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撫子
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30代後半の主婦。
高校生の頃から源氏物語に興味を持ち始めました。大学では源氏物語を研究し、日本語日本文学科を首席卒業しました。
30代になり、源氏物語を改めて学びなおしています。
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大河ドラマ「光る君へ」放送中! 漫画「あさきゆめみし」で源氏物語を学ぼう!

藤原道長の性格や死因、家系図などを紹介!どんな人だったか年表やエピソードも添えて詳しく解説!

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源氏物語 初心者
藤原道長ってどんな人だったの?性格やエピソードが詳しく知りたい!


2024年の大河ドラマ「光る君へ」が放送され、
藤原道長の人生に注目が集まっていますね!

この記事では、
道長の人生や人柄についてエピソードや
年表も含め、詳しく解説しています✨

この記事でわかること

【藤原道長について】
・性格
・死因と最期の様子
・家系図
・兄弟、子どもの一覧
・詳細な人生年表
・エピソード(逸話集)
・容姿

この記事を読むことで、
道長を深く理解して、大河ドラマを
より楽しむことができるようになります!

筆者
史実とドラマの違いを楽しんでみてくださいね。

目次

藤原道長はどんな性格だった?

源氏物語 初心者
「光る君へ」の道長はずいぶん優しい人だね。実際に優しい人だったの?


「大鏡」や「小右記」などの
記録に残された言動から、
藤原道長の性格を推測すると、
以下のような特徴が浮かび上がりました。

  • 負けず嫌い
  • 男らしく豪胆
  • 気前が良い
  • 亭主関白
  • 自信家

気が強く、野心家の道長は、
家柄と運に恵まれ、出世街道を突き進み、

ついには天皇の代わりに政治を行う
摂政という地位まで昇りつめ、栄華を極めたのです。

筆者
残念ながら、「優しい人」という印象はありません…。姪・定子の産んだ敦康親王を排斥していますし、かなり冷酷な一面があります。


それでは、実際の記録の内容から、
道長の性格を詳しく見ていきましょう。

肝が据わっていて勇気がある

「大鏡」によると、花山天皇は
気味の悪い雨夜に藤原氏の三兄弟
道隆、道兼、道長)に肝試しを提案しました。

道隆は豊楽殿、道兼は仁寿殿、
道長は大極殿に行くよう命じます。

筆者
夜の内裏は暗く、人影もなく、恐ろしい雰囲気だったのですね。


↓内裏図は以下の記事で詳しく解説しています↓

兄・道隆と道兼は
天皇からの肝試しの提案に困惑しましたが、
道長は、

「いづくなりとも、まかりなむ。」

【現代語訳】
どこへでも、まいりましょう。

「大鏡」より引用

と平然としていました。

怖がっていた道隆と道兼は肝試しの途中で、
幽霊のようなものが
見えたり聞こえたりして引き返してしまいます。

源氏物語 初心者
「怖い、怖い」と思っていると、木の枝さえお化けに見えるよね。


ところが、道長は見事、
肝試しを最後までなしとげ、
大極殿の高御座の柱から削り取った屑を
証拠として天皇に献上したのです。

「紫式部日記絵巻」より
藤原道長
「紫式部日記絵巻」より
藤原道長

この逸話からは、道長の
肝が据わっていて勇気のある性格
読み取れますね。

筆者
道長が20歳前後の頃の話です。

負けず嫌いで気が強い

ある日、
父・兼家が道長のいとこにあたる
藤原公任の優秀さを褒めました。

兼家が、
「私の子供たちはあの男(公任)の影さえ踏めないのは残念だ」

と言うと、兄の道隆、道兼は恥じ入って
何も言い返せませんでした。

ところが道長は

「影をば踏まで、面をや踏まぬ。」

【現代語訳】
「影を踏まないで、顔を踏みつけてやる。」

「大鏡」より引用

と、きっぱり言い切ったのです。

公任のほうが優秀だと言われ、
腹を立てたのでしょう。

自分ならば公任の影どころか、
直接、顔を踏みつけることができる!


と豪語したわけです。

道長は負けず嫌いで、
気の強い性格だった
と分かります。

「紫式部日記絵巻」より
画像右側の中央が藤原公任
「紫式部日記絵巻」より
画像右側の中央が藤原公任

血気盛んで性急な性格

988年(永延2年)道長23歳の頃のこと。

道長の推薦により受験した甘南備永資が
式部省の試験に落第してしまいました。

怒った道長は、従者を使わして
試験官を務めていた橘淑信を捉えてしまいました。

道長は、橘淑信を車に乗せず
徒歩で道長邸に連行し、
試験結果を改ざんするよう迫ったのです。

筆者
この逸話は、藤原実資の「小右記」に記載されており、「天下の人が嘆いたところである」とも書かれています。


源氏物語 初心者
道長の横暴が、都中に広まってしまったってことか!

このエピソードからは、
道長の性急でやや乱暴な性格
表れていますね。
当時23歳の道長はずいぶんと血気盛んでした。

「紫式部日記」より 藤原道長の姿
「紫式部日記」より 
一条天皇の土御門邸行幸に備え、竜頭鷁首の船を検分する藤原道長

気前が良い

989年(永祚元年)4月28日、
道長24歳の頃、兼家邸の競馬で、
衣を脱いで乗り手に与えています。

同年、11月13日にも殿上人の小食を
道長が調達しています。

これ以降も、道長は人々によく碌を与えたり、
夜食をふるまったりしています。

人に物を与えたがる、
気前のよい性格がうかがえますね。

亭主関白な性格

道長は「御堂関白記」の中で
正妻・倫子のことを「女方(にょうぼう)」
と呼んで言います。

平安時代において、
一般的に「にょうぼう」とは
宮仕えしている女房を指しました。

道長は、
2つ年上で宇多天皇の三世孫の倫子に対して
宮仕えしている「女房」と同じ呼び方を
しているのです。

筆者
敬意がない呼び方ですよね。


源氏物語 初心者
道長は「おまえは俺について来い!」って感じの旦那さんだったのかな?

道長はかり亭主関白な性格だったのかも知れません。

自信家で自画自賛する性格

娘の彰子が一条天皇との子・敦成親王を
出産し、五十日の祝いの祝宴が開かれた夜、
道長は酒に酔って以下の発言をしています。

【原文】
宮の御父にてまろ悪ろからず、まろがむすめにて宮悪ろくおはしまさず。
母もまた幸ひありと思ひて、笑ひたまふめり。
良い夫は持たりかし、と思ひたんめり

【現代語訳】
「中宮の父君として、私は悪くはありませんし、また、私の娘として中宮も悪くはいらっしゃいません。
母(倫子)もまた幸せだと思って、笑っていらっしゃるようだ。(倫子は)良い夫を持ったなあと、思っているのだろう」

「紫式部日記」より引用

自分は中宮の父にふさわしいと
かなり自己評価が高いです。
妻の倫子もきっと幸せだろうと自信たっぷりです。


筆者
このとき、娘の彰子が一条天皇の男皇子を出産し、外戚政治の道が開かれたことで、道長は有頂天でした。

「紫式部日記絵巻」より
手前の男性が道長。祝いの餅を献上している。
赤子を抱いているのは倫子。後ろ姿の女性が彰子。
「紫式部日記絵巻」より
手前の男性が道長。祝いの餅を献上している。
赤子を抱いているのは倫子。後ろ姿の女性が彰子。

道長は自信家で調子に乗りやすい性格だったのです。

源氏物語 初心者
藤原道長の性格は分かってきたよ!怖いもの知らずで気が強くて自信家だったんだね。


大河ドラマのおっとりした雰囲気の
道長とはかなり違うイメージですね。

では、そんな道長の最期は
どのような様子だったのでしょうか?

次は死因や最期の様子などを
詳しく見ていきましょう。

藤原道長の死因は糖尿病だった!?

藤原道長の死因は、
糖尿病だったと言われています。


62歳で亡くなりました。

以下、病状の記録と最期の様子を解説していきます。

飲水病(糖尿病)の発病

1016年(長和5年)、5月10日
道長は法華三十講を開催します。

筆者
道長が51歳の頃の話です。


そこに出席した人物は、道長の様子を実資に語っています。

中間で必ず簾の中に入っていたのは、水を飲んでいたのではないか。顔の赤味がなくなり、気力は無い。死期は遠くないのではないか。

「小右記」より

法華三十講において、
道長はかなり体調が悪そうで、
水を隠れて飲んでいました。

5月11日には道長は実資に、
「3月から頻繁に水を飲む。
口が乾いて力が無いが、食事は減らない」
と語っています。

糖尿病の症状として、
高血糖により腎機能に影響を与え、
尿の量が増えて脱水の状態となることがあります。
喉が渇いてよく水を飲むのは、
糖尿病の症状であった可能性があります。

当時、飲水病(糖尿病)は多くの
貴族を苦しめていました。

道長もおそらく糖尿病だったのでしょう。

平安時代の貴族は山盛りの白米を食べていました。
さらに道長は蜜をかけた
蘇(牛乳を煮詰めて作ったチーズのようなもの)
を食べていたと記録に残っています。
道長は炭水化物の過剰摂取により
糖尿病になったのです。

再現された「蘇」
再現された「蘇」
源氏物語 初心者
美味しいものばかり食べてたから、糖尿病になったんだね。

狭心症の併発

さらに1018年(寛仁2年)
53歳の頃に道長は胸の病気を患っています。

特定の箇所というより
心神の具合が悪くなっていて、
かなりの重病となったと記録されています。

胸の病気というのが、
心臓神経症なのか、狭心症なのかは不明です。

筆者
ただ、糖尿病患者は、狭心症になりやすいと言われています。

白内障を併発

1019年(寛仁3年)、
道長54歳の年に病状は悪化します。

スクロールできます
日付病状
1019/1/10胸病により意識朦朧に。
1019/2/3嘔吐下痢を起こす。
1019/2/4体調は回復するが、眼病発病。
2、3尺(60cm~90cm)先の人の顔も見えない。
手にとるものだけが見える。
1019/3/18再び胸の発作が起きる。
1019/3/21出家
道長54歳 病状の悪化の過程

糖尿病は消化器系の機能障害を起こします。
道長が嘔吐下痢で苦しんだのも
糖尿病の合併症だった可能性があります。

視力の低下も糖尿病の合併症としての
白内障、網膜症だったのでしょう。

道長は病状の悪化に苦しみ、
ついに出家を遂げ、念仏を唱えて
極楽往生を祈るようになりました。

出家後、3/29には実資が道長を訪れますが、
その容貌は老僧のようだったといいます。

道長の最期の様子

道長の没年は、1027年(万寿4年)です。
享年62歳でした。

最期の年の闘病は壮絶なものでした。

この年は正月から体調が悪く、
6/4には飲食を受け付けなくなり
衰弱が著しくなりました。

秋頃からはどんどん病状が悪化していきます。

スクロールできます
日付病状
1027/10/28娘・妍子が死去して四十九日の法要
道長は下痢に悩まされ、出席できず。
1027/11/10床に臥せったまま糞尿を出す状態に。
1027/11/21無気力で、下痢が続き、飲食は全く絶える。背中には腫瘍あり。
1027/11/25極楽往生を願い法成寺阿弥陀堂の九体阿弥陀像の前に移る。
1027/12/1但波忠明により背中の腫瘍に針が刺される。膿と血が出て、道長は痛みに叫ぶ。
1027/12/3意識不明だが、胸だけ暖かく、頭だけが揺れ動いている状態に。
1027/12/4早朝、死亡確認。
道長の最期 

藤原道長は、九体の阿弥陀如来像の手から自分の手まで糸で結びつけ、
釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、亡くなったのです。

「平家納経」
阿弥陀如来(左上)から経巻を持つ女性に差し込む光明。
貴族たちは極楽浄土を求める願望が強かった。
「平家納経」

病状の経緯から見て、道長は
糖尿病にともなう様々な合併症により
衰弱して亡くなっていったと考えられます。

源氏物語 初心者
道長は壮絶な闘病生活を送ったんだね…。

道長のお墓

道長の遺骨は、
現在の京都府宇治市木幡の「宇治陵」に
葬られました。

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