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・光源氏のモデルは誰なのか?
・光源氏は実在する人物だったのか?
光源氏は、
誰か一人をモデルにしたのではなく、
複数の人物の性格やエピソードを
組み合わせて形成された人物と言われています。
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この記事では、
光源氏のモデルとして有名な人物を
紹介しますね。
\光源氏のクズエピソードはこちら/
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藤原道長
藤原道長は、
紫式部が仕えた中宮彰子の父親です。
紫式部が「源氏物語」を
執筆するのをサポートしました。
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道長は、後一条天皇の
外祖父として栄華を極めました。
※後朱雀天皇・後冷泉天皇も
道長の孫です。
![紫式部日記絵巻 藤原道長](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/09/michinaga-fujiwara.webp)
![紫式部日記絵巻 藤原道長](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/09/michinaga-fujiwara.webp)
光源氏も、明石の君との間に
生まれた明石の姫君が中宮となり、
その子が東宮(次期天皇)となることで、
大きな権力を握りましたね。
外戚政治で栄華を極めたところ。
紫式部は、身近な存在だった
藤原道長の栄華物語を、
光源氏に反映させたのかも知れません。
\道長の性格や人生を詳しく解説/
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在原業平
在原業平は、
平安時代初期の貴族であり、
「伊勢物語」の主人公とされています。
(生誕825年-死没880年)
平安時代の歴史書「日本三大実録」によると
業平は大変な美男子だったと記録されています。
「伊勢物語」では、
宮中へ入内予定だった藤原高子や、
伊勢の斎宮との禁断の恋が描かれています。
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また、藤原高子との
スキャンダルの処罰として
在原業平が東国へ流離する「東下り」の話は、
光源氏の須磨・明石への退去の
モデルになったと言われています。
![業平は高子を連れて都を逃げ出すが、高子の叔父に見つかってしまう。
高子は何事もなかったかのように清和天皇のもとに入内した。
「伊勢物語図色絵 六段芥川」俵屋宗達](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/01/narihira-takako.webp)
![業平は高子を連れて都を逃げ出すが、高子の叔父に見つかってしまう。
高子は何事もなかったかのように清和天皇のもとに入内した。
「伊勢物語図色絵 六段芥川」俵屋宗達](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2024/01/narihira-takako.webp)
高子は何事もなかったかのように清和天皇のもとに入内した。
「伊勢物語図色絵 六段芥川」俵屋宗達
・光源氏の反体制的な性格
・女たらしな性格
・美男子である点
・地方に流離する話
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紫式部は、
在原業平の性質や設定を光源氏に
投影させている可能性が高いでしょう。
「伊勢物語」をかなり読み込んでいたのでしょうね。
在原行平
在原業平の兄。
(生誕818年-死没893年)
理由は不明ですが、
文徳天皇に嫌われたのか
須磨に流された経験があります。
そして須磨で現地の姉妹と恋をします。
![月岡芳年 在原行平](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/09/yukihira.webp)
![月岡芳年 在原行平](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/09/yukihira.webp)
光源氏も須磨・明石に流され、
現地の女性(明石の君)と恋をしますね。
・須磨に流された点。
・流浪先で現地の女性と恋をした点。
光源氏の女たらしな人格と
地方に流されるエピソードは、
在原業平・行平兄弟から
着想を得ているのかも知れません。
源融
源融は嵯峨天皇の皇子ですが、
臣籍降下して源氏になりました。
(生誕822年-死没895年)
天皇候補の一人でしたが、
臣籍降下したことを理由に
皇位につけなかったと伝わっています。
風流を愛し、
源融が作った六条河原院は、
源氏物語で光源氏が作った
六条院のモデルになったと言われています。
また、光源氏が夕顔と過ごした
「なにがしの院」も六条河原院が
モデルという説があります。
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・臣籍降下して源氏を名乗った点。
・風流好きである点。
・六条河原院を作った点。
光源氏が六条院という
立派な御殿を建てるエピソードは、
源融を意識していそうですね。
源高明
源高明は醍醐天皇の皇子で、
臣籍降下して源姓を名乗った人物です。
(生誕914年-死没983年)
学問に優れており、朝廷でも
重用されていましたが、
「安和の変」により藤原氏に
失脚されられました。
高明は九州に流されます。
数年後に帰京しますが、
政界には復帰できませんでした。
・臣籍降下して源氏を名乗った点。
・学問に優れていた点。
・地方に流された点。
・母が更衣だった点。
源高明は光源氏のモデルの一人
だった可能性があります。
また、源高明の父、醍醐天皇は
光源氏の父、桐壺帝のモデルではないかと
言われています。
醍醐天皇の御代には、
女御・更衣が20人ほどいて、まさに
「女御・更衣あまたさぶらいたまひける」
状況でした。
さらに「源氏物語」と同様に、
醍醐天皇も摂政・関白を置かず、
天皇親政を行ったのです。
(延喜の治)
紫式部の頭の中では、
源氏物語のモデルとして
醍醐天皇=桐壺帝
源高明 =光源氏
という構造があったのではないでしょうか。
光孝天皇
光孝天皇は任明天皇の皇子で、
和歌や和琴を好み、風流な文化人でした。
(生誕830年-死没887年)
任明天皇の寵愛を受けていた母は
光孝天皇が10歳の折に早世します。
849年に、
渤海国大使の王文矩が
「必ず天子の位につく相である」
と鑑定しました。
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その鑑定のとおり、
光孝天皇は、55歳で天皇に即位します。
・風流な文化人であった点。
・母親を早くに亡くした点。
・外国の人間に人相鑑定を受けている点。
宇多天皇
宇多天皇は、光孝天皇の皇子です。
(生誕867年-死没931年)
いったんは臣籍降下し源氏姓を名乗ったが、
天皇として即位しました。
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![仁和寺 宇多天皇像](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/09/Emperor-Uda.webp)
![仁和寺 宇多天皇像](https://ryoutei-senryu.jp/wp-content/uploads/2023/09/Emperor-Uda.webp)
「今昔物語集」には
以下のようなエピソードが見られます。
宇多院が、六条河原院で
京極御息所(藤原褒子)と寝ていると
源融の怨霊に
「御息所(褒子)がほしい」と脅された。
宇多院は断ったが
御息所はぐったりしてしまった。
宮中に戻って祈祷させると、御息所は蘇生した。
このエピソードは、
光源氏と夕顔のエピソードによく似ていますね。
・臣籍降下して源姓を名乗った点。
・六条河原院で一緒にいた女性が
怨霊にとりつかれたエピソード。
藤原伊周
藤原伊周は、藤原道長の甥です。
(道長の兄・道隆の息子)
(生誕974年-死没1010年)
紫式部と同じ時代を生きた人物です。
容姿が美しかったことで有名であり、
「枕草子」の中で清少納言もふれています。
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◆◇出演者発表 第4弾◇◆
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) May 23, 2023
<道隆の嫡男>#藤原伊周(ふじわらのこれちか) 役#三浦翔平 さん#光る君へ pic.twitter.com/v6NaRi8MqF
伊周は、
23歳のとき女性問題を起こします。
【伊周の女性問題】
伊周は故太政大臣藤原為光の娘
三の君の元に通っていました。
花山天皇は同時期に同じ家の
四の君に通っていました。
伊周は、花山天皇が自分の恋人・
三の君に通っていると勘違いして、
花山天皇の衣の袖を弓で
射抜いてしまいました。
西暦996年の事件です。
また、東三条院(藤原詮子)を
呪詛した疑いもかかり、
九州の太宰府に流されました。
・容姿が美しかった点。
・女性問題で地方で流された点。
藤原実方
藤原実方は、平安時代初期の貴族です。
(死没999年)
風流な美男子であり、女たらし。
清少納言を始め、20人以上の女性と
関係があったとされます。
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一条天皇の目前で、
藤原行成と和歌について口論となり、
陸奥国へ左遷されたと伝わっています。
・風流な美男子であった点。
・女たらしだった点。
・地方へ流された点。
源光
源光は、任明天皇の御子で、
臣籍降下して源姓を名乗った人物です。
(生誕845年-死没913年)
名前は「光」ですが、
名前と臣籍降下以外の
類似点はありません。
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・臣籍降下して源氏を名乗った点。
・「光」という名前。
敦慶親王
敦慶親王は、宇多天皇の第四皇子です。
(生誕888年-死没930年)
美男子だったことで有名で、
「好色無双の美人」と評価されていました。
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和歌、弓、琴などにも優れ、
女性関係も盛んだったようです。
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父・宇多天皇の崩御後に、
伊勢御息所と恋愛関係に陥ったエピソードは、
光源氏と藤壺の関係性を彷彿とさせますね。
光源氏のモデルとなったのではないかと
言われています。
・美男だった点。
・女性関係が派手だった点。
・父の妻と通じた点。
惟喬親王
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子です。
(生誕844年-死没897年)
父帝に可愛がられていたが、
母親が政治的勢力をもたない
紀氏の出身であり、
後ろ盾がないために東宮になれませんでした。
・父帝に可愛がられていた点。
・母の身分が低いため、東宮になれなかった点。
敦康親王
敦康親王は、一条天皇の第一皇子です。
(生誕999年-死没1019年)
母は中宮定子です。
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母定子の伯父、藤原伊周の失脚により
実家は力を失っていました。
さらに、母定子は
敦康親王が2歳の頃に亡くなってしまうのです。
敦康親王は、中宮の皇子である上に、
頭もよく、気品のある人物でしたが、
後ろ盾がないために、東宮になれないまま、
20歳という若さで病死しました。
・幼い頃に母を亡くした点。
・頭がよく、気立ても良かった点。
・後ろ盾がなく東宮になれなかった点。
母・定子の没後は、
藤原道長の娘・中宮彰子が養母として
敦康親王の養育をしています。
「源氏物語」では、紫の上は
光源氏が別の女に産ませた娘の
養母となっていますね。
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敦明親王
敦明親王は、三条天皇の第一皇子です。
(生誕994年-死没1051年)
東宮になっていましたが、
藤原道長からの圧力を受け
東宮を辞退しました(1017年)。
そして、東宮辞退の
見返りに准太政天皇の待遇を得たのです。
紫式部と同じ時代の人物で、
光源氏と同じく
准太政天皇の待遇を得た実例ですね。
・准太政天皇の待遇を得た点。
大物主神
最期に、実在の人物ではないモデルを
紹介しましょう。
大物主神も、光源氏のモデルと言われています。
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「古事記」には大物主神と
活玉依姫(いくたまよりひめ)の恋物語が
描かれています。
美しい女性・活玉依姫のもとに、
夜な夜な美男子が訪れるが、名乗らない。
男の素性を知りたいと思い、
姫は麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺した。
翌朝、糸を辿っていくと三輪山にたどり着いた。
姫は、男が大物主神であったことを悟った。
この恋物語が、
光源氏と夕顔の物語に
似ていると言われています。
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紫式部は大物主神の神話を念頭において、
夕顔の帖を書いたのかも知れませんね。
光源氏は物語中で折につけて
「この世のものでないくらい美しい」
「仏の迦陵頻伽のお声のようだ」
「神に魅入られそうに美しい」
といった表現で褒められています。
紫式部は光源氏に、
神様のような性質を付与していたのです。
・夕顔に忍び通うエピソード
源氏物語のあらすじが読みたい方は、
こちらの記事がおすすめです!
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光源氏は実在する人物だったのか?
光源氏は、実在した人物ではありません。
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これまで紹介してきた通り、
光源氏は何人もの実在の人物との
類似点があります。
藤原道長がモデルなのではいか?
在原業平がモデルなのではないか?
と様々に議論されてきました。
紫式部は、誰か一人の人物をモデルに
したわけではありません。
身近な人物だけではく、
歴史上・伝説上の複数の人物から
着想を得て、光源氏という人物像を創り上げたのです。
藤原道長、在原業平、源高明、
源融、敦康親王がモデルとして有名ですが
誰が正解ということではなく
複合的な人物像として
光源氏が出来上がったのでしょう。
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この記事では、
光源氏のモデルと言われている人物を15人紹介しました。
まだ源氏物語の現代語訳に
チャレンジしていない方は、
こちらの記事を参考にぜひ挑戦してみてくださいね。
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わかりやすい現代語訳の本を紹介しています😊