この記事では、
本居宣長:もののあはれ論(紫文要領)の
原文・現代語訳を掲載しています。
★大意の事 上
1.物語とは「もののあはれ」を知らせるもの
2.蛍の巻の物語論から紫式部の意図を読み取る ←この記事
3.古来の注釈書は間違いが多い
4.『源氏物語』の善悪の基準は「もののあはれ」
5.女は「もののあはれ」を知った上でほどよい態度をとるべき
6.「もののあはれ」についての詳述
★大意の事 下
7.恋愛は「もののあはれ」が深い
8.「もののあはれ」と浮気っぽいのとは別物
9.『源氏物語』は教訓の物語ではない
10.光源氏と藤壺の密通を書いた紫式部の意図
11.人の真実の感情を知ることが「もののあはれ」を知ること
蛍の巻の物語論こそ紫式部の執筆意図である
【現代語訳】
多くの巻の中でも、紫式部の著した『源氏物語』の執筆意図は、確かに「蛍」の巻に書かれている。それも、はっきりとそう書いてあるわけではなくて、ただいつものように古い物語の話として、源氏の君が玉鬘の君に話す物語論の中に、紫式部自身の本心を言い表しているのだ。それなのに、古い注釈には間違いが多くて、紫式部の本心が明確になっておらず、逆にとんでもないふうに理解する人が多いので、私は今回、「蛍」巻の物語論の全文を抜き出して、一つ一つ注釈をして、紫式部が執筆意図を託そうとする本心を明確にして、『源氏物語』の手引きとする。
「蛍」の巻には、次のように書かれている。
いろいろと珍しい登場人物の身の上などを、本当のことか嘘のことか分からないが、たくさん集めた物語の中でも、「自分の身の上と同じようなのはなかった」と御覧になる。
これは、古い物語を読んでの、玉鬘の君の感想である。これも、昔と今とを比較しているところだ。
『住吉物語』の姫君が、(中略)あの監の恐しさと思い比べて御覧になる。
玉鬘の君は『住吉物語』を読んで、自分の身の上に起こったことを当てはめている。
殿は、あちらこちらでこのような絵物語が散らかっていて、お目につくので、
「殿」とは、源氏のことだ。「かかる物ども」とは、物語の本のことである。
ああ、困ったものだ。女というものは、面倒がりもせず、人にだまされようとして生まれてきたものですね。
「物うるさがりせず」とは、面倒くさいことを嫌がらないということだ。「うるさき」とは、面白くもないことを長々と書いてあることだ。『源氏物語』の作中には、書いたほうがいいことを省略するときに、「うるさければ書かず」と書いてあることが多い。その用例をもって、「うるさき」の意味を理解しなければならない。嘘ばかりのとりとめのない物語は、読んでいて面倒くさいものなのに、嫌がらずに愛好するとは、女という生き物は、他人に騙されるように生まれついたのだ、ということである。「あざむかるる(騙される)」とは、次に「真少なき(真実が少ない)」と書いてあるのに対応する。
【原文】
中にも紫式部 『源氏物語』の本意は、まさしく螢の巻にいへり。それも確かにそれとはいはずして、ただ例の古物語のことにして、 源氏の君の玉鬘の君への物語の中に己が下心をいひあらはせり。しかるに古来の注釈、誤り多くして、作者の本意あらはれがたく、かへりてあらぬさまに聞きなす人のみ多きゆゑに、いま左にかの全文を抄出して一々これを釈し、式部がこの物語の本意を寓する下心をあらはして、この物語の指南とす。
螢の巻に云はく、
さまざまに珍らかなる人の上などを、まことにやいつはりにや、いひ集めたる中にも、わが有様のやうなるはなかりけり、と見給ふ。
古物語どもを見ての玉鬘の君の心なり。これまた昔と今とをたくらべて見るところなり。
住吉の姫君の云々、かの監がゆゆしさをおぼしなぞらへ給ふ。
『住吉物語』を読みて、わが身の上にありしことを思ひ当るなり。
殿は、こなたかなたにかかる物どもの散りつつ御目に離れねば、
「殿」は源氏なり。「かかる物ども」は、物語の本どもなり。
「あなむつかし。女こそ物うるさがりせず、人にあざむかれんと生れたるものなれ。
「物うるさがりせず」とは、うるさきことをいとはぬなり。「うるさき」とは、面白くもあらぬことなどを長々しく書きたるやうのことなり。巻々に、いふべきことを略する詞に、「うるさければ書かず」といへるところ多し。 それにてここの心を知るべし。偽り多きそぞろごとの物語は、見るにうるさきものなるを、いとはで賞翫するは、女といふものは人にあざむかるるやうに生れたるものぞ、となり。「あざむかるる」とは、下に「真少なき」といふに応ず。
物語とは無性に興味がひかれるものである
【現代語訳】
ここからは、源氏の語った言葉であって、からかい半分に古い物語を悪くおっしゃっている。ここから始まって、紫式部の本心は、古い物語に託して『源氏物語』のことを批判するのである。肯定したり、否定したりして、最終的には『源氏物語』が重要である理由を述べている。順々に付した注釈を見なさい。
たくさんの物語の中にも真実は少ないだろうに、そうとは知りながら、このようなつまらない話にうつつをぬかし、だまされなさって、蒸し暑い五月雨の時期に、髪が乱れるのも気にしないで、お写しになることよ」と言って、お笑いになるけれども、
総じて物語というものは、事実でないことを創り上げたものであって、事実が書かれていることは、多くの物語の中でもきわめて珍しい。「すずろごと」とは、ただ何も考えずに、とりとめもなく書いた取るに足らないもの、という意味である。「かつ知る知る」とは、そうであるとうすうすと気づいていながら、騙される、ということである。「暑かはしきさみだれ髪」とは、この時期は五月雨の降る頃なので、暑苦しく乱れた髪と掛け言葉(さみだれ・乱れ)にしたのである。「知らで」は、気にせずにという意味である。「書き給ふ」は、絵入りの物語をを、書き写すことである。「笑ひ給ふ」という表現によって、源氏がからかい半分におっしゃっているということを理解しなければならない。
この部分で、紫式部の本心は、まず最初に、『源氏物語』は虚構の話をとりとめもなく書いたものだと言って、そのような書物に心ひかれて読むのは無意味であると悪く言う人の非難の気持ちである。ところが最後に「けれども」という(逆接の)言葉で論調を変えてている。この次の文章は、紫式部の真意である。
また「このような古い物語でなくては、本当にどうして気の紛らしようのない退屈さを慰めることができようか。
源氏は直前でいったんは悪くおっしゃったけれども、それは冗談である。本当にこのような昔の物語でなくては、退屈を慰めることができない、というのである。「げに」とは、物語を愛好する人を「本当に」と肯定しているのだ。「何をか」の「を」は、誤字であろう。言葉として意味をなしていない。「何にか」が正しいだろう。
紫式部の本心としては、なるほど『源氏物語』を非難する人の言う通り、物語というものは虚構であるが、まったく無意味だとはいいにくい、というのが答えである。
それにしても、この虚構の物語の中に、なるほどそうもあろうかと人情を見せ、もっともらしく書き綴ったのは、たわいもないこととは知りながらも、無性に興味をひかれて、
(物語とは)全体的には嘘だけれども、その中に、なるほどそうもあるだろうかと感じられるところがあるものだ。嘘ながらも、本当らしく書き連ねているのを読むと、無性に興味がひかれるものである。「いたづらに」というのは、現実に存在することに興味をひかれるのは、その甲斐があることなので「いたづら」ではないが、虚構の物語を読んで興味をひかれるのは、甲斐がなく「いたづら」だということだ。
【原文】
これより源氏の詞にて、すこしたはぶれがかりて古物語をいひ貶し給ふなり。さてこれよりして、式部が下心は、この『源氏の物語』のことを論難するなり。あるいは褒め、あるいは貶し、抑揚して、つひに捨てがたくいみじきいはれをのべたり。次第に注するを見よ。
ここらの中に真はいと少なからんを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられ給ひて、暑かはしきさみだれ髪の乱るるも知らで書き給ふよ」とて笑ひ給ふものから、
すべて物語は、なきことを作りたるものにて、実にありしことは多くの中にもまれまれなり。「すずろごと」とは、ただ何の心もなくすずろに書けるあさはかなるもの、となり。「かつ知る知る」は、さやうにはほのぼの知りながら、それにあざむかるる、となり。「暑かはしきさみだれ髪」とは、この時五月雨のころなれば、暑くろしく乱れたる髪にいひかけたるなり。「知らで」は、かまはずにといふ心なり。「書き給ふ」は、絵物語を書き写すなり。「笑ひ給ふ」といふにて、すこしたはぶれかかりてのたまふといふことを知るべし。
この一節、式部が下心は、まづ『源氏物語』を偽りのそぞろごとなりというて、かやうの書に心を移して見るは無益なりと破る人の難問の心なり。さて末に「ものから」といふ詞にて論を転じて、この次は答への心なり。
また「かかる世の古言ならでは、げに何をかまぎるることなきつれづれを慰めまし。
前にはいつたんいひ貶し給へども、それはたはぶれなり。いかにもかやうの古言ならでは、つれづれ慰むことなし、となり。「げに」とは、賞翫する人を「げに」と諾するなり。「何をか」の「を」文字は、誤りなるべし。語をなさず。「何にか」とあるべし。
下心は、いかにも難問のごとく偽りごとにてはあれども、一向に無益とはいひがたし、との答へなり。
さてもこの偽りどもの中に、げにさもあらんと哀れを見せ、つきづきしう続けたる、はたはかなしごとと知りながらいたづらに心動き、
全体は偽りなれども、その中に、げにさもあるべきことと見えて、感ずるところあるものなり。偽りながらも似つかはしくいひ続けたるところを見れば、またいたづらに心の動くものなり。「いたづらに」と云ふは、実に今あることに心を動かすは、その詮もあればいたづらならず、空言の物語を見て心を動かすは、詮なくいたづらなり。
源氏物語は勧善懲悪ではない
【現代語訳】
紫式部の本心としては、「なるほどそういうこともあろうかと人情を見せ」という部分が、『源氏物語』の核心だ。「もののあはれを知る」というのは、このことなのである。その「あはれ」を理解させるための『源氏物語』である(このこと、さらに後で述べる)。また、昔から『源氏物語』を勧善懲悪のため、特に異性との情事を訓戒するために書かれたものと言うのは、まったく間違いである。今ここで『源氏物語』を読んでみて、「無性に興味をひかれる」と書いてあるではないか。どうしてそれが訓戒になるだろうか(このことは、後で詳細に述べている)。
かわいらしい姫君が物思いに沈んでいるのを見ると、ちょっと心ひかれるものです。
どの物語にもありそうな場面だ。その姫君が物思いに耽っていることが語られ、または絵に描いたのを見れば、心がひかれる。「心つく」は、「心が動く」と同じような意味だ。「片心」とは、ひたすら真剣に心がひかれるわけではないが、何となく心がひかれるという意味である。
次の引用も、紫式部の本心が、異性との情事の訓戒ではない証拠である。
また、けっしてありそうにないことだと思いながらも、大げさに誇張して書いてあるところに目を見張る思いがして、落ち着いて再び聞く時には、憎らしく思うが、とっさには面白いところなどがきっとあるのでしょう。
【原文】
下心、「げにさもあらんと哀れを見せ」といふところが、『源氏物語』の緊要なり。物の哀れを知るといふは、ここのことなり。その哀れを知らさむための『源氏物語』なり(このこと、なほ奥にいふ)。また古来『源氏物語』を、勧善懲悪のため、ことには好色の戒めに書くといふは、大きにひがことなり。ここに物語を見て「いたづら
に心動く」とこそあれ。 いかでかそれが戒めになるべきぞ(なほこのこと、奥にくはしくいふべし)。
らうたげなる姫君の物思へる、見るに片心つくかし。
いづれの物語にもあるべきことなり。その姫君の物思へることをいひ、または絵に書けるを見れば、心つくなり。 「心つく」は、「心動く」も同じやうのことなり。「片心」とは、ひたぶるにまめやかに心つくにはあらず、何となく心につくといふなり。
下心、これまた好色の戒めにならぬ証。
またいとあるまじきことかなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ憎けれど、ふとをかしき節あらはなるなどもあるべし。
物語中の二種類のテーマ
【現代語訳】
これも物語の中にある一つの傾向である。前に解説した一種類は、「なるほどそういうこともあろうか」と思われることであり、もう一種類は、読んでみて「あるはずがないこと」と思われることである。(上記の引用文中で)「見る見る」と言ったり、「聞くたび」と言ったりしている。「見る」も「聞く」も同じことだ。表現を変えて書いただけのことである。自分で読むのも、人に読ませて聞くのも、同じことだ。大げさに誇張して、有り得ないようなことは、何度も何度も静かに読んだり聞いたりすると、飽きてくるものである。しかし、珍しく大げさなこともまたちょっとした楽しさであり、面白いもの、ということだ。この精神は、「帚木」の巻の雨夜の品定めにある、馬の頭が語った木工の道の匠・絵師・能書家の比喩にも合致している。
紫式部の本心として、『源氏物語』に書かれている事を二種類に分けて、その趣旨を述べてきた。一つ目は、「なるほどそうもあろう」と人情を感じることだ。その本当の意味は、無性に心がひかれたり、何となく心がひかれたりすることだ。それが本心というのは、どういうことかというと、人の心を感動させ、「もののあはれ」を理解させるという目的があるのだ。「もののあはれ」を知って感じるから、心が動き、心が惹かれるのだ。だから、(紫式部の本心は)教え戒めることとは少しも関わりがないことと理解しなければならない。そして次に、そんなことはありそうもないほどに大げさな事を書いたのは、本心というわけではないが、たまにはこれも一つの面白さということで書いたのだ。だからこそ、「落ち着いて再び聞く時には憎らしく思うけれど」と言っている。つまりは、ちょっとした楽しさというだけのことだ。それなのに、物事の本質を知らない馬鹿な人は、ただ不思議で珍しいことを書いた本ばかりを愛好して、穏やかで人情を感じることを好まないものである。『源氏物語』を読みなさい。大げさで目がさめるようなことは、非常にまれで、五十四巻の長い物語のうち、全体的に人情を感じることばかりが多い。
【原文】
これまた物語にある一種のことなり。前の一種は、「げにさもあらん」と思はるること、この一種は、見るに「あるまじきこと」と思はるることなり。「見る見る」といひ、「聞くたび」といふ。「見る」も「聞く」も同じことなり。文を変へて書けるまでなり。 みづから読みて見るも、人に読ませて聞くも、心は同じ。すべておどろおど ろしくあまり珍しきことは、いくたびもいくたびも静かに見聞く時は飽くものなり。しかれども珍しくおどろおどろしきこともまた一興にて、面白きもの、となり。この心は、帚木の巻の品定めにある、木の道の工・絵師・手跡などのたとへにもかなへり。
下心、『源氏物語』にある事どもを二種に分けて、その本意を述べたり。前には、げにさもあらんと哀れを見せたる事どもをいふ。その本意は、いたづらに心動き、片心つくといへるが本意なり。それを本意とはいかにといふに、人の心を感ぜしめ、物の哀れを知らするゆゑなり。物の哀れを知りて感ずるゆゑに心動き、心つくなり。されば教戒にはすこしもあづからぬことと知るべし。さて次に、さもあるまじくおどろおどろしき事どもを書けるは、本意といふにはあらねども、まれまれには一興に書けるなり。 ゆゑに「静かに聞くたびぞ憎けれど」といへり。畢竟は一興までなり。しかるを物の心も知らぬ愚かなる人は、ただあやしく珍しきことを書ける書をのみ好みて、なだらかに哀れを見せたることをば好まぬものなり。『源氏物語』を見よ。おどろおどろしく目さむるやうのことはいとたまさかにて、五十余帖長々しきうち、みなことごとく哀れを見せたることのみ多し。
物語は嘘なのか真実なのか
【現代語訳】
最近、幼い姫(明石の姫君)が女房などに時々読ませているのを立ち聞きすると、
絵入り物語というものは、第一にむなしい慰み物だから、女子どもの読むものであって、男が読むものではないので、このように「時々立ち聞けば」と、わざとおっしゃっているのである。本当はそうではない。
紫式部の本心としては、卑下の気持ちが込められている。
口のうまい者がいるらしいですね。嘘をつき馴れた者の口から言い出すのだろうと思われますが、そうではないのですか」と(源氏が)おっしゃると、
「あべき」とは、推測の意味をもつ言葉である。先述したように、嘘と知っていながら、「なるほど」と思って心が動き、また有り得ないことと思いながらも、初見には面白く感じられるように上手く書けるのは、世間には嘘をつきなれて、虚構を上手に言う人がいるからだ、と私は思うのだがどうだろうと、(源氏は)問いかけているのだ。
紫式部の本心としては、前に「それにしてもこの虚構の物語の中に」と(源氏に)言わせたのは、一時的に『源氏物語』を非難する人に同調しておいて、物語に書いてあることは全て嘘だということにしているのである。すべて嘘ではあるが、読む人が感動したり心ひかれたりすると言って、先述したように「退屈を慰める」といった真意をさらに詳しく述べている。ところで、ここで「口がうまい(後略)」と言っているのは、また非難である。すべて口先うまく言って嘘をつき慣れた人が言ったことであるから、読者は(だまされて)感動している、と非難している。
さて、(源氏の問いかけへの)答えについては、次の引用を隔てた後に述べている。
「おっしゃるとおり、嘘をつくことに慣れた人は、いろいろとそのように邪推するのでしょう。
(これは、源氏の問いに対する)玉鬘の君の返答である。これ(嘘をつくことに慣れた人)を源氏のことを指していると注釈するのは、間違いである。源氏のことを指しているのであれば、「そのように邪推なさるのでしょう」と書かれていなければならない。「侍らん」と(尊敬語でなく丁寧語で)書かれているので、これは単に一般的な人のことを指して言っているのだ。じっくりと言葉遣いを吟味するべきである。源氏は物語を嘘とのみおっしゃるが、いつも嘘をついていて、慣れている人は、その性癖から、他人が言うことも色々に疑って、嘘だろうと邪推するのだろう、ということである。
ただどうしても(物語は)真実のことと思われるのです」と言って、硯を押しやりなさるので、
源氏があまりにも物語の悪口をおっしゃるから、玉鬘の君は機嫌を悪くして、真面目になって、「私はすべて真実と思っています」と強い口調で言ったのである。「硯をおしやる」は、前に「五月雨の頃に乱れ髪が乱れるのもかまわずお写しになる」と書いてあったのに呼応している。玉鬘の君の、機嫌を悪くした様子である。
この部分(物語は真実である)は紫式部の本心ではない。ただし、「君子(嘘をつかない人格者)はだますことができる」と言うように、心がまっすぐな人は、嘘も真実と思うものである。人の言うことを嘘とのみ思うのは、悪い知恵である。特に『源氏物語』を読む人は、「これは全て嘘だ」と思って読むと、感動が浅く、心が動かされない。であれば、すべて真実と思って読みなさいという意味もあるだろう。
「失礼にもけなしてしまいましたね。神代から世の中にあることを、書き記したものだそうだ。『日本紀』などは、ほんの一面にしか過ぎません。物語にこそ道理にかなった詳細な事柄が書いてあるのでしょう」と言って、お笑いになる。
源氏の君の言葉である。玉鬘が不機嫌になって、「(物語は)真実のことと思われるのです」とおっしゃったので、からかい半分に、弁明をされているのだ。「私は無作法に大切な物語のことを悪く言ってしまったことだ。確かにあなたがおっしゃるように、すべて真実でございます。物語はすべて神話の時代から世間に起きたことを記録したものだ。『日本書紀』などはただ真実の一部分だけに過ぎない。物語にこそ道理に関することの、詳細な記述があるはずなのだ」と、わざと冗談でおっしゃっているのである。
紫式部の本心として、この引用部分は、前の(源氏の問いかけに対する)答えではない。答えは、この次の文章である。この部分は、問いと答えの間にはさんで、別の気持ちを述べている。別の気持ちとは何か。『源氏物語』を良いようにばかり言いこしらえると、他人が聞いて、「そうすると、『源氏物語』は神代からのことを記録して、学問的に詳しく『日本書紀』よりも優れたものと思って書いたのか」と嘲笑されるかも知れない。紫式部はそのように想像して、非難から逃れようと先手をうって、このように言ったのだ。
【原文】
このごろ幼き人の、女房などに時々読まするを立ち聞けば、
絵物語といふもの、まづははかなき翫び物なれば、児女子の読むものにして、男などの見るものにはあらぬゆゑに、かやうに「時々立ち聞けば」といひなし給ふなり。実はさにあらず。
下心、卑下の心あり。
ものよくいふ者の世にあべきかな。空言をよくしなれたる口つきよりぞいひ出だすらんと覚ゆれど、さしもあらじや」とのたまへば、
「あべき」とは、推量りていへる詞なり。右のごとくに、空言とは知りながらげにと思ひて心動き、またあるまじきこととは思ひながらも、いつたんはをかしく思はるるやうに書きなすは、世には空言をしなれて巧みに偽りをよくいふ者のあるにこそ、と思ふはいかにと、問ひかけたるなり。
下心、前に「さてもこの偽りどもの中に」といへるは、しばらく難問せる人にしたがひて、みな偽りにしていへるなり。みな偽りながら、見る人も感じて心を動かしなどすると答へて、前の「つれづれを慰む」といへる答への心をなほ広くのべたり。さてここに「ものよくいひ云々」といへるは、また難問なり。それはみなものよく いうて空言しなれたる者のいふゆゑに、人の感ずる、と難じたり。
さてまたこの答へは次の一節をへだてて下にのべたり。
「げに偽りなれたる人や、さまざまにさも汲み侍らん。
玉鬘の君の返答なり。これを源氏のことを指していへると注せるは、誤りなり。源氏のことならば、「さも汲み給ふらん」とあるべし。「侍らん」とあれば、これはただすべての人のことにていへるなり。よくよく詞づかひを味ふべし。物語を偽りとのみのたまふが、いかにも常に己が偽りをいひなれたる人は、その心ならひに、人のいへ
ることをもさまざまに疑ひて、偽りならんと推量るべきことなり、となり。
ただいと真のこととこそ思ひ給へられけれ」とて硯をおしやり給へば、
源氏のあまりに物語をいひ貶し給ふをむつかり、まめだちて、「われらはみな真と思ひ侍る」と、いひはげましたるなり。 「硯をおしやる」は、前に「さみだれ髪の乱るるも知らで書き給ふ」といへる首尾なり。むつかりたる体なり。
下心なし。ただし「君子はあざむくべし」といへるやうに、心の素直なる人は偽りをも真と思ふものなり。人の言を偽りとのみ思ふは邪智なり。ことに『源氏物語』を見ん人、これはみな空言ぞと思ひて見る時は、感ずること浅く、哀れも深からず。されば、みな真のことと思ひて見よといふ心もあるべし。
「こちなくも聞え落してけるかな。神代より世にあることを記しおきけるななり。『日本紀』などはただ片そばぞかし。これらにこそ道々しくくはしきことはあらめ」とて、笑ひ給ふ。
源氏の君の詞なり。玉鬘のむつかりて「真のことと思ひ侍る」とのたまへるゆゑに、たはぶれて、理りをのたまふなり。「われは無骨に大切なる物語を申しくたしたるかな。いかにもそこの仰せらるるごとく、みな真にて候。物語どもはみな神代より世間にあることを記せしものなるべし。『日本紀』などはただ片端ばかりにてこそあらめ。この物語どもにこそは道のこと、くはしきことはあるべけれ」と、わざとたはぶれてのたまふなり。
下心、この一節は前の答へにはあらず。前の答へはこの次の文なり。ここは一段、問答の間にはさみて、他の心をのべたり。他の心とは、紫式部が心に、『源氏物語』をよきやうにのみいひなさば、人の聞きて、さては神世よりのことを記して、道々しくくはしく、『日本紀』にもまされるもののやうに思ひて作れるかと、嘲けられんことを汲みはかりて、その難をのがれんためにかくいへるなり。
源氏、紫式部の本心を代弁する
【現代語訳】
「(物語は)誰それの話といって、事実どおりに語ることはありません。善いことも悪いことも、この世に生きている人のことで、見飽きず、聞き流せないことを、後世に語り伝えたい事どもを、心の中にしまっておくことができず、語り伝え初めたものだ。
この記述の前に、源氏が古い物語のことを悪くおっしゃったのは、本心ではない。玉鬘の君があまりにも絵物語に熱中して、書き写したり読んだりなさるのを見て、あえて反発して、本心からでなく、物語を悪くおっしゃったのである。(源氏の物語観は)本当は、そうではない。ゆえに、ここにきて本当の意見をお話しになられる。ここからの批評が、源氏が物語に対してお考えになっていることなのだ。
「誰それの話といって(略)」。総じて物語というものは、まったく事実ではないものもあり、また古歌をもとにして物語を作ったものもあり、また現実にあったことを誰のことと名前を明らかにせずに書いたものもあり、また痕跡のあることを素材として、それに作り加えたものもあり、また現実にあったことをそのまま書いたものもある。その中で、多くは創り上げたものが多いけれど、ここは紫式部の意向があって書かれているので、このように言っているのだ。「善いことも悪いことも」。これには解釈の仕方がある。後で詳細に注釈する。「見るにもあかず」は、見てそのままで放って置きにくいと思われることである。「聞くにもあまる」は、聞いて放って置くことができないということである。「後の世にも(略)」。見たり聞いたりして、そのままにしておくことができず、後世に伝えたいと思うことは、心の中だけにしまっておくわけにはいかない。物語とは、そういう理由で語り始めたものである。
『源氏物語』の文脈に即していえば、これより前は、源氏は意図的に玉鬘の君に反発したことを言って、物語の悪口をおっしゃっていた。そして、「誰それの話といって」という部分からが、源氏の本当の意見である。ところで、紫式部の本心は最初から真面目に論じていた。表面的にはふざけている部分も、本心は真面目であって、非難したり擁護したりしながら、「誰それの話といって」という部分からはすぐに自分の考えを述べ、『源氏物語』を書いた気持ちを表明している。前に「なるほどそうもあろうと人情を見せ」などと述べたところは、『源氏物語』の読者の立場に立っての気持ちであり、これ以降の文章は、『源氏物語』の作者としての気持ちである。
ところで、前に「嘘を言い慣れた口から」と言ったのは、非難の気持ちからである。その答えは、ここで述べられている。「確かに嘘ではあるが、この世の中にまったく痕跡のないことではない。すべてこの世に存在することである。誰のことだと名指しで、ありのままに言っているわけではないが、すべてこの世に存在することだ。善いこと悪いことで見逃せず、聞き逃せないこと、後世まで伝えたいと思うことを、心の中にとじこめておけないので、創作物語に託してその事柄を書いたのだ」ということである。以上のような理由で、「嘘だけれど嘘ではない」と理解しなさい、ということである。
ところで、この部分(善いこと悪いこと)を、勧善懲悪だと誰でも思うけれど、それは浅い理解であって、紫式部の本心ではない。
【原文】
「その人の上とて、ありのままにいひ出ることこそなけれ、よきも悪しきも、世にふる人の有様の、見るにもあかず、聞くにもあまることを、後の世にもいひ伝へさせまほしき節々を、心にとめがたくていひおき始めたるなり。
これより前に源氏の古物語のことをいひ貶し給ふは、実の心にあらず。玉鬘の君のあまりにこのことに精を入れて書き読み給ふを見て、わざとさからひて、偽りて悪しくいひなし給ふなり。実はさにあらず。ゆゑにここに至りて真の評をいひ出だし給ふ。これよりが、物語のことを源氏の思し召すままの評なり。
「その人の上とて云々」。すべて物語は、一向になきことを作りたるもあり、また古歌によりてそのことを作りたるもあり、また現にありしことを、その人と名をあらはさずして書けるもあり、またかたのあることをとりて、それに作り添へたるもあり、また現にありしことをそのまま書けるもあり。その中に、多くは作りたるが多けれど、ここは紫式部の下心ありて書けるゆゑにかくいへり。「よきも悪しきも」。これには見やうあり。下にくはしく注す。 「見るにもあかず」は、見てそのままにさしおきがたく思はるるなり。「聞くにもあまる」は、聞きてさしおくにあまりあるなり。 「後の世にも云々」。見聞くことのそのままに過ぐしがたく、後の世にも伝へまほしく思ふことの、心のうちにのみ思ひてはやみがたきなり。それゆゑにいひ始めたる物語どもなり。
物語の表は、これより以前は源氏のわざと玉鬘の君にさからひて、物語を悪しきやうにものたまひて、さて「その人の上とて」といふよりが源氏の君の真の了簡なり。さて紫式部の下心は始めより実の論にして、表はたはむれたるところも下心は実の論にて、さまざま難陳抑揚して、さて「その人の上とて」といふよりは、直ちに自己の説を述べ、『源氏物語』作れる趣意をあらはしたり。前に「げにさもあらんと哀れを見せ」などいへるところは、この物語を読む人の心ばへ、ここより下の文は、作れる趣意なり。
さて前に「空言をよくしなれたる口つきよりぞ」といへるは、難問の心なり。その答へはすなはちここなり。「いかにも空言にてはあれども、この世に一向かたなきことにはあらず。みな世にあることなり。その人のことと正しく名を指して、ありのままにこそいはね、みな世にあることにて、よきこと悪しきことの目にあまり耳に
あまること、後世までもいひ伝へまほしく思ふが、心のうちにくたしがたきによりて、作り物語に託してそのことどもを書けるぞ」となり。しかれば空言ながら空言にあらずと知るべし、となり。
さてこのところを勧善懲悪と人ごとに思ふなれど、それは浅々しき見やうにて、紫式部の本意にあらず。
「もののあはれ」を知る心から物語を書く
【現代語訳】
例をあげて紫式部の本心を説明すると、今、ある人が、世間に例のない珍しくて不思議なことを見たような場合に、自分の心の中にだけ「不思議なことだなあ、珍しいことだなあ」と思ってばかりはいられないものである。そのようなことを見たり聞いたりしたら、他人に話して聞かせたくなるものだ。この心理をもって理解しなさい。他人に話したとしても、自分にも他人にも何の利益もなく、心の中にとじこめたとしても、何も悪いことはないだろうけれど、これは珍しいと思い、これは恐ろしいと思い、悲しいと思い、面白いと思い、嬉しいと思うことは、自分の心にだけ閉じ込めてはいられないので、必ず人々に語って聞かせたくなるものなのだ。世間に存在するすべての見るもの、聞くものに対して、感動して、「これは」と思うことは、みなそうである。詩歌の生まれてくるのも、人の、このような心理からである。
ところで、その見るもの聞くものに対して心が動いて、珍しい、不思議だ、面白い、恐ろしい、悲しい、しみじみとすると、心の中で思ってばかりはいられないので、他人に語って聞かせるのだ。語るのも書くのも同じことである。その見たり聞いたりしたものに、しみじみと感じたり、悲しいと思ったりすることが、心が動くということだ。その心が動くことが、「もののあはれを知る」というものである。であれば、『源氏物語』の趣旨とは、「もののあはれを知る」の他にはない。作者は、「もののあはれ」を感じて『源氏物語』を書き始めたのだ。「見飽きず、聞き流せない」事がらを書くことによって、読者にも、「もののあはれ」を伝えたいという意図を、この部分から理解しなさい。
【原文】
たとへをあげてこの心をいはば、今、人、世にためしなき珍しきあやしきことを見たらんに、わが心の内にのみ「あやしきことかな、珍しきことかな」と思うてばかりはゐられぬものなり。さやうのことを見聞けば、人に語りて聞かせまほしきものなり。これをもて悟るべし。人に語りたりとて我にも人にも何の益もなく、心の内にこめたりとて何の悪しきこともあるまじけれども、これは珍しと思ひ、これは恐ろしと思ひ、悲しと思ひ、 をかしと思ひ、うれしと思ふことは、心にばかり思うてはやみがたきものにて、必ず人々に語り聞かせまほしきものなり。世にあらゆる見るもの聞くものにつけて、心の動きて、これはと思ふことは、みな然り。 詩歌の出で来るものところなり。
さてその見るもの聞くものにつけて、心の動きて、珍しとも、あやしとも、面白しとも、恐ろしとも、悲しとも、哀れなりとも見たり聞きたりすることの、心にしか思うてばかりはゐられずして、人に語り聞かするなり。語るも物に書くも同じことなり。さてその見るもの聞くものにつきて哀れなりとも悲しとも思ふが、心の動くな
り。その心の動くが、すなはち「物の哀れを知る」といふものなり。さればこの物語、物の哀れを知るより外なし。作者の本意が物の哀れより書き出でたるものなれば、「その見るにもあかず、聞くにもあまる」事どもを書きて、それを読まん人にも物の哀れを知らさむためといふこと、このところの文にて悟るべし。
「善き悪しき」の解釈の仕方-勧善懲悪の否定
【現代語訳】
ところで、「善いことも悪いことも」と書いてあることで、やはり勧善懲悪の意味があると思う人がいるが、この「善い悪い」には解釈の仕方がある。後で詳しく注釈する。
ある人が言うことには、「ここの文章を読めば、『源氏物語』の中に書いてあることは、すべて紫式部の身近で、その時代に見たり聞いたりしたことを、その人の名前を隠して書いたものだ」と。今、考えると、この意見は、文章のうわべにとらわれた、片寄った見方である。たとえ一つも見たり聞いたりしたことがなくても、見たり聞いたりした気持ちになって書くことは、少しも不都合ではない。また、『源氏物語』全体のうち、一つも嘘でなく、すべてが世の中に実際にあったことだとしたら、似たようなことはこの世にいくらでもあるだろうから、それを見たり聞いたりして書いたこともあるだろう。「見飽きず、聞き流せない」と言ったのは、実際にはそうでなくても、そういう気持ちで書いたものと理解しなさい。たとえば、今歌を詠むとすると、実際に今見聞きすることでなくても、その気持ちになって詠むのと同じだ。
善いように言おうとするあまりに、善いことばかりを選び出して、
「よきことの限り」とは、善いことをある限り全てという意味である。「選り出で」とは、善いことばかりを選び出してという意味である。創作物語なので、善いように言おうとして、ある一人に関する記述にも善いことばかりを選び出して言う、ということである。
紫式部の本心としては、このこと(善いことを選び出している)は、読者に深く感じさせるためである。「感じる」とは、世間で普通に言うのは、一つの意味だけを理解しているが、すべて見ること聞くことに対して、面白い、興味深い、恐ろしい、珍しい、憎い、愛おしい、可哀想だと思って心が動くのは、すべて「感じる」である。そして、その物事について、善いことは善い、悪いことは悪い、悲しいことは悲しい、可哀想なことは可哀想と思って、物事の風情を知ることを、「もののあはれを知る」と言い、「物の心を知る」と言い、「事の心を知る」と言うのである。そうであれば、『源氏物語』はその「もののあはれ」を知らせる目的なので、善い悪いを強調して言っているのだ。
読者におもねろうとしては、
紫式部の本心として、ここは「悪いように言おうとして」と言うべきところを、このように言うのは、面白い。紫式部が考えた上での表現である。人の悪い行為を列挙して非難することほど、煩わしいものはない。ゆえに、他人を悪く言おうというわけではないけれど、世間の人が悪いと思っていることを、その判断の通りに悪いこととしている。これは仕方なく悪いことだと判断する気持ちである。このように、世間が悪いと判断する通りに言おうとして、ということである。古い注釈は間違っている。
また悪いことでありそうにもないことを書き連ねているのは、
紫式部の本心として、「ありそうもないこと」と言っているのは、また面白い。前に「善いことを選び出して」と言っている一方で、言葉を変えているだけではなく「ありそうもないこと」と言っているのは、意味のあることだ。ある人の悪い行為を選び出して、書き連ねて、非難するわけでもなく、また、悪い行為を書き記すことで、読者の訓戒や心構えにしようというわけでもない。ただ世にも珍しいことを書き集めて、読者の軽い娯楽として提供し、珍しがらせる目的である。近江の君のような人物が一例であろう。これは紫式部の熟慮の上の表現であり、他人を非難することを非常に恥ずかしく思う心がけは、尊いことである。外国の書物とは心がけの違っているところに注意しなさい。また、むやみに訓戒の方向へ論調を持って行って解釈することは、作者の意図と違っていることを理解しなさい。
皆それぞれのことで、この世の他のことではないのですよ。
紫式部の本心として、創作物語は作り上げたものとは言いながら、すべて世間に存在すること、ということである。それを善いこと、悪いことと強調してわざと言っているのは、前述した通り、読者を深く感動させるためである。「それぞれ」とは「善い方・悪い方」という意味である。
【原文】
さて「よきも悪しきも」といへるによりて、なほ勧善懲悪の心と思ふ人あるべけれど、この「よき悪しき」は見やうあり。奥にくはしく注す。
あるひと云はく、「ここの文を見れば、『源氏物語』一部のうちにあること、みな式部が間近く当代に見ること聞くことを、名を隠して書けるなり」と。今按するに、この説は文面になづめる一偏の僻見なり。たとひ一事も見聞きたることはなくとも、見聞きたる心になぞらへて書かむこと、すこしも妨げなし。また一部のうち、一つも虚誕なることはなく、みなことごとく世間に常にあることなれば、似たることの世にいくらもあるべければ、それを見聞きて書けることもあるべし。「見るにもあかず、聞くにもあまる」といへるは、 現にさらずとも、その心にて書けるものと知るべし。たとへば今歌よむに、現に今見聞かぬこともその心になりてよむに同じ。
よきさまにいふとては、よきことの限りを選り出で、
「よきことの限り」とは、よきことのありたけといふことなり。「選り出で」とは、よきことばかりを選り出でていふなり。作り物語なれば、よくいはむとては一人の上にもよきことばかりを選り出でていふ、となり。
下心、これ、読む人をして深く感ぜしめんためなり。感ずるとは、俗にいふ意は一偏につきて心得れども、すべて見ること聞くことにつきて、面白しとも、をかしとも、恐ろしとも、珍しとも、憎しとも、いとほしとも、哀れとも思ひて心の動くは、みな感ずるなり。 さてその物事につきて、よきことはよし、悪しきことは悪しし、悲しきことは悲し、哀れなることは哀れと思ひて、その物事の味ひを知るを、物の哀れを知るといひ、物の心を知るといひ、事の心を知るといふ。さればこの物語はそれを知らさむためなれば、よき悪しきことを強くいへるなり。
人にしたがはむとては、
下心、ここは「悪しきさまにいふとては」といふべきところを、かくいへること、面白し。紫式部、用捨の詞なり。 すべて人の悪しきことをいひ立ててそしるほど、うるさきはなし。ゆゑに人を悪しくいはんとにはあらねども、世間の人の悪ししと定むるをば、その人の定めにしたがひて悪ししとする、これやむことをえず悪ししと する心なり。かくのごとく、世の人の悪ししと定むるままにしたがひていはむとては、となり。古注、誤れり。
また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、
下心、「珍しきこと」といへる、また面白し。前の「よきことを選り出で」といへるその裏にて、詞を変へたるばかりにあらず、「珍しきこと」といへるは、心あることなり。人の上の悪しきことを選り出で、 いひ連ねて、そしるにもあらず、また悪しきことを書き記して、読む人の戒め・心得にせむとにもあらず。 ただ世に珍しきことを書き集めて、読む人の一興にそなへ、珍しがらしめむためとなり。近江の君のたぐひをいふべし。これ紫式部用捨の詞にして、人をそしることを深く恥ぢたる心ばせ、ありがたし。人の国の書と心ばへの変れるところを見るべし。またみだりに教戒の方へ引き入れて釈すること、作者の本意にあらざることを知るべし。
みな方々につけて、この世の外のことならずかし。
下心、作り物語にて、かたなきこととはいひながら、みな世の中にあること、となり。それをよきも悪しきをも強く大きいひなしたるは、前にいふごとく、見る人をして深く感ぜしめむためなり。「方々」は、「よき方・悪しき方」なり。
外国の書物と日本の物語の違い
【現代語訳】
異朝では、才も、(書物の)作り方も変わっているが、
「みかど」は、朝廷(国家)のことだ。(「人のみかど」とは)外国の朝廷という意味である。「才」は、人の才気と知恵である。「作りやう」は、書物の作り方である。「(外国の書物は)才能がある人が作った」と解釈するのは、文章の意味に即していない。これは、才が異なっているのと、書物の作り方が異なっているのと、二つを連ねて言っているのだ。「変わっている」を(才と作り方)二つにかけて理解しなければならない。「才が変わっている」とは、外国の人と我が国の人とは、才智の勝ち負けの基準が異なっている、という意味である。または、学問の仕方が異なっているはずだという意味だろうか。
そして、「(書物の)作り方が変わっている」とは、外国の書物と日本の物語は、その内容が雲泥の差であり、まったく違っているということだ。まず外国の書物は、何の本であっても、とにかく人の善悪を厳しく論じ、物事の筋道を分別ありげに言い、誰もが自分だけが賢そうに論じている。趣きのある漢詩文でも、とにかく我が国の和歌とは違って、人情を表現せず、なんとなく利口ぶっているように見える。我が国の物語は、どことなく頼りなくて、とりとめがなく、少しも利口ぶって賢そうなところはなく、ともすれば人情をありのままに、細やかに書き連ねている。
総じて人の心というものは、実際には、どんな人でも愚かしく、未練がましいものである。その気持ちを隠すからこそ賢そうに見えるが、本心を探ってみれば、誰もが女子どものように頼りないものである。外国の書物は、そういった人情を隠して、表向き、見せかけの賢そうなところを書き表しているが、日本の物語は、人の本当の気持ちをありのままに書いているので、頼りなく愚かしく見えるのである。これは、外国と日本の書物の作り方が異なっているからである。外国の書を基準として、日本の物語をあれこれ評価するのは、作者の意図に合致しないということを、次の一文をもってしても理解しなさい。
同じ日本の国のことだけれど、昔と今との相違があるだろう。
「ことなれば」とある伝本は使用してはいけない。「ば」では助詞が適合しない。書き写しの間違いである。それを知らずに「ば」の伝本を使用するのは、言うまでもなく不要なことである。中国の書物が(日本の書物と)違っているだけでなく、同じ日本の書物といっても、昔と今とで書物の作り方が違う、ということである。「あるだろう」と(推測で)言っているのは、昔と今とで相違があることは誰もが知っていることであるが、その理由について、時代の変化によるのだろうと推定したからである。ところで、我が国の昔の書物とは、前にも述べた通り『日本書紀』のような六国史である。これらは全て漢文であり、外国の書物の真似をして書いたものなので、物語とは異なっている。「今の」というのが物語の類である。昔の物語を「今」と称するのはなぜかというと、あの『日本書紀』などと比較すると近い時代のものだから、「今」と言うのである。作者の意図としては、「今書いている『源氏物語』」のことを指している。
深いことと浅いこととの違いこそあるが、
「深いこと」は、「深い言葉」のことで、外国の書物または『日本書紀』のような歴史書のことである。「浅いこと」は、物語の類である。「深い」は、書物の作り方や文章の美しさが技巧的で、よく配慮ができていることを言う。「浅い」は、仮名を用いて何となくとりとめもなく書いたものを言う。「深い・浅い」と言わずに、「こと」(=言葉)と言っているところに、注意しなければならない。(内容が深い・浅いと言っているのではなく、用語だけである)
一方的に嘘の話だと言い切ってしまうのも、考え違いである。
文章・言葉の浅い深いの差はあるが、心は浅い深いの違いがあるわけではないので、一方的に作り話だといって無視するのも違う、ということである。「心の浅い深いはあるはずがない」とは文章の表面には見えないけれど、「違いこそあるが」という言葉の強さにより、その意味を言外に含んでいることが理解できる。「事の心違ふ」とは、世間一般に「考え違いだ」というような意味である。
このくだりまでは、前に(源氏が物語を)「嘘」だといって非難したことの答えであるので、終わりにこのように言って結びとしたのである。
さて、この次からは、(物語が)嘘だとしても、読む価値がないとして無視するのは考え違いであるという証拠として、その例をあげている。
【原文】
人のみかどの才・作りやう変れる、
「みかど」は、朝なり。異朝といふことなり。「才」は、人の才智なり。「作りやう」は、書物の作りやうなり。「才ある人の作れる」と見るは、文義にかなはず。これは、才の変れると、作りやうの変れると、二つを重ねていへるなり。「変れる」を二つへかけて見るべし。「才の変れる」とは、異朝の人とわが国の人とは才の勝負異なるをいふ。または学問のしやうの異なるべきをいふか。
さて「作りやうの変れる」は、異朝の書籍とここの物語などと、その趣き雲泥にしてさらに同じからざるなり。まづ異国の書は、 何の書も、とかく人の善悪をきびしく論弁して、物の道理をさかしくいひ、人ごとに我賢こにいひなし、風雅の詩文に至りても、とかくわが国の歌とは違ひて人の情をばあらはさず、何となくさかしく賢こげに見ゆるなり。わが国の物語は、物はかなくしどけなげにて、 すこしもさかしだち賢こげなることはなく、とかくに人の情のありのままをこまかに書き出だせり。
すべて人の心といふものは、実情は、いかなる人にても愚かに未練なるものなり。それを隠せばこそ賢こげには見ゆれ、真の心の内をさぐり見れば、誰も誰も児女子のごとくはかなきものなり。異朝の書は、それを隠して、表向き・うはべの賢こげなるところを書きあらはし、ここの物語は、その心の内の真をありのままにいへるゆゑに、はかなくつたなく見ゆるなり。これ人の国とわが国の作りやう変れるなり。異国の書をもてこの物語をとかく論ずるは、作者の本意にかなはぬといふこと、この一言をもても悟るべし。
同じ大和の国のことなれど、昔今のに変るなるべし。
「ことなれば」とある本は用ゆべからず。「ば」にては、「てにをは」かなはず。伝写の誤りなり。それを知らで「ば」を用ゆるは、 いふにたらぬことなり。唐の書の変れるのみならず、同じこの国の書といへども、昔と今との書に作りやう変れる、となり。「なるべし」 といへるは、その変れることは人みな知りたることなるが、そのいはれは昔と今との変りなるべし、となり。さてこの国の昔の書といふは、前にもいへる『日本紀』のたぐひなり。 これらはまたく漢文にて、異国の書を学びて書けるものなれば、物語とは変れるなり。「今の」といふが物語のたぐひなり。古物語を「今」といふはいかにといふに、かの『日本紀』などにくらぶれば近き世のものなれば、「今」といふなり。下心は、「今作る『源氏物語』」なり。
深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、
「深きこと」は、「深き詞」にて、異国の書物または『日本紀』のたぐひの書なり。「浅きこと」は、物語のたぐひなり。「深き」は、作りやう、文章の華麗、巧みにして、心を用いたるをいふ。「浅き」は、女文字にて何となくしどけなく書けるをいふ。「深き・浅き」といはずして、「こと」といへるに、心をつくべし。
ひたぶるに空言といひ果てむも、事の心違ひてなんありける。
文章・詞の浅深こそあるべけれ、心は深き浅きのけぢめあるべからざれば、一向に空言なりとて棄てんも相違なり、となり。「心の浅深はあるべからぬ」といふことは見えねども、「けぢめこそあらめ」といへる語勢にて、その心を言外に含めること知られたり。 「事の心違ふ」とは、俗に「心得違ひなり」といふほどのことなり。
下心、これまでは、前に「空言」とて難じたる、その答へなるゆゑに、終りにかくいひて結びたるなり。
さてこの次は、空言とても、見るにたらずとて棄て果つるは心得違ひなりといふ証拠に、その例をいふなり。
物語は仏典の方便と同じ
【現代語訳】
仏が、まことに立派なお心で説きおかれた御法文も、
「うるはしき」は、厳粛で正しいことである。(物語は)嘘だと一方的に無視することが間違いだと伝えるために、具体的な例を出そうとして、「うるはしき」という言葉を添えたのだ。その理由は、「仏様が正しい心からお説きになった経文なので、嘘などはあるはずがないが、その正しい心をもってお説きになった経文にさえ『方便』が使われている。まして未熟な者は、事につけては、どうして方便として作り話を言わないでいられよう」ということである。
ところで、同じようなものではあるが、方便と嘘とは少し意味が違う。言って悪いことは、嘘という。(仏教用語で)妄語である。言って意味のあることは、方便という。であるから、前に「嘘の話だと言い切ってしまうのも」と書いてあるのは、『源氏物語』をわざと悪く言う言葉である。その回答として、「これは嘘というような類ではない。世の中にとって意味のある(もののあはれを知らせる)ものなので、仏教の方便と同じである」ということを理解させるために、方便のことをここに具体的な例としてあげているのだ。
方便ということがあって、分からない者は、あちこちで矛盾しているという疑問を持つだろう。
「方便」の目的を理解する知恵のない人は、疑うだろう、という意味である。「ここかしこ違ふ」とは、ここにお説きになっていることと、あそこにお説きになっていることとが、違っていて矛盾しているということだ。
『方等経』の中に多いが、
方便は全ての経典に見られるが、この方等部の経の中に格別にあちらこちらと矛盾しているところが多い。
詮じつめていくと、同一の趣旨に落ち着いて、
あちらこちらと矛盾しているが、最終の趣旨は同一の教えに帰着するのである。例えば、弓を射る人が、立っている場所が違っても一つの的に当たるようなものだ。また、海路を行くのも陸路を行くのも、経路は違うが行き着くところは同じのようなものだ。
菩提と煩悩との相違とは、
「同一の趣旨」が指すのは、つまりこの菩提(悟り)と煩悩(迷い)のことである。仏法では本来の教えと方便とをさまざまにお説きになって、あちらこちらに矛盾しているところもある。しかし、最終の趣旨は、菩提と煩悩との間の人間界のことを色々とお説きになる、その同一の教えに帰着しており、この他にはない。「仏が」という箇所から、ここまでは比喩である。
この、善人と悪人との相違程度に過ぎません。
「この」とは、「あの」というのと同じだ。前述した、物語の中の「人の善い悪い」のことである。仏典を比喩に用いた説明を、ここで物語にひき合わせている。まず前述した漢文の書籍は、仏法でいう本来の教えのようなものである。和歌や物語は、方便のようなものだ。その漢文の書籍と和歌・物語とが、話の作り方が違っていて、趣きが異なっているのを見て、物語は偽りだと言って信用しないのは、あの「(仏教の方便が)あちこちで矛盾しているという疑問」を抱くようなもので、本質を理解できない人である。漢文の書籍も和歌・物語も、最終の趣旨が同一であることは、仏典の趣旨がただ一つであるのと同じだ。ところで、その漢文の書籍も和歌・物語も趣旨が一つとはどういうことかというと、人の善い悪いの相違を読者に教えて理解させようと思う意図は、漢文の書籍も和歌・物語も同じであり、違いはないということだ。仏法で菩提と煩悩との間の人間界をお説きになる以外にないのと同じ、ということである。
紫式部の本心としても、表面的な意味通りである。
ある人物が問うことには、漢文の書籍も物語の最終的な趣旨は同じであり、人の善い悪いの相違を、読者に教え理解させるためと言うのならば、物語には勧善懲悪の意図があるのではないか。
答えとして言うのは、善い悪いが指し示すことは、漢文の書籍と物語とで違う。物語が善いとするのは、「もののあはれ」を知る人である。悪いとするのは、「もののあはれ」を知らない人である(このことは、詳しく後で解説する)。であれば、漢文の書籍の指す(善い悪い)はこれとは異なる。だけれども、その善い悪いの相違を読者に教え理解させようとする意図は違いがないので「最終的な趣旨は同じ」と言うのである。よくよく考えなければならない。
※1 方便:仏が人々を真実に導くために、仮に設けた教え。
【原文】
仏の、いとうるはしき心にて説きおき給へる御法も、
「うるはしき」は、きつとして正しきことなり。空言なりとてひたぶるに棄つることの誤りをいはんとて、証例に出だせるゆゑに、「うるはしき」といふ詞をそへたり。そのゆゑは、仏の正しき御心より説き給ふ御法なれば、空言などはあるまじきことなれども、その正しき心もて説き給ふ御法にさへ「方便」のあれば、まして凡夫は、事に触れては、などかは方便にはなきこともいはざらん、とな
り。
さて同じことながら、方便といふと空言といふとはすこし意味変るべし。いひて悪しきことには、空言といふ。妄語なり。 いひて益あることには、方便といふ。されば前に「空言といひ果てんも」とあるは、この物語を悪しくいひなす詞なり。それに答へて、これは空言といふべきたぐひにはあらず、世に益あらん(物の哀れを知らしむ) ためなれば、仏の方便といふことと同じ心なり、といふことを知らさんために、仏の方便のことをここにあげて証例とせるなり。
方便といふことありて、悟りなき者は、ここかしこ違ふ疑ひを置きつべくなん。
「方便」の本意を悟る智恵のなき者は、疑はん、となり。「ここかしこ違ふ」とは、ここに説き給ふこととかしこに説き給ふことと、くひ違ひて相違するなり。
方等経の中に多かれど、
方便は諸経ともにあれども、この方等部の経の中に別してここかしこくひ違ふことの多きなり。
いひもてゆけば一致に当りて、
ここかしこ違ふやうなれども、畢竟の極意は一つ所へ落つるなり。たとへば、弓射る人の、立てるところは異なれども一つ的へ当るがごとく、海より行くも陸より行くも、道は変れど落ちつくところは一つなるがごとし。
菩提と煩悩とのへだたりなん、
「一致」と指すところは、すなはちこの菩提と煩悩となり。仏の御法は実説と方便とさまざまに説き給ひて、ここかしこ違ふやうのこともあれど、畢竟の極意をいへば、菩提と煩悩とのへだたる間の事を説き給ふ一致に当りて、この外なし。「仏の」といふよりこれまでは、譬へなり。
この、人のよき悪しきばかりのことは変りける。
「この」とは、「かの」といはんがごとし。かの上にいへる物語の中の「人のよき悪しき」なり。仏経の譬へをここにて物語へ引き合せたり。まづ上にいへる漢文の書籍は、仏の御法の中にも実説のごとし。歌・物語は方便のごとし。その漢文の書と歌・物語と、作りやう変り、心ばへの異なるを見て、物語は空言なりとて信ぜぬは、かの「ここかしこ違ふ疑ひ」を置くがごとく、悟りなき人なり。 漢文の書も歌・物語も畢竟の極意は一致なること、仏の御法の一致に当るがごとし。さてその漢文の書も歌・物語も一致とはいかにといふに、人のよき悪しき、その分ちを人に示し知らさんと思ふ本意は、漢文の書も歌・物語も一致にして異なることなきこと、仏の御法も菩提と煩悩との間を説き給ふより外はなきがごとし、となり。
下心も表の意に同じ。
あるひと問ひて云はく、漢文の書も物語も、畢竟の極意は一致にして、人のよき悪しき分ちを見る人に示し知らさむためといはば、これ勧善懲悪の意にあらずや。
答へて云はく、よき悪しきの指すところ、漢文の書と物語と異なり。物語のよきとするは、物の哀れを知る人なり。 悪しきとするは、物の哀れを知らぬ人なり(このこと、くはしく奥にいふべし)。されば漢文の書と指すところ異なり。しかれどもそのよき悪しき分ちを人に示し知らせんと思ふ趣意は変ることなきゆゑに、一致といへるなり。よくよく工夫すべし。
物語を卑下して締めくくる
【現代語訳】
よく解釈すれば、全て何事も無駄でないことはなくなってしまうものですね」と、(源氏は)物語を実にことさらに大したもののように論じてしまわれた。
「よくいへば」とは、悪いことでもわざと良いように言えば、という意味である。「何ごとも空しからず」とは全ての事をこのように良いように解釈すれば、何ごともみな良いことになって、無駄なことはない、ということである。結局のところ、和歌・物語は頼りなく無駄なもののように思えるが、良いもののように解釈して理屈を構築すれば、無駄なものではない、ということだ。「わざとのこと」とは、「深い道理があり意義のあること」という意味だ。だいたい物語というものは、一般的には少女の娯楽であって、頼りなく作られたものである。それをここで源氏の君は、深い道理があり、意味があるもののように解釈をされた、ということである。
この箇所において、紫式部の気持ちとしては、謙遜の言葉である。前述した通り、『源氏物語』を意義深いもののように語ってきたが、所詮は頼りない無駄ごとであると、へりくだって締めくくっている。
ところで、この物語論の段は、最初に「いろいろと珍しい登場人物の身の上などを」という一文から始まって、「ああ、困ったものだ。女というものは」と源氏が言うところから、古い物語のことを源氏の君が玉鬘の君にお話しになる物語論に託して、紫式部がこの『源氏物語』を書いた意図を語ったのである。であるから、この段は、表面的には単に何となく源氏の君と玉鬘の君の会話の場面だけれども、紫式部の意図としてはこの『源氏物語』の根本的な解説なのである。表面的には冗談のように言いつくろったところも、本当はすべて意味があって、物語を褒めたり貶したりした末に結論を出したものだ。しかも、文章に意気込んだ調子がなく、ただ何となくすらすらと流暢なように書いて、また『源氏物語』全体の最初に書くでもなく、最後に書くでもなく、物語中のさりげないところでじっくりと趣旨を読者に伝えている。さらに、もっともらしくこれが趣旨だとは言わないけれど、それと分かるように書き記しており、日本にも中国にも並ぶ者のない優れた技だと言わざるを得ない。
なのに、昔から『源氏物語』の注釈書は多いが、ただ表面だけで通りいっぺんの注釈であり、作者の意図がわかりづらく、間違って注釈されていることが多い。なので、ここで(私が)、特に表と裏の意味を詳しく区別して注釈するのである。読む人はよくよく注意して、表面的な意味と、本心を含んだ裏の意味とを区別して、混同してはならない。
【原文】
よくいへば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」と、物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。
「よくいへば」とは、悪しき事もよきやうにいひなせば、となり。「何ごとも空しからず」とは、すべて万の事をかやうによき方にいひなせば、何ごともみなよきになりて、無益の事はなき、となり。畢竟歌・物語ははかなき無益の物のやうに思へども、よくとりなして理りをつくれば、無益の物にはあらず、となり。「わざとのこと」とは、「ゆゑあり心あること」なり。まづは物語といふものは、普通にていへば女童の玩び物にて、はかなく作りたるものなり。それを今源氏の君は、ゆゑありげに心ある物のやうにいひなし給ふ、となり。
この一節、下心は、式部が卑下の詞なり。右のごとく、この『源氏の物語』を心ありげには申せども、所詮ははかなきあだごとなりと、卑下して筆をとどめたり。
さてこの段、始めに「さまざまに珍らかなる人の上などを」といへるより始め、「あなむつかし。女こそ」とあるところより、古物語のことを源氏の君の玉鬘の君へ語り給ふ物語に寓託して、紫式部この『源氏物語』作れる心ばへを述べたり。さればこの段、表はただ何となく源氏の君と玉鬘の君との物語なれども、下の心は式部がこの『源氏物語』の大綱総論なり。表はたはむれにいひなせるところも、下心はことごとく意味ありて、褒貶抑揚して論定したるものなり。しかも文章迫切ならず、ただ何となくなだらかに書きなし、また一部の始めにも書かず、終りにも書かずして、何となきところにゆるやかに大意を知らせ、さかしげにそれとはいはねど、それと聞かせて書きあらはせること、和漢無双の妙手といふべし。
しかるに古来注解多しといへども、ただうはべばかりひとわたりの注にて、作者の本意あらはれがたく、また誤りて注せること多きゆゑに、今くはしく注解をなし、ことに表裏の義をつまびらかに注し分くものなり。見む人よくよく心をとどめて、表の義と下心に含めたる裏の義とをわきまへて、混ずることなかれ。










