滋賀県大津市にある石山寺は、
紫式部が「源氏物語」を書き始めた場所として
知られていますね。
2024年大河ドラマ「光る君へ」の
大河ドラマ館も開催されています。
この記事では、石山寺と源氏物語の関係を
中心に詳しく解説しています。
・石山寺と紫式部の関係
・石山寺の源氏の間と紫式部像の紹介
・「光る君へ」大河ドラマ館の情報と
実際に見てきた感想
・源氏物語で石山寺が登場する箇所
この記事を読むことで、
石山寺と「源氏物語」および紫式部との関係が
しっかりわかります😊
石山寺は源氏物語が誕生した場所?紫式部との関係
滋賀県の石山寺は、
紫式部が「源氏物語」の着想を得た
という伝説で有名です。
寛弘元年(1004年)、中宮彰子による
「新しい物語を読みたい」という要望を受け、
紫式部は石山寺に7日間参篭し、
物語の構想を練っていました。
その際に、紫式部は
琵琶湖の湖面に映る十五夜の月を見て
須磨に流された貴公子が月を眺め
都を恋しく思うシーンを思いついたのです。
これが「源氏物語」の誕生であり、
紫式部は「須磨」「明石」の巻から
「源氏物語」を書き始めました。
しかし、その伝説はあくまで伝説であり
歴史的事実として確認できるものではありません。
伝説がウソである可能性が高いのです。
石山寺と紫式部・「源氏物語」との関係について、
以下に詳しく説明します。
伝承の真偽について考えていきましょう。
紫式部は実際に「石山詣」を行った?
石山寺は奈良時代に創建された観音霊場です。
平安時代において、
京都の清水寺や奈良の長谷寺と並んで
三観音の一つとされていました。
平安時代には、石山寺参詣が
貴族の女性たちにたいへん人気でした。
当時は観音信仰が盛んであり、
現世利益と来世の幸福と
両方を祈願できる仏様として多くの
信仰を集めていたのです。
さらに琵琶湖の美しい景色を眺め
られるため、観光的要素もあった
かも知れません。
「蜻蛉日記」の作者・藤原道綱母や
「更級日記」の作者・菅原孝標女などが
石山寺に参詣したことが記録されています。
しかし「源氏物語」には
石山寺に関する記述がいくつか見られますし、
当時の貴族女性で流行していたことから、
紫式部も石山寺に参詣したことが
あったかも知れませんね。
ちなみに紫式部の邸宅があったとされる
京都の蘆山寺から滋賀の石山寺までは
徒歩4時間半かかります。
距離にすると19.2km。
ハーフマラソンと同じくらいですね。
朝から出かけて、何度か休憩を挟んだとしても
日が暮れるまでには着く距離です。
都からほどよい距離で、
美しい琵琶湖の風景も楽しめる
石山詣は平安時代の貴族にとって
ちょっとした気分転換だったことでしょう。
石山寺の紫式部伝説は嘘?
紫式部が「源氏物語」を石山寺で
起筆したという伝説は、
後世の創作である可能性が高いと考えられます。
この伝説は、「石山寺縁起絵巻」の詞書や
「源氏物語」の古注釈書である「河海抄」などに
見られますが、いずれも紫式部の没後に書かれたものです。
「源氏物語」の中にも
作者が石山寺で物語を書いたことが
読み取れるような部分はないのです。
「源氏物語」は平安時代の
1001年(長保3年)から1010年代前半の間に、
宮中や紫式部の居宅で書かれたと考えられています。
\源氏物語の成立について詳しく解説/
石山寺の寺宝 「源氏物語絵巻(末摘花)」や「紫式部図」・硯
紫式部が石山寺で「源氏物語」を書いたと裏付ける
証拠はありません。
しかし、石山寺は、
「源氏物語」に関連する寺宝を
数多く所蔵しています。
例えば、
江戸時代に土佐光起によって書かれた
「源氏物語絵巻(末摘花)」(重要文化財)。
夕顔の死を描いた絵巻が話題になっていますが、これと同じ盛安本の「末摘花上」は石山寺が所蔵しています。同一セットと思われる「桐壺」「帚木」などは世界各地に所蔵されており、もし54帖すべての絵巻が存在したなら、数百巻にのぼる大絵巻セットであったことが想像される「幻の源氏物語絵巻」です。 pic.twitter.com/xGiQ0wghu1
— 石山寺 Ishiyamadera (@Ishiyamadera_T) January 16, 2019
同じく土佐光起筆の紫式部図は、
教科書などにも載っていて有名ですね。
承応3年(1654)から延宝9年(1681年)の間に
描かれたと考えられています。
紫式部が使用したとされる石硯なども
大切に保管されています。
テレビで石山寺の特集してた!!紫式部さんが使ってた硯だって…触媒にならんかな… pic.twitter.com/VSJ6HddoNi
— 二太郎🐴💕 (@2taro_cos) February 13, 2019
石山寺の紫式部伝説を書いた
石山寺縁起絵巻も重要文化財です。
石山寺で紫式部が「源氏物語」を起筆したという
伝説は歴史的事実としては疑わしいものですが、
「源氏物語」の享受史や文化史においては
重要な役割を果たしています。
石山寺は、『源氏物語』の世界を感じることができる場所として、
今も多くの人々に親しまれています。
石山寺の源氏の間と紫式部像
源氏の間
石山寺では、
紫式部が「源氏物語」を執筆したと伝わる
「源氏の間」が公開されています。
「石山寺縁起絵巻」によると、
この部屋は皇族など身分の高い人が
使う部屋だったとのこと。
鎌倉時代末期は既に、
「源氏の間」と呼ばれていました。
紫式部像
境内には、紫式部の銅像も
据えられています。
本堂よりもさらに奥、光堂のそばにあります。
人気が少ないのでゆっくり撮影できますよ。
石山寺「光る君へ」大河ドラマ館の感想!
石山寺境内の明王院では、
「光る君へ」の大河ドラマ館がOPENしています。
会場 | 石山寺境内 明王院(滋賀県大津市石山寺1-1-1) |
---|---|
開催期間 | 2024年1月29日(月)〜2025年1月31日(金) |
開催時間 | 9:00〜17:00(最終入場16:30) |
石山寺 入山料 | 大人 | 600円 |
---|---|---|
子ども | 250円 | |
光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館 源氏物語 恋するもののあはれ展 入場券 | 大人 | 600円 |
子ども | 300円 | |
セット券(石山寺入山+大河ドラマ館) | 大人 | 1000円 |
子ども | 450円 |
※障害者手帳をお持ちの方は無料となります。
介助者1名は券種によって異なります。
大河ドラマ館の隣・世尊院では
「源氏物語 恋するもののあはれ展」が
開催されており、大河ドラマ館の入場券で
入ることができます。
筆者が実際に行ってきました!
以下、体験談です。
「光る君へ」大河ドラマ館の感想
大河ドラマ館の前も行列。
入るまでに数分待ちました。
展示内容としては、
吉高由里子さんが実際に着用した衣装や、
登場人物の紹介パネルの展示と映像上映です。
展示されていた衣装は、
まひろが五節の舞姫を務めた際の裳と唐衣です。
とても美しい衣装で、
生で見られて感動しました。
最も人気があったのは、
4Kシアターでの映像上映です。
キャストのインタビュー映像や
メイキング映像を交えて
ドラマの世界観が深堀されていました。
なかなか見ごたえのある映像でした😊
この映像は、大河ドラマ館でしか見られないので、
ぜひ最後まで見てみてくださいね。
小さな展示館なので、混雑していても、
1時間もあれば十分に見られると思います。
源氏物語 恋するもののあはれ展の感想
大河ドラマ館の隣では
「恋するもののあはれ展」が同時開催されています。
襲の色目や香り、花の種類など
平安時代の感覚を体験できる展示会です。
①襲の色目コーナー
平安時代の貴族女性は衣服を重ね着して、
配色美を楽しんでいました。
このコーナーでは、襲の色目について
一覧が紹介されていました。
テーブルにはカードの山が並んでおり、
気に入った色のカードがもらえます。
②香りのコーナー
平安時代の貴族は、お香を調合したり、
衣装に香りを移したりして楽しんでいました。
このコーナーでは、当時の香りの種類が
紹介されています。
源氏物語の登場人物をイメージした香りを
実際にかぐこともできます。
光源氏をイメージした香りや、
紫の上をイメージした香りなどが楽しめます。
③花の世界
好きな花を選ぶと、
スマホに恋のアドバイスが届く
デジタルおみくじも設置されていました。
パネルには平安時代において
貴族から愛された花が紹介されています。
④源氏物語と現代アートのコラボ
源氏物語に登場する和歌と、
現代アートとのコラボスペースも。
可愛いイラストともに和歌が解説されています。
④可愛いフォトスポット
外に出ると、
展示館のそばには可愛いフォトスポットが。
水に浮かべられている花は、なんと生花でした!
手前にはスマホ用の三脚も設置されており、
自由に記念撮影ができます。
「恋するもののあはれ展」も小さな展示会です。
30分もあれば充分でしょう。
石山寺物産館「紫 MURASAKI」
石山寺の東大門を入ってすぐに
物産館があります。
店内には、大河ドラマ「光る君へ」や
源氏物語関連のグッズがたくさん並んでいました。
大河ドラマファンや、
源氏物語好きにはたまらない物産店ですので、
石山寺にお越しの際はぜひ覗いてみてください!
源氏物語で石山寺が登場するシーンは?
以下、源氏物語の中に
石山寺がどのように書かれているかを
解説しますね。
関屋【光源氏の石山寺参詣】
源氏物語で、初めて石山寺が登場するのは、
「関屋」の巻です。
「関屋」の巻は、
光源氏と空蝉が12年ぶりに
再会する場面を描いています。
石山詣に行く途中の光源氏と、
常陸守の任期を終えた夫について
京へ帰る空蝉とは、逢坂の関で再会するのです。
【原文】
源氏物語「関屋」の巻より引用
関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。
【現代誤訳】
(空蝉一行が)逢坂の関に入る日は、ちょうど、この殿(光源氏)が、石山寺にご願果たしに参詣なさる日であった。
「願果たし」とは、願いが叶ったお礼に
神社や寺を参詣すること。
光源氏は須磨・明石の流浪生活から、
都に戻り政権復帰できたことのお礼に
石山寺を参拝した。
数日が経って、石山寺から京へ帰る日に、
光源氏は右衛門佐(小君)を読んで、
すでに京に入った空蝉に和歌を贈ります。
「関屋」の巻の石山寺参詣の記述として
注目するべきは、
逢坂の関の描写はかなり詳しいのに
石山寺についての記述が全くないことです。
【原文】
源氏物語「関屋」の巻より引用
九月晦日なれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、色々の襖のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。
【現代語訳】
九月の最終日なので、紅葉が色とりどりに入り混じり、霜枯れの草むらが趣深く広がっているところに、関屋(関所に建てられた小屋)からさっと現れ出た何人もの旅行者の姿の、色とりどりの上着に好ましい刺繍をし、絞り染めした様子も、美しく見える。
このように逢坂の関の光景は、
生き生きと描写されているのに対し、
石山寺の描写はないままに
光源氏は石山寺から帰ることになります。
紫式部は、少なくとも
「関屋」の巻を書いた時点では
逢坂の関までは行ったことがあったけれど、
石山寺には行ったことが
なかったのかも知れません。
真木柱【髭黒大将の恋が叶う】
次に石山寺が登場するのは、
「真木柱」の巻です。
髭黒大将は、ずっと片思いをしていた
玉鬘(光源氏の養女)の部屋に押し入って
無理やり男女の関係を結んでしまいます。
美しい玉鬘を自分のものした髭黒大将は、
非常に喜んで、
【原文】
源氏物語「真木柱」の巻より引用
石山の仏をも、 弁の御許をも、並べて預かまほしう
【現代語訳】
石山寺の観音も、弁の御許も、並べて拝みたい
※弁の御許:髭黒大将が玉鬘の部屋に忍び入るのを手引きした女房
という天にも昇る心境でした。
髭黒大将が玉鬘への恋愛成就を祈り、
石山寺に参詣していたことが推測できますね。
しかし、紫式部はこのような一文を添えています。
【原文】
源氏物語「真木柱」の巻より引用
げに、そこら心苦しげなることどもを、とりどりに見しかど、心浅き人のためにぞ、寺の験も現はれける。
【現代語訳】
なるほど、他にも多く気の毒な恋を、いろいろと見て来たが、思慮の浅い人の願いに、寺の霊験が現れたのであった。
他にも風流な貴公子が
玉鬘に片思いしていたのに、
石山寺の仏様は、思慮が浅く粗野な
髭黒大将の恋を叶えてしまったという
皮肉を指摘しています。
平安時代には、石山寺は女性の信仰を多く
集めていましたが、
「源氏物語」では光源氏や髭黒大将といった
男性も熱心に祈願していることがわかります。
浮舟【浮舟の石山寺参詣は叶わず】
最後に石山寺が登場するのは、
「浮舟」の巻です。
浮舟は薫の愛人となり、宇治の邸に
放置されていました。
浮舟は母と一緒に石山寺参詣に
出かける予定でしたが、
匂宮が薫のフリをして
浮舟と無理に関係を結んでしまい、
邸に居座ったのため、
浮舟は石山寺に行けなくなってしまったのです。
浮舟は匂宮と薫の間で気持ちが揺れ動き、
宇治川に入水をしますが、その決断にいたるまでに
「石山」という言葉がキーワードとして何度も登場します。
浮舟、石山寺参詣に行く予定だった
↓
匂宮が居座り石山寺参詣中止
↓
浮舟、石山寺参詣に行けず
退屈になる
↓
女房の右近、石山寺に願を立てる
当時、石山寺詣では、
現世利益の霊験があるとして
貴族女性からたいへん人気がありました。
もし浮舟が匂宮と関係を持ってしまう前に
宇治を出発して、石山寺を参詣できていたら、
浮舟は薫の側室として丸くおさまり、
入水という最悪の決断をしなかったでしょう。
仮に浮舟が匂宮と薫の三角関係の
運命から逃れられないにしても、
石山寺の観音様の霊験を得ていれば、
もう少し強く生きることができたかも知れません。
当時は、現代よりもずっと
人々の仏教への信仰心が深かったのです。
石山寺に参詣できなかったという後悔は、
浮舟の心に檻のように沈み、
入水⇒出家という
源氏物語の悲しい結末につながっていきました。
この記事では、石山寺と源氏物語の関係について
詳しく解説しました。
石山寺の近くには、
「源氏物語」の「関屋」巻の舞台である
逢坂の関もあります。
大津周辺には、
評価の高い旅館・ホテルが多いですので、
遠方の方もぜひ一度訪れてみてくださいね😊