2024年の大河ドラマ「光る君へ」が放送され、
藤原道長の人生に注目が集まっていますね!
この記事では、
道長の人生や人柄についてエピソードや
年表も含め、詳しく解説しています✨
【藤原道長について】
・性格
・死因と最期の様子
・家系図
・兄弟、子どもの一覧
・詳細な人生年表
・エピソード(逸話集)
・容姿
この記事を読むことで、
道長を深く理解して、大河ドラマを
より楽しむことができるようになります!
藤原道長はどんな性格だった?
「大鏡」や「小右記」などの
記録に残された言動から、
藤原道長の性格を推測すると、
以下のような特徴が浮かび上がりました。
- 負けず嫌い
- 男らしく豪胆
- 気前が良い
- 亭主関白
- 自信家
気が強く、野心家の道長は、
家柄と運に恵まれ、出世街道を突き進み、
ついには天皇の代わりに政治を行う
地位まで昇りつめ、栄華を極めたのです。
それでは、実際の記録の内容から、
道長の性格を詳しく見ていきましょう。
肝が据わっていて勇気がある
「大鏡」によると、花山天皇は
気味の悪い雨夜に藤原氏の三兄弟
(道隆、道兼、道長)に肝試しを提案しました。
道隆は豊楽殿、道兼は仁寿殿、
道長は大極殿に行くよう命じます。
↓内裏図は以下の記事で詳しく解説しています↓
兄・道隆と道兼は
天皇からの肝試しの提案に困惑しましたが、
道長は、
「いづくなりとも、まかりなむ。」
「大鏡」より引用
【現代語訳】
どこへでも、まいりましょう。
と平然としていました。
怖がっていた道隆と道兼は肝試しの途中で、
幽霊のようなものが
見えたり聞こえたりして引き返してしまいます。
ところが、道長は見事、
肝試しを最後までなしとげ、
大極殿の高御座の柱から削り取った屑を
証拠として天皇に献上したのです。
この逸話からは、道長の
肝が据わっていて勇気のある性格が
読み取れますね。
負けず嫌いで気が強い
ある日、
父・兼家が道長のいとこにあたる
藤原公任の優秀さを褒めました。
兼家が、
「私の子供たちはあの男(公任)の影さえ踏めないのは残念だ」
と言うと、兄の道隆、道兼は恥じ入って
何も言い返せませんでした。
ところが道長は
「影をば踏まで、面をや踏まぬ。」
「大鏡」より引用
【現代語訳】
「影を踏まないで、顔を踏みつけてやる。」
と、きっぱり言い切ったのです。
公任のほうが優秀だと言われ、
腹を立てたのでしょう。
自分ならば公任の影どころか、
直接、顔を踏みつけることができる!
と豪語したわけです。
道長は負けず嫌いで、
気の強い性格だったと分かります。
血気盛んで性急な性格
988年(永延2年)道長23歳の頃のこと。
道長の推薦により受験した甘南備永資が
式部省の試験に落第してしまいました。
怒った道長は、従者を使わして
試験官を務めていた橘淑信を捉えてしまいました。
道長は、橘淑信を車に乗せず
徒歩で道長邸に連行し、
試験結果を改ざんするよう迫ったのです。
このエピソードからは、
道長の性急でやや乱暴な性格が
表れていますね。
当時23歳の道長はずいぶんと血気盛んでした。
気前が良い
989年(永祚元年)4月28日、
道長24歳の頃、兼家邸の競馬で、
衣を脱いで乗り手に与えています。
同年、11月13日にも殿上人の小食を
道長が調達しています。
これ以降も、道長は人々によく碌を与えたり、
夜食をふるまったりしています。
人に物を与えたがる、
気前のよい性格がうかがえますね。
亭主関白な性格
道長は「御堂関白記」の中で
正妻・倫子のことを「女方(にょうぼう)」
と呼んで言います。
道長は、
2つ年上で宇多天皇の三世孫の倫子に対して
宮仕えしている「女房」と同じ呼び方を
しているのです。
自信家で自画自賛する性格
娘の彰子が一条天皇との子・敦成親王を
出産し、五十日の祝いの祝宴が開かれた夜、
道長は酒に酔って以下の発言をしています。
【原文】
「紫式部日記」より引用
宮の御父にてまろ悪ろからず、まろがむすめにて宮悪ろくおはしまさず。
母もまた幸ひありと思ひて、笑ひたまふめり。
良い夫は持たりかし、と思ひたんめり
【現代語訳】
「中宮の父君として、私は悪くはありませんし、また、私の娘として中宮も悪くはいらっしゃいません。
母(倫子)もまた幸せだと思って、笑っていらっしゃるようだ。(倫子は)良い夫を持ったなあと、思っているのだろう」
自分は中宮の父にふさわしいと
かなり自己評価が高いです。
妻の倫子もきっと幸せだろうと自信たっぷりです。
道長は自信家で調子に乗りやすい性格だったのです。
大河ドラマのおっとりした雰囲気の
道長とはかなり違うイメージですね。
では、そんな道長の最期は
どのような様子だったのでしょうか?
次は死因や最期の様子などを
詳しく見ていきましょう。
藤原道長の死因は糖尿病だった!?
藤原道長の死因は、
糖尿病だったと言われています。
62歳で亡くなりました。
以下、病状の記録と最期の様子を解説していきます。
飲水病(糖尿病)の発病
1016年(長和5年)、5月10日
道長は法華三十講を開催します。
そこに出席した人物は、道長の様子を実資に語っています。
中間で必ず簾の中に入っていたのは、水を飲んでいたのではないか。顔の赤味がなくなり、気力は無い。死期は遠くないのではないか。
「小右記」より
法華三十講において、
道長はかなり体調が悪そうで、
水を隠れて飲んでいました。
5月11日には道長は実資に、
「3月から頻繁に水を飲む。
口が乾いて力が無いが、食事は減らない」
と語っています。
当時、飲水病(糖尿病)は多くの
貴族を苦しめていました。
道長もおそらく糖尿病だったのでしょう。
狭心症の併発
さらに1018年(寛仁2年)
53歳の頃に道長は胸の病気を患っています。
特定の箇所というより
心神の具合が悪くなっていて、
かなりの重病となったと記録されています。
胸の病気というのが、
心臓神経症なのか、狭心症なのかは不明です。
白内障を併発
1019年(寛仁3年)、
道長54歳の年に病状は悪化します。
日付 | 病状 |
---|---|
1019/1/10 | 胸病により意識朦朧に。 |
1019/2/3 | 嘔吐下痢を起こす。 |
1019/2/4 | 体調は回復するが、眼病発病。 2、3尺(60cm~90cm)先の人の顔も見えない。 手にとるものだけが見える。 |
1019/3/18 | 再び胸の発作が起きる。 |
1019/3/21 | 出家 |
糖尿病は消化器系の機能障害を起こします。
道長が嘔吐下痢で苦しんだのも
糖尿病の合併症だった可能性があります。
視力の低下も糖尿病の合併症としての
白内障、網膜症だったのでしょう。
道長は病状の悪化に苦しみ、
ついに出家を遂げ、念仏を唱えて
極楽往生を祈るようになりました。
出家後、3/29には実資が道長を訪れますが、
その容貌は老僧のようだったといいます。
道長の最期の様子
道長の没年は、1027年(万寿4年)です。
享年62歳でした。
最期の年の闘病は壮絶なものでした。
この年は正月から体調が悪く、
6/4には飲食を受け付けなくなり
衰弱が著しくなりました。
秋頃からはどんどん病状が悪化していきます。
日付 | 病状 |
---|---|
1027/10/28 | 娘・妍子が死去して四十九日の法要 道長は下痢に悩まされ、出席できず。 |
1027/11/10 | 床に臥せったまま糞尿を出す状態に。 |
1027/11/21 | 無気力で、下痢が続き、飲食は全く絶える。背中には腫瘍あり。 |
1027/11/25 | 極楽往生を願い法成寺阿弥陀堂の九体阿弥陀像の前に移る。 |
1027/12/1 | 但波忠明により背中の腫瘍に針が刺される。膿と血が出て、道長は痛みに叫ぶ。 |
1027/12/3 | 意識不明だが、胸だけ暖かく、頭だけが揺れ動いている状態に。 |
1027/12/4 | 早朝、死亡確認。 |
病状の経緯から見て、道長は
糖尿病にともなう様々な合併症により
衰弱して亡くなっていったと考えられます。
道長のお墓
道長の遺骨は、
現在の京都府宇治市木幡の「宇治陵」に
葬られました。
宇治陵には、娘・彰子、妍子、威子などの
遺骨も埋葬されています。
藤原道長の家系図を紹介
藤原道長を中心とした家系図を作成しました。
以下、道長の兄弟や子どもについて
解説していきますね。
道長の兄弟
藤原道長は、兼家と正妻・時姫の間に
末っ子の五男として生まれました。
同母兄弟は5人です。
名前 | 生没年 | 備考 | |
---|---|---|---|
長男 | 藤原道隆 | 953-995 | 定子の父親 |
長女 | 藤原超子 | 954?-982 | 冷泉天皇女御 三条天皇母 |
三男 | 藤原道兼 | 961-995 | |
三女 | 藤原詮子 | 962-1001 | 円融天皇女御、一条天皇母 |
五男 | 藤原道長 | 966-1028 |
道長は、道隆・道兼という兄におされて
若い頃はあまり目立たない存在でした。
しかし、2人の兄が
早くに亡くなってしまったため、
政権を掌握することができたのです。
末っ子で年が若く、
病気がちながら62歳まで生きられたという
幸運が、道長の人生の追い風となりました。
道長の子ども
道長は源倫子を正妻としました。
他にも源明子という妾がいます。
それぞれの間に6人の子どもをもうけました。
名前 | 生没年 | 備考 | |
---|---|---|---|
長女 | 藤原彰子 | 988-1074 | 一条天皇中宮。後一条天皇・後朱雀天皇の母 |
長男 | 藤原頼通 | 992-1074 | 摂政・関白 寛子(後冷泉天皇皇后)の父 |
次女 | 藤原妍子 | 994-1027 | 三条天皇中宮。禎子内親王(後朱雀天皇皇后)の母 |
五男 | 藤原教通 | 996-1075 | 関白 歓子(後冷泉天皇皇后)の父 |
四女 | 藤原威子 | 1000-1036 | 後一条天皇中宮。 章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)の母 |
六女 | 藤原嬉子 | 1007-1025 | 後朱雀天皇の妃(東宮時代)。後冷泉天皇の母 |
名前 | 生没年 | 備考 | |
---|---|---|---|
次男 | 藤原頼宗 | 993-1065 | 右大臣 |
三男 | 藤原顕信 | 994-1027 | 右馬頭・僧 |
四男 | 藤原能信 | 995-1065 | 権大納言 |
三女 | 藤原寛子 | 999-1025 | 敦明親王女御 |
五女 | 藤原尊子 | 1003?-1087? | 源師房の妻 |
六男 | 藤原長家 | 1005-1064 | 権大納言 |
源明子の父は源高明であり、
安和の変で流罪となった人物である上に
既に他界していました。
そのため、
源明子はあくまで妾(めかけ)であり
左大臣の娘である源倫子が正妻だったのです。
正妻・倫子の息子と妾・明子の息子では
昇進面に大きな格差がありました。
道長の摂関政治
家系図を見る上で、最も注目すべきは、
藤原道長が4人の娘
(彰子、妍子、威子、嬉子)
を次々と天皇の后としたことです。
天皇の后となった娘たちは男皇子を産み、
その男皇子がさらに天皇になっています。
藤原道長は、3人の天皇
(後一条天皇⇒後朱雀天皇⇒後冷泉天皇)
の祖父となりました。
※ただし、道長は後一条天皇のときに
亡くなっています。
道長は後一条天皇の摂政となり、
政治の実権を握りました。
道長はすぐに摂政を辞任し、
息子の頼道に譲り、後継者を確立します。
しかしその後も、
道長は後一条天皇の外祖父として
政治の実権を握り続けました。
藤原道長の人生年表
道長の人生を年表にまとめました。
西暦 | 和暦 | 道長の年齢 | 出来事 | 備考 |
---|---|---|---|---|
966年 | 康保3年 | 1歳 | 藤原道長誕生 | 紫式部より7歳年上 |
980年 | 天元3年 | 15歳 | 従五位下に叙爵される 元服もこの頃か。 母・時姫死去。 | 父兼家は52歳で右大臣になっていた 道長の姉詮子が懐仁親王(後の一条天皇)を出産 |
983年 | 永観元年 | 18歳 | 侍従に任じられる。 | |
984年 | 永観元年 | 19歳 | 右兵衛権佐に任じられる。 | 道長は格別に目立った昇進はしていない。 |
985年 | 寛和元年 | 20歳 | 堀川院御遊にて引出物の馬四頭をひいて乗った。 | |
986年 | 寛和2年 | 21歳 | 7/23五位蔵人⇒8/15少納言⇒10/15左少将 | 花山天皇退位、一条天皇即位 父・兼家、一条天皇の摂政になる。 道長、昇進が早くなる。 |
987年 | 永延元年 | 22歳 | 9/4左京大夫⇒9/20従三位(非参議公卿) 4/17藤原為光の前を車に乗ったまま通り、従者に投石される。 12/16源倫子と結婚。 | |
988年 | 永延2年 | 23歳 | 参議を経ずに権中納言に任じられる。 式部省試に関して橘淑信を自邸に連行して脅す事件が発生。 倫子、長女・彰子を出産。 源明子(側室)と結婚。 | |
989年 | 永祚元年 | 24歳 | 兼右衛門督 泥酔して一条天皇の前で騒ぐ。 | |
990年 | 正暦元年 | 25歳 | 兼中宮大夫 道長の長女・彰子3歳。 着袴の儀を迎える。 | 父・兼家死去。 兄・道隆が関白となる。 道隆の娘・定子、一条天皇の后として入内 |
991年 | 正暦2年 | 26歳 | 4人を飛び越えて権大納言に任じられる。 | 道長の姉詮子出家し東三条院となる。 |
992年 | 正暦3年 | 27歳 | 倫子、長男・頼道を出産。 | |
993年 | 正暦4年 | 28歳 | 明子、次男・頼宗を出産。 | |
994年 | 正暦5年 | 29歳 | 倫子、二女・妍子を出産。 明子、三男・顕信を出産。 | 道隆の息子・伊周が3人を飛び越えて内大臣になる。伊周は道隆の後継者としての立場を固める。 |
995年 | 長徳元年 | 30歳 | 5/11内覧宣旨を賜り政権の座につく。 6/19右大臣に任命。 明子、四男・能信を出産。 | 疫病が蔓延 4/10兄・関白道隆死去、5/8道兼死去 |
996年 | 長徳2年 | 31歳 | 倫子、五男・教通を出産。 | 紫式部の父、為時、越前守に任じられる。 紫式部も父について越前に下向。 藤原伊周(定子の兄)の従者が花山法皇の袖を射る。花山法皇についていた童子が2人殺害される。伊周、太宰権帥に左遷。(長徳の変) 定子出家。 |
998年 | 長徳4年 | 33歳 | 腰の病にかかる。 | 紫式部、父を置いて帰京。 |
999年 | 長保元年 | 34歳 | 明子、三女・寛子を出産。 倫子、四女・威子を出産。 彰子12歳、着裳(成人式)の儀を迎える。 11/1彰子、一条天皇のもとに入内。 | 定子、男皇子(敦康親王)を出産 紫式部、藤原宣孝と結婚。 |
1000年 | 長保2年 | 35歳 | 彰子、中宮となる。 (定子は皇后。一帝二后の異常事態に) 道長、重病を患う。 | 定子、第三子出産後に死去。 紫式部、娘を出産。 |
1001年 | 長保2年 | 36歳 | 紫式部の夫が死去。 紫式部の父・為時が越前より帰京。 「源氏物語」執筆開始か? 道長姉・詮子死去。 | |
1003年 | 長保5年 | 38歳 | 長男・頼道12歳で元服。 二女・妍子10歳で着裳の儀。 明子、尊子を出産。 | |
1005年 | 寛弘2年 | 40歳 | 明子、六男・長家を出産。 | 紫式部、道長のスカウトを受け、彰子に仕え始める。 |
1007年 | 寛弘4年 | 42歳 | 倫子、六女・喜子を出産。 彰子懐妊。 | |
1008年 | 寛弘5年 | 43歳 | 彰子、男皇子を出産。 (敦成親王<一条天皇>) | 彰子が紫式部に提案し、「源氏物語」の書写本が作られる |
1009年 | 寛弘6年 | 44歳 | 彰子、男皇子を妊娠、出産。(敦良親王) 道長と紫式部、戯れの和歌を贈答する。 | 帰京して1005年に昇殿を許されていた伊周が、彰子と敦成、道長を呪詛。 |
1010年 | 寛弘7年 | 45歳 | 妍子、居貞親王(後の三条天皇)の后となる。 | 伊周死去。 |
1011年 | 寛弘8年 | 46歳 | 敦成親王が東宮となる。 | 一条天皇病気になり譲位、 居貞親王が即位(三条天皇) 一条天皇出家後に死去。 |
1012年 | 長和元年 | 47歳 | 三条天皇の后・妍子が中宮となる。 彰子は皇太后となる。 道長、激しい頭痛に悩む。 | 三条天皇の希望で娍子も皇后となり、再び一帝二后となる。 |
1012年 | 長和2年 | 48歳 | 妍子、禎子内親王を出産。 | |
1014年 | 長和3年 | 49歳 | 三条天皇に譲位を進言する。 | 三条天皇、眼病を患う。 2/9 内裏火災 紫式部、春頃に死去か? |
1015年 | 長和4年 | 50歳 | 便所の帰りに打橋から落ち、左足を怪我。 | 11/17 再建した内裏再び火災 |
1016年 | 長和5年 | 51歳 | 彰子の皇子・敦成親王が即位(後一条天皇) 道長、摂政となり権力の頂点に。 道長、頻繁に水を飲む「飲水病」になる。(糖尿病か) 7/19 土御門邸全焼 | 三条天皇譲位 9/24 三条院の住む枇杷殿が火災 9/28 内裏が火災 一連の火災は放火か。 |
1017年 | 寛仁元年 | 52歳 | 3/16摂政を辞任し、息子・頼道に譲る。 道長は「大殿」として権力を持ち続ける。 8/9 敦良親王が東宮になる。 | 5/9三条院、疫病で死去 7/2 大雨で鴨川決壊、大洪水 敦明親王が東宮を辞退 |
1018年 | 寛仁2年 | 53歳 | 後一条天皇が元服。 四女の威子を入内させ、中宮にたてる(叔母と甥の結婚) 道長、胸病を患う。 6/27 新しく作った土御門邸に引っ越し。 10/16 威子立后の儀の二次会にて、望月の和歌を詠む。この頃には眼病で目がよく見えない状態に。 | 12/17敦康親王死去 |
1019年 | 寛仁3年 | 54歳 | 1/10胸病により意識朦朧に。 2/3 嘔吐下痢 2/4 眼病悪化 3/21 出家 六女・嬉子の着裳の儀 法成寺の造営 息子・道頼、関白になる。 | |
1020年 | 寛仁4年 | 55歳 | 後一条天皇重病に。 敦康親王の霊がつく。 六女・嬉子が東宮敦良親王の后となる。(叔母・甥の結婚) 法成寺の五大堂完成と金堂供養。 | |
1023年 | 治安3年 | 58歳 | 高野山詣を行う。 法成寺に大仏を安置。 法成寺の薬師堂供養。 有馬温泉で湯治を行う。 | |
1025年 | 万寿2年 | 60歳 | 三女・寛子(敦明親王女御)が死去。六女嬉子(東宮敦良親王女御)、男皇子出産後に死去。 道長、深く悲しむ。 | |
1026年 | 万寿3年 | 61歳 | 彰子、出家して女院(上東門院)となる。 | |
1027年 | 万寿4年 | 62歳 | 二女妍子の娘・禎子内親王が東宮敦良の后となる。 5/15三男・顕信(側室明子との子)が34歳で死去。 9/14二女・妍子が34歳で死去。 道長、病状悪化。 11/25 法成寺阿弥陀堂に移る。 12/4 藤原道長死去。 |
道長と紫式部の関わりについて
藤原道長の人生においては、
紫式部との関わりおよび
「源氏物語」成立への影響についても
着目するべきです。
藤原道長と紫式部がいつ、どのように
知り合ったかはわかりませんが、
寛弘2年12月29日(1005年)に道長は
紫式部をスカウトし、彰子の家庭教師として
仕えさせます。
その後、道長は紫式部が「源氏物語」を
執筆するのをサポートしました。
詳しくは、以下の記事で解説しています。
紫式部は道長の愛人だったという
説もあります。
紫式部と道長の人生については
こちらの本がとっても詳しいです。
著者の倉本一宏氏は、
大河ドラマ「光る君へ」時代考証担当です。
この本を読むことで、
大河ドラマの世界観をより理解することができます。
藤原道長のエピソード
酒を飲んで騒ぐ
989年(永祚元年)道長が24歳の頃の出来事です。
正月14日、道長は他の公卿とともに
酒を飲んで泥酔し、
御斎会内論議に遅刻します。
遅れて参上した上に、
一条天皇の前でうるさく騒ぎ、
父・兼家を怒らせています。
道長24歳、若いとはいえ、立派な大人です。
天皇の御前で行われる大切な行事に
遅れた上に、騒ぐとは、
かなりの問題行動ですね。
孫におしっこをかけられ喜ぶ
1008年(寛弘5年)道長43歳の頃の出来事です。
娘の彰子と一条天皇の間に
男皇子・敦成親王が生まれます。
道長は孫の誕生を非常に喜び、
敦成親王を抱き上げて可愛がり、
尿をかけられて喜んでいました。
【原文】
「紫式部日記」より引用
「あはれ、この宮の御尿に濡るるは、うれしきわざかな。この濡れたるあぶるこそ、思ふやうなる心地すれ」
【現代語訳】
「ああ、若宮の御尿に濡れるのは、嬉しいことだなあ。この濡れた服を火であぶっていると、願いが叶った気分になることだ」
彰子の産んだ男皇子が将来、
天皇として即位すれば、
道長は外祖父として絶大な権力が持てます。
北を向いて手を洗っていた
藤原道長は、北を向いて手を洗うことに
こだわっていたようです。
これは、道長の孫の孫である、藤原忠実が
大叔母の寛子から聞いた情報です。
寛子は父である頼道(道長の子)から
この情報を聞いたのです。
【原文】
中原師元「中外抄」より引用
仰せて云うやう、「北向きにて手を洗ふは福の付く也。『「御堂は慮外ニ他方ニ向きテ洗はしめ御しける時も、思し食し出でテハ、所のぬるるも知ろし食さず、左右も無く向かはしめ給ひけり」と宇治殿ハ語らしめ給ひき』とぞ、故四条宮ハ仰す事ありし」と。
【現代語訳】
忠実さまがおっしゃるには、「北向きで手を洗うのは、裕福さを得る行為である。『「藤原道長は、うっかり別の方角を向いて手を洗ってしまわれた時も、北の方角を向くのが良いと思い出されると、周辺が濡れるのも気になさらず、躊躇なく北に向いていらっしゃった。」と頼道さまは語っていらっしゃいました』と四条宮寛子さまが語っていらっしゃったのことであった。
そして道長は、
「自分は若い頃は貧乏であって悲しかったから、
このようにして裕福さを求めているのだ」と
息子・頼道に語っていたのです。
道長の裕福さへの執着が強く表れた
エピソードですね。
「この世をば」の和歌を詠んだ
藤原道長は、
以下の和歌を詠んだことで有名ですね。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
(現代語訳)
この世は私のための世だと思う。
満月が丸く満ち足りて欠けているところがないように
この世も完璧に私のものなのだ。
この和歌を詠んだのは、
1018年(寛仁2年)道長が53歳のときです。
孫である後一条天皇が元服し、
さらに後一条天皇に四女の威子を入内させ、
中宮に立てた年です。
10月16日、威子立后の儀式が終わった後、
土御門邸(道長の邸宅)にて
祝宴が開かれたときにこの和歌を詠んだのです。
道長はこの世の春に満足し、
おごり高ぶっていたのです。
ただし、この時には既に
道長の体は病魔に蝕まれていました。
道長はすでに目がよく見えない状態になっており、
翌年には病状が悪化し、出家しています。
道長は人生の終わりを意識し始め、
極楽往生のため法成寺の建立を急ぎ、
終活に意識を傾けるようになるのでした。
道長の容姿はイケメンだった?
藤原道長の容姿については、
資料が多くは残っておらず、
詳しくはわかりません。
しかし、ブサイクではなかったと思います。
むしろイケメンの部類に入ったのではないでしょうか。
道長の外見にかかわる資料を
いくつか見てみましょう。
「紫式部日記」の記述
「紫式部日記」には道長の容姿について
述べた下記の一文が見られます。
【原文】
「紫式部日記」より引用
こよなからぬ御酔ひなめれば、いとど御色合ひきよげに、火影はなやかにあらまほしくて、
【現代語訳】
ひどい御酔態ではないようなので、ますますお顔の血色も美しく、火影に映えて理想的なお姿で、
1010年(寛弘7年)道長45歳の記述です。
紫式部は、道長の姿について「あらまほし」
という言葉を使っています。
45歳の道長の姿は理想的であり、
中年の男として立派で整った容姿を
していたのではないでしょうか?
「大鏡」の記述
「大鏡」でも、道長の容姿は褒められています。
【原文】
「大鏡」より引用
折々につけたる御かたちなどは、げにながき思ひ出でとこそは人申すめれ。
【現代語訳】
何かある折々につけての道長様のご容姿などは、本当に、後々までの思い出となるものだ、と世間の人々は申しているようです。
扇に降りかかった雪を払いのける仕草が、
非常に素晴らしかったとのこと。
顔立ちについては語られていないので、
わかりませんが、姿や仕草は美しかったようです。
「大鏡」では、道長のことを
「世間の光にておはします殿」と呼び
褒め称えています。
「中外抄」の記述
藤原道長は顔の出っ張っている部分
(鼻・頬骨)
が赤かったと伝わっています。
先に引用した「紫式部日記」にも
顔の血色がよかったと書かれていましたね。
兄・道隆の美貌
藤原道長の兄、道隆は
イケメンだったことで有名です。
また、道隆の息子、伊周も容姿端麗でした。
道隆の娘、定子も美人だったと思われます。
道隆一族の美貌については、
こちらの記事で解説しています。
兄と甥がイケメンだったということは、
道長自身もかなり整った容姿をしていたと
推測できます。
この記事では、藤原道長の性格や人生について
詳しく解説しました。
道長についての史実を知ることで
大河ドラマ「光る君へ」もより楽しめますね😊
当ブログでは、「源氏物語」の内容についても
詳しく解説しています。
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