2024年は大河ドラマは「光る君へ」
紫式部の生涯が1年をかけて映像化されています。
紫式部の人生を語るにおいて、
欠かせない存在の一人が、藤原彰子
(ふじわらのしょうし/あきこ)。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
この記事では、気になる彰子の容姿や性格を
詳しく解説していきます。
・容姿
・性格
・家系図
・仕えていた女房
・出産の様子
・死因
・お墓の場所
この記事を読むことで、
彰子がどのような人物だったのか
ざっくりと把握することができます。
歴史や古文にあまり詳しくない方にもわかりやすく
説明しますので、ぜひ最後までお読みください😊
藤原彰子は美人だった?容姿を解説!
彰子は、
平安時代中期の貴族・藤原道長の
長女として生まれました。
12歳で一条天皇のもとに入内して
后となった彰子は、
一体どのような容姿をしていたのでしょうか?
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
彰子の容姿
「栄花物語」という
平安時代の歴史物語によると、
一条天皇のもとに入内した当時の彰子の容姿は、
髪は身の丈より五・六寸(17cm程度)長くて、
申し分ない美しさであったと書かれています。
まだ12歳という幼い年齢でしたが、
大人っぽくて、素晴らしい容姿をしていたとのこと。
御髪(みぐし)、丈に五六寸ばかり余らせたまへり、御かたち聞えさせん方なくをかしげにおはします、まだいと幼かるべきほどに、いささかいはけたるところなく、いへばおろかにめでたくおはします。
『栄花物語』巻第六「かかやく藤壺」
【現代語訳】
お髪は、身長に17cmくらい余っていらしゃって、御容姿はたいへん美しくいらっしゃいます。まだ非常に幼いでしょうに、少しも幼稚なところがなく、素晴らしい様子でいらっしゃいます。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
入内してから9年ほどたち、彰子は21歳で妊娠します。
「栄花物語」には
その際の彰子の容姿の記述も以下のように書かれています。
髪は見事に黒く、
身長より二尺(約60cm)長い。
肌は色白で美しく、
酸漿(ほおずき)をふくらませたように
赤い頬をしていた。
小柄なせいか、たいへん若々しく見えた。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/08/picture-scroll.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/08/picture-scroll.webp)
「紫式部日記」の中でも、
出産後の彰子の容姿が描写されています。
すこしうちなやみ、面やせて大殿籠もれる御ありさま、常よりもあえかに若くうつくしげなり。
「紫式部日記」より引用
(中略)
そこひも知らず清らなるに、こちたき御髪は、結ひてまさらせたまふわざなりけりと思ふ。
【現代語訳】
すこし苦しそうで顔が痩せておやすみになっている御様子は、普段よりも弱々しく、若く可愛らしい。どこまでも清らかに美しい上に、たっぷりしたお髪は結い上げなさると、より一層見事になるものだなと思われる。
まとめると、彰子の容姿は、
以下のような特徴を持っていました。
- 若々しく可愛らしい
- 小柄で色白
- 弱々しい雰囲気
- 長い髪は量が多く美しい
一条天皇の容姿
一条天皇は、彰子の入内当時20歳。
何事も分別があり、恥ずかしそうにしている彰子に
優しく心配りをされていました。
「栄花物語」には
一条天皇も大変な美男だったと記載されています。
一条天皇と彰子は、
美男美女の夫婦だったことになりますね😍
\一条天皇の性格や容姿を詳しく解説/
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/04/Emperor-Ichijo-1-300x158.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/04/Emperor-Ichijo-1-300x158.webp)
藤原彰子の性格は真面目だったってホント?
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
藤原彰子は、
内向的で真面目、恋愛ネタなどを
好まない性格でした。
紫式部(彰子に仕えた女房)が書いた日記
「紫式部日記」に、以下のような記述があるのです。
宮のやうとして、色めかしきをば、いとあはあはしとおぼしめいたれば、すこしよろしからむと思ふ人は、おぼろけにて出でゐはべらず。
「紫式部日記」より引用
【現代語訳】
中宮様の性格として、好色めいたことは、ひどく軽薄なことだとお思いでいらっしゃるので、少しでも良く思われたいと思う人は、めったに人前に出るようなことはしません。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
中宮彰子が、恋愛を浮ついたことだと
好まなかったので、仕えている女房たちは、
男の人の前に積極的に出なくなってしまっていたのです。
「中宮の人埋もれたり、もしは用意なし」
(中宮の女房たちは引きこもりがちだ、配慮がない)
と男性陣に言われてしまっていました。
![紫式部日記絵巻](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/murasaki-diary.webp)
![紫式部日記絵巻](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/murasaki-diary.webp)
以下の文章も、
紫式部日記からの引用です。
宮の御心あかぬところなく、らうらうじく心にくくおはしますものを、あまりものづつみせさせたまへる御心
「紫式部日記」より引用
【現代語訳】
中宮様の性格は何も欠点がなく、洗練されていて奥ゆかしくいらっしゃいますが、あまりに内向的でいらっしゃる気質で
紫式部も、彰子のことをはっきりと
「ものづつみ」(控えめ、内向的)だと言っているのです。
彰子は、控えめで、恥ずかしい言動などはせず、
ただ無難に過ごすことが良いという考えの持ち主でした。
周りの女房も
彰子の考え方に染まってしまい、
彰子の局全体が、
真面目で暗い雰囲気になっていたのです。
彰子も大人になるにつれて、
世間のことがわかるようになり、
自分の周辺が「風流がない、引きこもりだ」
と言われていることがわかるようになりました。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
真面目で内向的な中宮彰子に対して、
一条天皇のもう一人の后、
皇后定子は明るくよく笑う性格でした。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/empress-teishi-300x158.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/empress-teishi-300x158.webp)
一条天皇は彰子が入内した当初、
彰子の部屋(藤壺)のお香や豪華な調度品に
心奪われましたが、
「興味をひかれてばかりいると、
政治を忘れて愚か者になってしまう」
と言われて帰られたと記録が残っています。
恐らく、定子の局に行くための
口実だったのでしょうね。
一条天皇は、真面目な彰子よりも、
明るい定子のことを深く愛していたのです…。
\大河ドラマ「光る君へ」 公式ガイドブック/
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/plugins/pochipp/assets/img/pochipp-logo-t1.png)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/plugins/pochipp/assets/img/pochipp-logo-t1.png)
写真入りのキャラクター紹介や
俳優さんのインタビュー、
20回以後のあらすじなどが掲載されています。
「光る君へ」は藤原氏がたくさん出てくるので、
ガイドブックで人物関係を整理して見るのおすすめ!
彰子が后として生活したのは、
後宮の「藤壺」という局です。
「源氏物語」では
光源氏の理想の人・藤壺の宮が
藤壺に住んでいました。
平安京内裏図については、
こちらの記事で詳しく解説しています!
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/02/imperial-palace-300x158.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/02/imperial-palace-300x158.webp)
藤原彰子の家系図を紹介(定子との関係も)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
彰子は平安時代中期の
藤原家の人間でした。
彰子の周辺の藤原家の家系図を紹介しますね。
![彰子周辺の家系図(藤原家)](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/shoshi-family-tree.webp)
![彰子周辺の家系図(藤原家)](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/shoshi-family-tree.webp)
藤原彰子は、
かの有名な藤原道長の長女です。
\道長の性格や人生を詳しく解説/
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/03/michinaga-life-300x158.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/03/michinaga-life-300x158.webp)
彰子は12歳で一条天皇のもとに入内します。
しかし、既にいとこの定子が中宮になっており、
天皇の寵愛を受けていたのです。
彰子と定子の関係は、いとこ!
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
なぜ権力争いと娘の結婚とが
関係があるかというと、
「外戚政治」という言葉がキーワードとなります。
当時の藤原氏は、外戚政治を行っていたのです。
娘を天皇と結婚させて、男の子を生ませる。
生まれた男の子を天皇にし、
天皇の母方の祖父となることで
政治を思い通りに動かすこと。
まず兄・道隆の娘・定子が入内し、
一条天皇の深い寵愛を得ました。
道隆が43歳で病死してからは、定子の兄・伊周と
道長の権力闘争となり、
後に弟・道長の娘・彰子も入内します。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
結果的に権力争いの軍配は、道長にあがります。
定子の兄・伊周は長徳の変で失脚、
道隆一族の権勢は凋落していった上に
彰子が2人の男の子を出産したからです。
そして後朱雀天皇のもとに
道長の六女・嬉子を入内させ、
生まれた子どももまた天皇となります。
(後冷泉天皇)
藤原道長の一族は、繁栄を極めます。
道長は後一条天皇の御代に死去しますが、
一族の栄華は、彰子の后としての活躍のもとで
成し遂げられたものだったのです。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
「源氏物語」第二部における
女三の宮と紫の上の関係性が、
彰子と定子の関係性に似ているという
指摘があります。
\こちらの記事で解説しています/
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/04/Imperial-Prince3-Ver2-300x158.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/04/Imperial-Prince3-Ver2-300x158.webp)
藤原彰子の出産は難産だった?
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
長保元年(999年)、
12歳で入内した彰子は、9年後
寛弘5年(1008年)、21歳でようやく第一子を懐妊します。
懐妊した彰子は、一条天皇に
「去年の十二月に月のものがなく、
この正月も二十日ほどになるのに月のものがない」
と話していました。
7月になってお腹が大きくり
苦しくなってからも、
彰子はその辛さを隠して振る舞っていたのです。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
その出産は30時間にもおよぶ難産でした。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/murasaki-diary2.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/murasaki-diary2.webp)
彰子は内裏を退出し、
実家の土御門邸にて過ごしていました。
1008年9月10日、彰子は産気づき産室に移ります。
日一日、いと心もとなげに起き臥し暮らさせたまひつ。
「紫式部日記」より引用
【現代語訳】
中宮様は一日中、たいへん不安げに起きたり寝たりなさりながらお過ごしなさった。
傍らでは、僧による加持祈祷が続けられ、
彰子についている物の怪を憑坐(よりまし)に
映して折伏しようと大声で祈っていました。
平安時代の文献には
「物の怪」がよく登場します。
お産や病気で苦しんでいる際に、
死霊が生霊がとりつくと
考えられていました。
僧は祈祷により、物の怪を憑坐(よりまし)
と呼ばれる子どもに移して退治したのです。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
午の時に、空晴れて朝日さし出でたるここちす。
「紫式部日記」より引用
たひらかにおはしますうれしさのたぐひもなきに、男にさへおはしましけるよろこび、いかがはなのめならむ。
【現代語訳】
正午、空が晴れて朝日が顔を出したような気持ちがする。安らかに出産なさった嬉しさが格別である上に、それが男児でいらっしゃる喜びは、どうして普通であろうか。
彰子は翌日9月11日の正午ごろに
ようやく男児を出産されました。
彰子と一条天皇の間に皇子が生まれ、
藤原道長の喜びはこの上なく、
赤ん坊におしっこをひっかけられて喜ぶほどでした。
産後の彰子の状態は、
あまり良くありませんでした。
回復が遅く、10月の半ば頃まで
床について休養していたと記録されています。
藤原彰子に仕えていた女房
彰子の周りには、
たくさんの女性が女房として仕えていました。
文芸の才能に秀でた女性が何人も仕え、
彰子の周りは一大文芸サロンを形成していたのです。
- 紫式部
- 赤染衛門
- 大弐三位
- 和泉式部
- 小式部内侍
- 伊勢大輔
- 出羽弁
これらの女性について、
少し説明を加えておきますね。
紫式部
彰子に仕えていた女房として
最も有名なのは、紫式部です。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/synopsis-300x158.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/synopsis-300x158.webp)
紫式部は、「源氏物語」が
貴族社会で話題になったことで、
藤原道長からスカウトを受け、家庭教師役として
彰子に仕えるようになったのです。
寛弘2年(1006年)もしくは寛弘3年(1007年)の
12月29日から出仕を始めました。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
紫式部は、彰子に「白氏文集」の「新楽府」を
講義していました。
お腹の子への胎教の意味があったようです。
![中宮彰子(左)に「白氏文集」の「新楽府」を進講する紫式部(右)
「紫式部日記絵巻」蜂須賀本](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/shoshi.webp)
![中宮彰子(左)に「白氏文集」の「新楽府」を進講する紫式部(右)
「紫式部日記絵巻」蜂須賀本](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/12/shoshi.webp)
「紫式部日記絵巻」蜂須賀本
他の女房に見られると、
「紫式部は漢文の知識をひけらかしている」と
悪口を言われるので、こっそり教えていたようです。
当時の皇族・官人層の必読教養書。
政治を風刺批評して天子に諫言し、改革を求めた風論詩。
紫式部は
内向的でネガティブな性格をしていました。
彰子も内向的で真面目な性格だったので、
2人は気が合ったのではないでしょうか?
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/10/lady-murasaki-300x158.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/10/lady-murasaki-300x158.webp)
紫式部と彰子とは、
主人と女官という主従関係でありながら、
先生と生徒という子弟関係でもあったのです。
赤染衛門
赤染衛門は、もともとは
藤原道長の妻、源倫子の女房として仕えていました。
彰子が誕生すると、そのまま彰子に仕えたのです。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
赤染衛門は、大江匡衡という漢学者と結婚します。
大江家は国史編纂などにも関わってきた
文人の家系であり、
膨大な資料を所有していました。
赤染衛門は、その資料や
自分の見聞きした宮中の情報をもとに
「栄花物語」という歴史物語を執筆するのです。
宇多天皇即位から堀河天皇までの15代
約200年間の時代を扱う歴史物語。
正編30巻を赤染衛門、
続編10巻のうち7帖を出羽弁、
3帖を複数の女性が書いたと言われている。
「栄花物語」の中では、
彰子のことも詳しく語られています。
赤染衛門は歌人としても優秀で、
紫式部も
「風格があり、こちらが恥じ入るほどの詠みぶり」
と褒めています。
「栄花物語」の続編の作者と言われる
出羽弁も彰子のもとに女房として仕えていました。
伊勢大輔、和泉式部、大弐三位
その他、伊勢大輔・和泉式部と
和泉式部の娘、小式部内侍は歌人として有名です。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
伊勢大輔は、
いにしへの
奈良の都の八重桜
今日九重に
にほひぬるかな
の和歌が有名になり、
百人一首にも採録されています。
紫式部の娘、賢子(大弐三位)は、
紫式部の死後に、バトンタッチした形で
女房として仕えるようになりました。
その他の女房
紫式部日記には、その他にも、
- 弁宰相の君
- 大納言の君
- 小少将の君
- 小大輔の君
- 源式部の君
- 宮城の侍従の君
など、多くの女房の名前が登場します。
文芸的な才能は突出していなくても
仕えている女性がたくさんいました。
中・下級官人の出自で女房勤めに慣れ、
キャリア形成をしているケースや、
父親が亡くなったり、家が没落した場合に、
娘が女房になって仕えているケースなどです。
大納言の君と小少将の君は
道長の妻・源倫子の姪であり、
後者のパターンであると言われています。
藤原彰子の死因について
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
彰子は、なんと87歳まで長生きしました。
(1074年<承保元年>10月3日崩御)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/student-150x150.webp)
平安時代では40~50歳が
平均寿命だったと推測されています。
当時は若くして
病気などで命を落とす人が多かったので、
異例の長寿と言えるでしょう。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
彰子の死因については
明確に語られていませんが、
病死であると思われます。
「栄花物語」によると、
彰子は弟・頼道の訃報をきき、
たいへん悲しみ、その後も病気に苦しむ日が続いたとのことです。
二条院(後冷泉天皇の中宮)
が彰子のお見舞いに訪れた際も、
大変苦しそうな様子で、一晩中苦しそうなので
数日間滞在されたと記録されています。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/07/princess-heian-150x150.webp)
彰子は、弟の死から8ヶ月後、
法成寺の阿弥陀堂で九体の仏像に導かれ、
大往生を遂げたのでした。
![阿弥陀如来(左上)から経巻を持つ女性に差し込む光明。
貴族たちは極楽浄土を求める願望が強かった。
「平家納経」](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/01/heike-noukyo.webp)
![阿弥陀如来(左上)から経巻を持つ女性に差し込む光明。
貴族たちは極楽浄土を求める願望が強かった。
「平家納経」](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/01/heike-noukyo.webp)
貴族たちは極楽浄土を求める願望が強かった。
「平家納経」
彰子は、長命であったがゆえに、
夫の一条天皇、子の後一条天皇、後朱雀天皇の
崩御にも直面しました。
一条天皇から白河天皇まで七代の天皇の
時代を経験し、その間に外戚政治は
最盛期から衰退へと向かいました。
彰子はその歴史の最中に身を置き、
藤原摂関家の繁栄に大きく貢献したのち、
藤原家衰退の有様を見届けた女性だったのです。
道長が栄華を達成する人生年表は、
こちらの記事に掲載しています。
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/03/michinaga-life-300x158.webp)
![](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/03/michinaga-life-300x158.webp)
彰子の墓はどこにあるの?
彰子の遺骸は、崩御の三日後には
東山の鳥野辺の北辺の大谷で荼毘に付され、
遺骨は宇治木幡の宇治陵に埋葬されました。
所在地:京都府宇治市木幡南山畑
宇治陵は、藤原氏の関係者のお墓です。
藤原道長や頼道などと、
彰子を始め藤原氏から中宮になった女性の遺骨が
埋葬されています。
ただし、現在では一部を除いて
住宅街や茶畑になっており、
彰子を含めほとんどの人々の埋葬地は
不明となっています。
平安時代の空気を少しでも感じたい方は、
ぜひ聖地巡礼してみてください。