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撫子
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30代後半の主婦。
高校生の頃から源氏物語に興味を持ち始めました。大学では源氏物語を研究し、日本語日本文学科を首席卒業しました。
30代になり、源氏物語を改めて学びなおしています。
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本居宣長:もののあはれの論8・「もののあはれ」と浮気っぽいのとは別物

もののあはれの論 現代語訳・原文8

この記事では、
本居宣長:もののあはれ論(紫文要領)の
原文・現代語訳を掲載しています。

★大意の事 上
1.物語とは「もののあはれ」を知らせるもの 
2.蛍の巻の物語論から紫式部の意図を読み取る
3.古来の注釈書は間違いが多い 
4.『源氏物語』の善悪の基準は「もののあはれ」 
5.女は「もののあはれ」を知った上でほどよい態度をとるべき 
6.「もののあはれ」についての詳述 

★大意の事 下
7.恋愛は「もののあはれ」が深い 
8.「もののあはれ」と浮気っぽいのとは別物 ←この記事
9.『源氏物語』は教訓の物語ではない
10.光源氏と藤壺の密通を書いた紫式部の意図
11.人の真実の感情を知ることが「もののあはれ」を知ること

目次

再び「もののあはれ」と「あだ」の違い

【現代語訳】
 質問して言うことには、そうであれば『源氏物語』は、恋愛を立派なことと考えて称賛するのか。恋愛に迷って身を滅ぼす人のことをも、善いこととするのか。浮気っぽい行動も善いこととするのか。
 答えて言うことには、恋愛を好むのを立派なこととして称賛するのではない。もののあはれを知ることを称賛するのである。たとえば、ある人が泥水どろみずを蓄えているのを見て、ある人が質問して、「あなたは、汚い泥水を素晴らしい物と思って称賛するのか」と言った。すると、問われた人はそれに答えて、「泥水を蓄えることは、はすを植えて花を見る手段である。泥水を称賛するのではないけれど、蓮の花が非常に清らかであるのを称賛することによって、泥水が汚いことは無視して関知しない」と言った。これと同じことである。であれば、もののあはれの花を称賛する人は、恋の水が澄んでいるか、濁っているかには関知しないのだ。また、柏木が恋愛によって死んでしまったのも、その行為を称賛するわけではない。身を滅ぼすほど深く思い悩んだことに同情するのである。また、浮気っぽいことを善しとしないことは、『源氏物語』の作品中に頻繁にその意図が読み取れ、前述したことである。

【原文】
 問ひて云はく、しからばこの物語は、好色をいみじき事にして賞美するか。色に迷うて身を失ふ人をもよしとするか。あだあだしき振舞ひをもよしとするか。
 答へて云はく、色好むをいみじき事にして賞するにはあらず。物の哀れを知るを賞するなり。たとへばある人の泥水ひぢみづをたくはふるを見て、ある人問うていふやう、「真人まうとは濁れる泥水をいみじき物に思ひて賞するか」といふに、かの人答へていふやう、「泥水をたくはふることは、はちすを植ゑて花を見むれうなり。 泥水を賞するにはあらねど、蓮の花のいみじくいさぎよきを賞するによりて、泥水の濁れることはててかかはらず」と答へける、このぢゃうなり。されば物の哀れの花をづる人は、恋の水の澄み濁りにはかかはるべからぬことなり。また柏木の衛門ゑもんかみの好色によりてむなしくなれるも、そのしわざを賞するにはあらず。身をいたづらになすほどの物思ひの深き心のほどをあはれぶなり。またあだあだしきをよしとせぬことは、巻々にその心見え、前にも弁じたることなり。

もののあはれを知っているがゆえに複数人になびくこともある

【現代語訳】
 だいたい、もののあはれを知れば浮気っぽいと思うのは、間違いである。浮気っぽいのは逆にもののあはれを知らない人が多い。その理由は、前にも述べた通り、もののあはれを知ったような様子を装って、あちらこちらにもののあはれを知っていることを伝えようとして、誰にでも良い顔をし、浮気っぽい人が多いからである。これは本当にもののあはれを知っている人ではない。表面的な情趣というものであって、本当はもののあはれを知らないのだ。また、そうではなく、あちらにもこちらにも、もののあはれを知るがゆえに、誰にでも良い顔をする人もいる。これも事によって異なるけれども、まず一方の愛情を知ったとしても、もう一方の愛情は知らないことになる。
 だから、浮舟の君はそれ(片方の愛を知ると、もう片方の愛を受けられない)を思い悩んで、我が身を滅ぼしてしまおうとしたのである。薫の方の愛情を知れば、匂宮の愛情を受けられない。匂宮の愛情を知れば、薫の愛情を受けられないのだ。ゆえに、思い悩んだのである。あの(『万葉集』の)芦屋あしや菟原処女うないおとめも、この気持ちで我が身を生田川いくたがわに沈めて、死んでしまったのである。これは、どちらの愛情をも捨てられないということだ。我が身を滅ぼすことによって、二人の男の愛情を完全に知るのである。浮舟の君も、匂宮にお逢いしたからといって、浮気っぽい人とは言ってはいけない。浮舟も身を滅ぼして(薫と匂宮)両方のもののあはれを完全に知った人である。「浮気っぽい」というのは、あちらもこちらもいい加減に思うから、誰にでも良い顔をするのだ。であれば、つまりは、浮気っぽい人は本当はもののあはれを知らないのだ。
 ただし、もののあはれを知るのは、一人の人間に対してのみと限られているわけではない。機会により場合によっては、あちらへもこちらへも、気持ちを抑えられず感慨深いことがあるはずだから、一概には言うことが難しい。人により、場合により、少しずつ違いはあるはずのことだから、二人になびいたからといって、浮気っぽいと言ってはいけないし、片一方のもののあはれを知らないとも一概に決めつけて言ってはいけない。場合によるはずである。だから、藤壺の宮と空蝉の君とは、夫がいる身で源氏の君と男女の契りをお結びになったけれど、(作者は)浮気っぽいとはせずに、善い人のように言っている。これは、抑えがたい感情があるからである。もののあはれを(『源氏物語』全体の)主題としているからである。また、朝顔の斎院は、最初から最後まで冷淡な態度をとっているが、もののあはれを知っていて善い人されている。「葵」の巻に、「(朝顔の君は)そっけないけれど、しかるべき時節折々の情趣はお見逃しなさらない。こういう間柄こそ、お互いに情愛を最後まで交わし合うことができるものだ」と書いてある。また、葵の上は万事において優れているけれど、真面目すぎて情趣を理解する方面が劣っていることが少し非難されており、紫の上に関しては、もののあはあはれを知っていらしゃるから非難されていない。

【原文】
 大方おほかた、物の哀れを知ればあだあだしきやうに思ふは、ひがことなり。あだなるはかへりて物の哀れ知らぬが多きなり。そのゆゑは、前にもいへるごとく、物の哀れを知り顔作りて、ここへもかしこへも物の哀れ知ることを知らさむとてなびきやすに、あだなるが多きなり。これはまことに知るものにはあらず。うはべのなさけといふものにて、実は物の哀れ知らぬなり。またさにはあらで、ここもかしこも物の哀れ知りてなびくもあり。これも事によるべけれども、まづはそれは一方の物の哀れ知りても、一方の哀れを知らぬになるなり。
 されば浮舟の君はそれを思ひ乱れて、身をいたづらになさんとせしなり。薫のかたの哀れを知れば、匂の宮の哀れを知らぬなり。匂の宮の哀れを知れば、薫の哀れを知らぬなり。ゆゑに思ひわびたるなり。かのあし少女をとめも、この心ばへにて身を生田いくたの川に沈めて、むなしうなれり。これ、いづ方の物の哀れをもてぬといふものなり。一身を失うて二人の哀れをまたく知るなり。浮舟の君も、匂の宮に逢ひ奉りしとて、あだなる人とはいふべからず。これも一身を失うて両方の物の哀れをまたく知る人なり。「あだなる」といふは、ここもかしこもなほざりに思ふゆゑに、いづかたへもなびくなり。されば畢竟ひっきゃうは、あだなる人はまことは物の哀れ知らぬなり。
 ただし物の哀れを知るは、一方ひとかたには限るべからず。折にふれ事によりては、此方こなた彼方かなたも忍びがたく哀れなることもあるべければ、一偏いっぺんにはいひがたし。その人その事によりてすこしづつのしなはあるべきことなれば、二人になびけばとて、あだなるともいふべからず、一方の物の哀れ知らぬとも一概に定めてはいふべからず。事によるべきなり。されば薄雲の女院と空蝉の君とは、夫ありながら源氏の君に逢ひ奉り給へども、あだなりとはせず、よき人にいへり。これ、忍びがたき哀れのあるゆゑにかくのごとし。物の哀れをしゅとするゆゑなり。また朝顔の斎院は始終つれなかりしかども、物の哀れ知りてよき人とせり。葵の巻に云はく、「つれなながらさるべき折々の哀れを過ぐし給はぬ、これこそかたみになさけも見はつべきわざなれ」とあるなり。また葵の上はよろづにすぐれたれど、まめすぎて物の哀れ知る方のおくれたるをすこし難じ、紫の上は物の哀れ知り給ふゆゑに難なし。

『源氏物語』全体の趣旨は、もののあはれの他に無し

【現代語訳】
 であれば、とにかく「もののあはれを知る」というところが大切である。源氏の君は恋人が多くあちらこちらに気持ちを分けていらっしゃるので、もののあはれを知らないと言うはずのところだが、これも、どの女性に対しても感情が抑えられないからこそ、このような状態なので、浮気っぽい人とはされていない。末摘花は、容貌も悪く性格も万事が未熟であり、取り柄がないような人だが、(源氏は)その(末摘花の)身の境遇や頼りない様子をお憐みになったから、お捨てにならない。花散里は、容貌は悪いけれど、気立てが良いからお捨てにならない。これらは全て、もののあはれを抑え込むことができないから、このような行動になるわけで、源氏の君は浮気っぽい人ではない。『源氏物語』を開いて読んで、その妙味を感じなければならない。
 恋愛の事情はさまざまであり、そのあり方は色々なので、一概に言うことは難しい。けれど、その究極のところを言うならば、『源氏物語』全体の趣旨は「もののあはれ」の他には無い。『源氏物語』を読む人は、絶対に間違った説に迷って正しい読み方を忘れてはいけない。ただひたすら、もののあはれを求めて読み、他のことに気をとらわれてはいけない。

【原文】
 さればとにかくに「物の哀れ知る」といふところが緊要きんえうなり。源氏の君は思ひ人たち多くしてこれかれに心を分け給へば、物の哀れ知らぬともいふべきやうなれども、これも、いづこもいづこも哀れの忍びがたきところあるゆゑにかくのごとくなれば、あだなる人とはせず。末摘花はかたちもわろく御心も万後よろづおくれて、取りどころなきやうなる人なれども、身の御ほどを思し召し、心細き有様をおぼし召すゆゑにて給はず。 花散里はかたちしけれど、心ざまのよきゆゑに棄て給はず。これらはみな、物の哀れの忍びがたきかたあるゆゑにかくのごとくなれば、源氏の君はあだなる人とはべちなり。物語を開き見てそのあぢはひを知るべし。
 好色の事はとりどり様々にしてそのしな多ければ、一方にはいひがたし。されどその極意をきはむる時は、一部の本意ほい、「物の哀れ」よりほかなし。これを読まむ人、必ず邪説に迷うて道を忘るることなかれ。ただ一筋に物の哀れを目当てとして、脇目わきめすることなかれ。

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