2024年は大河ドラマは「光る君へ」
紫式部の生涯が1年をかけて映像化されています。
紫式部の人生を語るにおいて、
欠かせない存在の一人が、藤原彰子
(ふじわらのしょうし/あきこ)。
この記事では、気になる彰子の容姿や性格を
詳しく解説していきます。
・容姿
・性格
・家系図
・仕えていた女房
・出産の様子
・死因
・お墓の場所
この記事を読むことで、
彰子がどのような人物だったのか
ざっくりと把握することができます。
歴史や古文にあまり詳しくない方にもわかりやすく
説明しますので、ぜひ最後までお読みください😊
藤原彰子は美人だった?容姿を解説!
彰子は、
平安時代中期の貴族・藤原道長の
長女として生まれました。
12歳で一条天皇のもとに入内して
后となった彰子は、
一体どのような容姿をしていたのでしょうか?
彰子の容姿
「栄花物語」という
平安時代の歴史物語によると、
一条天皇のもとに入内した当時の彰子の容姿は、
髪は身の丈より五・六寸(17cm程度)長くて、
申し分ない美しさであったと書かれています。
まだ12歳という幼い年齢でしたが、
大人っぽくて、素晴らしい容姿をしていたとのこと。
御髪(みぐし)、丈に五六寸ばかり余らせたまへり、御かたち聞えさせん方なくをかしげにおはします、まだいと幼かるべきほどに、いささかいはけたるところなく、いへばおろかにめでたくおはします。
『栄花物語』巻第六「かかやく藤壺」
【現代語訳】
お髪は、身長に17cmくらい余っていらしゃって、御容姿はたいへん美しくいらっしゃいます。まだ非常に幼いでしょうに、少しも幼稚なところがなく、素晴らしい様子でいらっしゃいます。
入内してから9年ほどたち、彰子は21歳で妊娠します。
「栄花物語」には
その際の彰子の容姿の記述も以下のように書かれています。
髪は見事に黒く、
身長より二尺(約60cm)長い。
肌は色白で美しく、
酸漿(ほおずき)をふくらませたように
赤い頬をしていた。
小柄なせいか、たいへん若々しく見えた。
「紫式部日記」の中でも、
出産後の彰子の容姿が描写されています。
すこしうちなやみ、面やせて大殿籠もれる御ありさま、常よりもあえかに若くうつくしげなり。
「紫式部日記」より引用
(中略)
そこひも知らず清らなるに、こちたき御髪は、結ひてまさらせたまふわざなりけりと思ふ。
【現代語訳】
すこし苦しそうで顔が痩せておやすみになっている御様子は、普段よりも弱々しく、若く可愛らしい。どこまでも清らかに美しい上に、たっぷりしたお髪は結い上げなさると、より一層見事になるものだなと思われる。
まとめると、彰子の容姿は、
以下のような特徴を持っていました。
- 若々しく可愛らしい
- 小柄で色白
- 弱々しい雰囲気
- 長い髪は量が多く美しい
一条天皇の容姿
一条天皇は、彰子の入内当時20歳。
何事も分別があり、恥ずかしそうにしている彰子に
優しく心配りをされていました。
「栄花物語」には
一条天皇も大変な美男だったと記載されています。
一条天皇と彰子は、
美男美女の夫婦だったことになりますね😍
\一条天皇の性格や容姿を詳しく解説/
藤原彰子の性格は真面目だったってホント?
藤原彰子は、
内向的で真面目、恋愛ネタなどを
好まない性格でした。
紫式部(彰子に仕えた女房)が書いた日記
「紫式部日記」に、以下のような記述があるのです。
宮のやうとして、色めかしきをば、いとあはあはしとおぼしめいたれば、すこしよろしからむと思ふ人は、おぼろけにて出でゐはべらず。
「紫式部日記」より引用
【現代語訳】
中宮様の性格として、好色めいたことは、ひどく軽薄なことだとお思いでいらっしゃるので、少しでも良く思われたいと思う人は、めったに人前に出るようなことはしません。
中宮彰子が、恋愛を浮ついたことだと
好まなかったので、仕えている女房たちは、
男の人の前に積極的に出なくなってしまっていたのです。
「中宮の人埋もれたり、もしは用意なし」
(中宮の女房たちは引きこもりがちだ、配慮がない)
と男性陣に言われてしまっていました。
以下の文章も、
紫式部日記からの引用です。
宮の御心あかぬところなく、らうらうじく心にくくおはしますものを、あまりものづつみせさせたまへる御心
「紫式部日記」より引用
【現代語訳】
中宮様の性格は何も欠点がなく、洗練されていて奥ゆかしくいらっしゃいますが、あまりに内向的でいらっしゃる気質で
紫式部も、彰子のことをはっきりと
「ものづつみ」(控えめ、内向的)だと言っているのです。
彰子は、控えめで、恥ずかしい言動などはせず、
ただ無難に過ごすことが良いという考えの持ち主でした。
周りの女房も
彰子の考え方に染まってしまい、
彰子の局全体が、
真面目で暗い雰囲気になっていたのです。
彰子も大人になるにつれて、
世間のことがわかるようになり、
自分の周辺が「風流がない、引きこもりだ」
と言われていることがわかるようになりました。
真面目で内向的な中宮彰子に対して、
一条天皇のもう一人の后、
皇后定子は明るくよく笑う性格でした。
一条天皇は彰子が入内した当初、
彰子の部屋(藤壺)のお香や豪華な調度品に
心奪われましたが、
「興味をひかれてばかりいると、
政治を忘れて愚か者になってしまう」
と言われて帰られたと記録が残っています。
恐らく、定子の局に行くための
口実だったのでしょうね。
一条天皇は、真面目な彰子よりも、
明るい定子のことを深く愛していたのです…。
\大河ドラマ「光る君へ」 公式ガイドブック/
写真入りのキャラクター紹介や
俳優さんのインタビュー、
20回以後のあらすじなどが掲載されています。
「光る君へ」は藤原氏がたくさん出てくるので、
ガイドブックで人物関係を整理して見るのおすすめ!
彰子が后として生活したのは、
後宮の「藤壺」という局です。
「源氏物語」では
光源氏の理想の人・藤壺の宮が
藤壺に住んでいました。
平安京内裏図については、
こちらの記事で詳しく解説しています!
藤原彰子の家系図を紹介(定子との関係も)
彰子は平安時代中期の
藤原家の人間でした。
彰子の周辺の藤原家の家系図を紹介しますね。
藤原彰子は、
かの有名な藤原道長の長女です。
\道長の性格や人生を詳しく解説/
彰子は12歳で一条天皇のもとに入内します。
しかし、既にいとこの定子が中宮になっており、
天皇の寵愛を受けていたのです。
彰子と定子の関係は、いとこ!
なぜ権力争いと娘の結婚とが
関係があるかというと、
「外戚政治」という言葉がキーワードとなります。
当時の藤原氏は、外戚政治を行っていたのです。
娘を天皇と結婚させて、男の子を生ませる。
生まれた男の子を天皇にし、
天皇の母方の祖父となることで
政治を思い通りに動かすこと。
まず兄・道隆の娘・定子が入内し、
一条天皇の深い寵愛を得ました。
道隆が43歳で病死してからは、定子の兄・伊周と
道長の権力闘争となり、
後に弟・道長の娘・彰子も入内します。
結果的に権力争いの軍配は、道長にあがります。
定子の兄・伊周は長徳の変で失脚、
道隆一族の権勢は凋落していった上に
彰子が2人の男の子を出産したからです。
そして後朱雀天皇のもとに
道長の六女・嬉子を入内させ、
生まれた子どももまた天皇となります。
(後冷泉天皇)
藤原道長の一族は、繁栄を極めます。
道長は後一条天皇の御代に死去しますが、
一族の栄華は、彰子の后としての活躍のもとで
成し遂げられたものだったのです。
「源氏物語」第二部における
女三の宮と紫の上の関係性が、
彰子と定子の関係性に似ているという
指摘があります。
\こちらの記事で解説しています/
藤原彰子の出産は難産だった?
長保元年(999年)、
12歳で入内した彰子は、9年後
寛弘5年(1008年)、21歳でようやく第一子を懐妊します。
懐妊した彰子は、一条天皇に
「去年の十二月に月のものがなく、
この正月も二十日ほどになるのに月のものがない」
と話していました。
7月になってお腹が大きくり
苦しくなってからも、
彰子はその辛さを隠して振る舞っていたのです。
その出産は30時間にもおよぶ難産でした。
彰子は内裏を退出し、
実家の土御門邸にて過ごしていました。
1008年9月10日、彰子は産気づき産室に移ります。
日一日、いと心もとなげに起き臥し暮らさせたまひつ。
「紫式部日記」より引用
【現代語訳】
中宮様は一日中、たいへん不安げに起きたり寝たりなさりながらお過ごしなさった。
傍らでは、僧による加持祈祷が続けられ、
彰子についている物の怪を憑坐(よりまし)に
映して折伏しようと大声で祈っていました。
平安時代の文献には
「物の怪」がよく登場します。
お産や病気で苦しんでいる際に、
死霊が生霊がとりつくと
考えられていました。
僧は祈祷により、物の怪を憑坐(よりまし)
と呼ばれる子どもに移して退治したのです。
午の時に、空晴れて朝日さし出でたるここちす。
「紫式部日記」より引用
たひらかにおはしますうれしさのたぐひもなきに、男にさへおはしましけるよろこび、いかがはなのめならむ。
【現代語訳】
正午、空が晴れて朝日が顔を出したような気持ちがする。安らかに出産なさった嬉しさが格別である上に、それが男児でいらっしゃる喜びは、どうして普通であろうか。
彰子は翌日9月11日の正午ごろに
ようやく男児を出産されました。
彰子と一条天皇の間に皇子が生まれ、
藤原道長の喜びはこの上なく、
赤ん坊におしっこをひっかけられて喜ぶほどでした。
産後の彰子の状態は、
あまり良くありませんでした。
回復が遅く、10月の半ば頃まで
床について休養していたと記録されています。
藤原彰子に仕えていた女房
彰子の周りには、
たくさんの女性が女房として仕えていました。
文芸の才能に秀でた女性が何人も仕え、
彰子の周りは一大文芸サロンを形成していたのです。
- 紫式部
- 赤染衛門
- 大弐三位
- 和泉式部
- 小式部内侍
- 伊勢大輔
- 出羽弁
これらの女性について、
少し説明を加えておきますね。
紫式部
彰子に仕えていた女房として
最も有名なのは、紫式部です。
紫式部は、「源氏物語」が
貴族社会で話題になったことで、
藤原道長からスカウトを受け、家庭教師役として
彰子に仕えるようになったのです。
寛弘2年(1006年)もしくは寛弘3年(1007年)の
12月29日から出仕を始めました。
紫式部は、彰子に「白氏文集」の「新楽府」を
講義していました。
お腹の子への胎教の意味があったようです。
他の女房に見られると、
「紫式部は漢文の知識をひけらかしている」と
悪口を言われるので、こっそり教えていたようです。
当時の皇族・官人層の必読教養書。
政治を風刺批評して天子に諫言し、改革を求めた風論詩。
紫式部は
内向的でネガティブな性格をしていました。
彰子も内向的で真面目な性格だったので、
2人は気が合ったのではないでしょうか?
紫式部と彰子とは、
主人と女官という主従関係でありながら、
先生と生徒という子弟関係でもあったのです。
赤染衛門
赤染衛門は、もともとは
藤原道長の妻、源倫子の女房として仕えていました。
彰子が誕生すると、そのまま彰子に仕えたのです。
赤染衛門は、大江匡衡という漢学者と結婚します。
大江家は国史編纂などにも関わってきた
文人の家系であり、
膨大な資料を所有していました。
赤染衛門は、その資料や
自分の見聞きした宮中の情報をもとに
「栄花物語」という歴史物語を執筆するのです。
宇多天皇即位から堀河天皇までの15代
約200年間の時代を扱う歴史物語。
正編30巻を赤染衛門、
続編10巻のうち7帖を出羽弁、
3帖を複数の女性が書いたと言われている。
「栄花物語」の中では、
彰子のことも詳しく語られています。
赤染衛門は歌人としても優秀で、
紫式部も
「風格があり、こちらが恥じ入るほどの詠みぶり」
と褒めています。
「栄花物語」の続編の作者と言われる
出羽弁も彰子のもとに女房として仕えていました。
伊勢大輔、和泉式部、大弐三位
その他、伊勢大輔・和泉式部と
和泉式部の娘、小式部内侍は歌人として有名です。
伊勢大輔は、
いにしへの
奈良の都の八重桜
今日九重に
にほひぬるかな
の和歌が有名になり、
百人一首にも採録されています。
紫式部の娘、賢子(大弐三位)は、
紫式部の死後に、バトンタッチした形で
女房として仕えるようになりました。
その他の女房
紫式部日記には、その他にも、
- 弁宰相の君
- 大納言の君
- 小少将の君
- 小大輔の君
- 源式部の君
- 宮城の侍従の君
など、多くの女房の名前が登場します。
文芸的な才能は突出していなくても
仕えている女性がたくさんいました。
中・下級官人の出自で女房勤めに慣れ、
キャリア形成をしているケースや、
父親が亡くなったり、家が没落した場合に、
娘が女房になって仕えているケースなどです。
大納言の君と小少将の君は
道長の妻・源倫子の姪であり、
後者のパターンであると言われています。
藤原彰子の死因について
彰子は、なんと87歳まで長生きしました。
(1074年<承保元年>10月3日崩御)
平安時代では40~50歳が
平均寿命だったと推測されています。
当時は若くして
病気などで命を落とす人が多かったので、
異例の長寿と言えるでしょう。
彰子の死因については
明確に語られていませんが、
病死であると思われます。
「栄花物語」によると、
彰子は弟・頼道の訃報をきき、
たいへん悲しみ、その後も病気に苦しむ日が続いたとのことです。
二条院(後冷泉天皇の中宮)
が彰子のお見舞いに訪れた際も、
大変苦しそうな様子で、一晩中苦しそうなので
数日間滞在されたと記録されています。
彰子は、弟の死から8ヶ月後、
法成寺の阿弥陀堂で九体の仏像に導かれ、
大往生を遂げたのでした。
彰子は、長命であったがゆえに、
夫の一条天皇、子の後一条天皇、後朱雀天皇の
崩御にも直面しました。
一条天皇から白河天皇まで七代の天皇の
時代を経験し、その間に外戚政治は
最盛期から衰退へと向かいました。
彰子はその歴史の最中に身を置き、
藤原摂関家の繁栄に大きく貢献したのち、
藤原家衰退の有様を見届けた女性だったのです。
道長が栄華を達成する人生年表は、
こちらの記事に掲載しています。
彰子の墓はどこにあるの?
彰子の遺骸は、崩御の三日後には
東山の鳥野辺の北辺の大谷で荼毘に付され、
遺骨は宇治木幡の宇治陵に埋葬されました。
所在地:京都府宇治市木幡南山畑
宇治陵は、藤原氏の関係者のお墓です。
藤原道長や頼道などと、
彰子を始め藤原氏から中宮になった女性の遺骨が
埋葬されています。
ただし、現在では一部を除いて
住宅街や茶畑になっており、
彰子を含めほとんどの人々の埋葬地は
不明となっています。
平安時代の空気を少しでも感じたい方は、
ぜひ聖地巡礼してみてください。