にまだ何も詠んでいないことを報告すると、
「その場ですぐに詠めばよかったのよ。
あんまり大層に構えるから、詠めないんだわ。ここで詠みなさい」
と定子から叱られてしまいました。
しかし、清少納言はもうその日は興ざめで
歌を作る気分になれません。
定子は不満ながらも、清少納言をそれ以上は責めなかったのです。
数日後、先日のお出かけで
明順の家で食べた下蕨(したわらび)
の話をしていると、
定子は「思い出すことが下蕨なんて」と笑って
下蕨こそ恋しかりけれ
(あの時食べた下蕨が恋しいなあ〕)
と紙に書き、清少納言に上の句をつけさせました。
郭公(ほととぎす)たづねて聞きし声よりも
(訪ねて聞きに行ったホトトギスの声よりも)
その後、清少納言が、
「自分は和歌を作るのがあまりうまくない。
和歌で有名だった父の名を
汚すことになると嫌だから
あまり和歌を詠みたくない」
と思いを打ち明けると、定子は
「それなら、あなたに任せるわ。
私はもう歌を詠めとは言いません」
と清少納言の意志を尊重したのです。
清少納言の父親は、清原元輔。
歌人として名高い。
清少納言は自分の詠んだ和歌で、
父の名を汚すことを恐れていた。
定子と清少納言は主人と女官という関係でありながら、
言いたいことを言い合える関係性だった。
そして定子は決して嫌がる清少納言に和歌を無理強いしなかった。
引きこもる清少納言に優しく声がけ
清少納言が女房として
仕え始めたばかりの頃のお話です。
清少納言は緊張と羞恥心から
隠れてばかりいました。
昼の光などとんでもないと
暁の訪れとともに帰ろうとするし、
夜に大殿油の灯りで顔を見られるのさえ
恥ずかしがっていたのです。
定子は清少納言に絵などを取り出して見せて
気を晴らそうとしてあげていました。
さらに、
「葛城の神さま、もう少しいてもよろしいでしょ?」
と定子は清少納言を冷やかします。
奈良県葛城山の神。一言主神とも呼ばれる。
葛城山と金峰山との間に
岩橋をかけようとしたが、
容貌が醜く、
夜しか仕事をしなかったため、
完成しなかったという伝説がある。
(「今昔物語集」)
定子は、清少納言を、
「醜いから夜だけ働いた葛城の一言主神」に
ふざけてなぞらえたのです。
そのような定子の気遣いのおかげで、
清少納言は宮仕えにとけこみ、楽しく働けるようになったのです。
定子の気遣いのできる、
明るい性格のおかげで
清少納言は宮中の生活に慣れていった。
イケメンに恥じらう清少納言&助ける定子
雪が降り積もるある日、
定子の兄・伊周(19歳)が定子の局を訪問しました。
「どうしてこんな雪の日に?『道もなし』じゃございませんか?」(定子)
「こういうときに伺えば『あはれ』と思って下さると思って」(伊周)
この会話は、
山里は
雪降り積みて
道もなし
今日来む人を
あはれとは見む
意味:山里は雪が降り積もって道も消えてしまった。
もし今日、私の許を訪ねてくれる人がいたら、その人を愛しいと思うだろう。
という和歌を引用しての会話でした。
清少納言は几帳の後ろに隠れて
「なんて素敵な会話かしら」と
胸をとどろかせていたのです。
やがて伊周は立ち上がって、
「そこにいるのは誰?」と
几帳の後ろに隠れている清少納言の
近くまで来て座ってしまったのです。
定子は清少納言の気持ちを汲み取って、
「お兄様、これをご覧になって。誰の筆跡と思いますか?」
と伊周の引き離しにかかりました。
次に父の藤原道隆がやってきます。
愛想がよくサービス精神に富んだ道隆の訪問で
局はさらに賑やかになり、お供の人や女房の笑い声に包まれました。
定子の局に仕える女性は、
清少納言をはじめとして、みな誰でも
最初はこのような恥じらいの反応を示します。
しかし、定子のフォローと
明るい性格により
やがて一緒に笑うようになり、
関白(道隆)にも自由に
口がきけるようになっていくのでした。
定子と清少納言はレズビアン!?
ある晩、定子は清少納言に、
「私のことを大切に思っている?」
とききました。
「もちろんでございます」
と清少納言は答えましたが、
女房の詰め所の方から大きなくしゃみが聞こえました。
「ひどい。心にもないことを言ったのね」
定子はすねたように奥へ行ってしまいました。
夜が明けて、清少納言のもとに手紙が届けられます。
いかにして
いかに知らまし偽りを
空にただすの
神なかりせば
意味:どのようにして
あなたの本心が偽りでないと知ればいいのでしょう。
全てお見通しの糺の森の神がいなかったら…
定子と清少納言の間には、
主人と女房という関係を超えた
愛情が芽生えていたのです。
清少納言は誤解を嘆いて、
次のように返歌をしました。
うすさこさ
それにもよらぬはなゆゑに
うき身のほどを
みるぞわびしき
意味:思いの薄さ濃さと
関係ないくしゃみなのに
誤解を受けるのは悲しいです。
定子と清少納言の間には
主従関係を超えた愛情が芽生えていた。
清少納言の悪い噂をかばう定子
「清少納言の局の細戸から
明け方に傘を差した男が出て行った」と
女房が噂をたてたことがありました。
定子はそんな噂を立てられている
清少納言が可哀想で、
雨傘とそれを持つ手を絵に描き、その下に
「山の端明けし朝より」
と書いた手紙を清少納言に届けたのです。
この言葉は、
あやしくも
われ濡衣を
着たるかな
御笠の山を
人に借られて
意味:おかしいな。
私は濡れ衣を着せられてしまった。
自分の名前を他人に借りられて。
という藤原義孝の歌が元ネタです。
「あなた、濡れ衣をかけられてしまったのでしょう?」という気遣いですね。
清少納言は雨の降る様子を絵に描き、
「雨ならぬ名の立ちにけるかな」
(濡れ衣ということになりますでしょう。)
と返事をしました。
定子は天皇付の女房にそれを見せて
「こういうことですね。あまりあらぬ噂を立ててはいけません」
と清少納言を陰でかばっていたのです。
定子は清少納言のことを信頼していた。
清少納言に悪い噂が起きても、かばっていた。
定子は寂しがり屋
清少納言が物忌みで内裏を離れた時、
定子は寂しくなって
いかにして
過ぎにし方を
過ぐしけむ
暮らしわづらふ
昨日今日かな
【意味】
どのようにしてあなたが出仕する前の日々を過ごしていたのだろう。
あなたが不在になって寂しく思っている昨日今日です。
と歌を詠みました。
清少納言が退出したのは
ほんの一昨日のことなのに、もう寂しかったのですね。
清少納言の返歌は以下です。
雲の上も
暮らしかねける
春の日を
ところからとも
ながめつるかな
【意味】
定子さまが宮中の生活を
辛く思っている春の日を
私は場所が場所なので、
ぼんやり眺めていただけです
清少納言も物忌みがつまらなくて、
すぐにでも帰りたい気分だったので、
あくる朝は明け方には内裏に戻りました。
中宮定子にとって清少納言は親愛なる女房だった。
たった数日の不在でさえ、寂しくなってしまっていた。
関白よりも仏様になりたい定子
定子の父・道隆が清涼殿から
退出したときの話です。
道隆が出る戸口から、
北の登花殿の方へ続く道に
たくさんの貴族が並んで跪いていました。
威風をはらう伊周(正三位権大納言)と
道長(従二位権大納言)までもが跪いていて、
清少納言は男社会の序列の厳しさを目にしたのです。
自分も来世では、
ああいう素晴らしい身分になりたいと
清少納言が語ったところ、定子は
「仏になりたらむこそは、これよりは勝らめ」
「枕草子」より引用
【現代語訳】
仏様になるほうが、関白になるよりいいのではなくて?
とほほえんだのです。
定子の幸せは、
出世や権威にあるのではなく、
穏やかな心
(大好きな家族や仲間との心の結びつき)
にあったのかも知れませんね。
藤原定子の死因は何だったの?
お産直後の急死
定子は西暦1000年(長保2年)12月16日の未明
一条天皇の第三子・女二の宮(媄子内親王)を
出産した直後に亡くなります。
享年24歳(数え年)でした。
赤ちゃんが元気に生まれた後で、
後産を待ちましたが、
定子は胎盤を出すこともできず
そのまま亡くなったとのことです。
3度目の出産であったし、
一子も二子も安産だったのに、
今回は妊娠中から体に以前とは違うと感じることがあったとのこと。
胎盤が出てこないという記述から、
癒着胎盤による大量出血などの死因が推測できますね。
または、妊娠中毒症(妊娠高血圧症候群)により
産後に脳出血を起こした可能性もあります。
文献には詳しい症状が書かれておらず、
本当のところは何が原因なのはハッキリわかりません。
定子死去の際に空に凶兆が出た
定子が亡くなった時、
満月を挟むように白い雲が二筋、
東から西にかけて大空を渡っていました。
それは歩障雲(ほしょううん)と呼ばれている雲です。
葬礼の時、
棺の左右を隠する白い幕に似ていることから
不祥雲(ふしょううん)とも言われています。
月は后の象徴です。
つまり、その雲は、
皇后定子が亡くなったことを暗示した
不吉な雲だったということです。
偉大な人物が崩御されたとき、
空は不思議な反応を見せるものなのかも知れません。
定子は桐壺の更衣のモデル!?
定子は、第二子である敦康親王が
1歳の頃に亡くなっています。
「源氏物語」では、
光源氏の母・桐壺の更衣も
光源氏が幼い頃に亡くなっています。
この状況の類似により、
定子は桐壺の更衣のモデルなのではないか
とも言われています。
紫式部は、定子死去と
残された敦康親王の話を聞いて、
「源氏物語」にストーリーを
反映させたのかも知れませんね。
定子の墓所はどこ?
藤原定子のお墓は、鳥戸野陵です。
〒605-0972 京都府京都市東山区今熊野泉山町55
緑の美しい陵墓です。
こちらの定子は眠っていらっしゃいます。
ぜひ聖地巡礼してみてくださいね。
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定子と彰子の関係を解説(家系図あり)
定子は平安時代中期の
藤原家の人間でした。
定子の周辺の藤原家の家系図を紹介します。
定子は、藤原道隆の長女として生まれました。
西暦990年(正暦元年)1月25日に
14歳で一条天皇のもとに入内します。
定子は一条天皇の寵愛を受けますが、
長徳の変により藤原道隆一家(中関白家)は凋落。
時代は、道隆の弟・道長に有利に動くようになります。
\道長の性格や人生を詳しく解説/
定子は変わらず一条天皇の寵愛を受け、
三人の子どもを出産します。
脩子内親王・敦康親王・媄子内親王です。
享年 | 生涯 | |
---|---|---|
脩子内親王(しゅうしないしんのう) | 54歳 | 後見人に恵まれなかったが、父・一条天皇に可愛がられ、周囲から大切された。生涯未婚だった。 |
敦康親王(あつやすしんのう) | 20歳 | 定子亡き後、彰子に養育されていた。 (彰子に男子が生まれなかった場合の保険として道長が計らった) ところが、彰子が男子を出産したので、敦康親王の立場は弱くなり、一条天皇の第一皇子であるのに皇太子になれなかった。 20歳という若さで病死。 |
媄子内親王(びしないしんのう) | 9歳 | 媄子内親王が生まれた翌日に定子が死去。 9歳で病死。 |
第三子の媄子内親王を出産した直後に
定子は、亡くなってしまいます。
その後は、同じく一条天皇のもとに
入内していた道長の長女・彰子が
男子を2人出産しました。
その子が後一条天皇、後朱雀天皇になり、
彰子の父・藤原道長は外戚政治という手法で、
栄華を極めることになるのです。
定子は、まさに悲運のヒロイン。
美しく明るく、
帝の寵愛を一身に集めていた定子は、
父・道隆と叔父・道長の権力争いにより
一家の凋落という憂き目を見ることになったのです。
定子の身の上に重くのしかかった不運は、
彼女の体を少しずつ蝕み、
24歳での死去という短すぎる人生が完結したのでした。